魔王。魔なる者の王。魔剣を携えし最強種。人類の悪夢。絶望と死を司る絶対者。
魔王と呼ばれる存在は様々な異名を持つが、確固とした名は主従関係とされる魔族でさえ誰も知らない。魔族、上級魔族、魔将、彼の下に就く誰もが黒甲冑に身を包む剣士を魔王と称え、ただただ平伏すばかり。
魔王は勇者と並ぶ魔族の決戦存在であり、彼が持つ魔剣は神剣と並ぶ決戦兵器。全てが謎に包まれた闇の暗君はその身から溢れる激情を魔力に変換し、空を裂き大地を割る。絶対者である故に、魔王の行動と攻撃はありとあらゆる物理法則や魔術概念を超越した覇王の法則である。
魔剣の一撃がエルドゥラーの大斧を砕き、彼の鎧を斬り裂き血肉を啜る。斬られた部位が死の呪いにより壊死し、驚異的な速度で細胞を蝕み呪いを伝播させる。何処からどのような攻撃があって、何故斬られたのか。その理由をエルドゥラーは知覚出来なかった。
魔王が動き武器と武器がぶつかりあった瞬間は
「エ、エルドゥラー! 血が!」
「黙っていろ……今は、黙れ」
「けど、けど! 治療を、そうだ、私の術を!」
「黙れ―――」
背後から迫る殺意の奔流に息が詰まる。魔剣の禍々しい力により呪いが促進し、傷口から四肢へ壊死が侵食し、激痛に呻く。
「何処へ逃げる。何処へ向かう。貴様等は皆殺しだ、全員姿形を残さず殺してやろう。諦めろ人類。貴様等は出会ってはいけない存在と出会ったのだ」
勇者と対を成す決戦存在は剣を突き付け静かに歩み寄る。肉を踏み潰し、枯れ果てた草花が滴らせる血に染まった剣士がエルドゥラーとアニエスを殺害対象と見定め、真紅の瞳が更なる輝きを放つ。
「死ね、
空気が捻じれ、空間が歪む。空が罅割れると同時に虚ろなる月が砕け、巨大な目玉が二人を見下ろす。魔王が放つ殺意、憎悪、憤怒を体現した
「忌々しく憎々しい。意思無き傀儡に生は無し。故に、万象死に至れ。私が求める世界は死の静寂と無の地平。貴様等のような矮小な肉塊が生きることを許容しない。認めない。知りたくも無い。この世界に生命など存在しなければいい」
黒甲冑が軋み、魔剣が嘶く。激情が黒い業火となって装甲より噴出し、周囲の生命と魔力を根こそぎ喰らい尽くす。
「初めに、そこの耳の長い肉塊から殺してやろう」
真紅の瞳がアニエスを射抜き、魔剣が空間を斬り裂くと距離という概念を殺し、瞬く間に魔王が彼女の眼前に現れる。
叫ぶ暇も無かった。魔剣の刃が無慈悲に彼女の白い首筋を切断せしめようとした瞬間、一筋の星光が死の世界に奔り魔剣を弾いた。
「……勇者」
「魔王、少し気が早いんじゃないかな? まだ舞台は整っていないよ?」
闇と光の刃が交差し、星光と漆黒が激突する。目にも止まらぬ剣戟の最中でもエリンは余裕な表情を絶えず浮かべ、魔王との戦いの片手間にエルドゥラーへ与えられた呪いと壊死の傷を治療する。
「エルドゥラー!!」
「……何だ」
「君はアニエスを連れて逃げるんだ!! 退路は私が開く!!」
「エリン、お前は」
「私は大丈夫!! なんたって勇者だからね!!」
魔王の破界儀の中であろうとも彼女の言葉は絶望に染まっていなかった。破滅的な力に立ち向かい、傷を負った友を逃がそうとする様はまさしく勇者の姿そのものなのだろう。エリンの言葉を聞いたエルドゥラーは恐怖で身を竦ませたアニエスを肩に担ぎ、星光のしるべに従い死の世界を駆け抜ける。
「何よ、何なのよ、アレは……。この世界は、本当に、生物が作り出した世界なの……?」
「分からない」
「エルドゥラー、どうしてアンタはそんなに冷静なのよ!? 在り得ない、在り得ないわ、たった一人で別の世界を作り出すなんて馬鹿げてる!!」
「だが、これは現実だ。魔王が作り出した世界に俺達は存在していて、エリンのおかげで生きている。取り敢えず、今は逃げなければならない。魔王に俺達では敵わない」
「でも―――!!」
肉と臓物、血と死に塗れた世界。星光を辿り、エリンが確保した破界儀の裂け目を見つけたエルドゥラーは光の中へ飛び込む。
「でもじゃない」
「……」
「エリンは俺達のような凡人と比べ物にならない使命を背負っている。勇者であることの責務、強者の義務、彼女は一人で想像を絶する重荷を抱えているんだ。だから、今なら分かるだろう? お前がエリンを使ったり、仕えさせたりすることは不可能なんだよ。彼女には、彼女にしか出来ない戦いがあるんだ」
見慣れた戦場跡に放り出されたエルドゥラーは、肩に担いだアニエスを地面に降ろすと重い雨雲に覆われた空を見上げる。
「強者が強者を討つ。勇者が魔王と戦う。人類が魔族と殺し合う。人は、永遠に相容れないのかもしれない。だが、それでも、涙を流して不幸に嘆く者を見たくない。認めたくない。俺は、俺の破界儀に魔王のような力があれば、何もかもを殺せる力があれば、俺の手にしたい世界が手に入るんじゃないだろうか」
そうだ、全てを破壊し、滅尽滅相出来る力があれば全てを救えるのではないのだろうか?
魔王の破界儀に触れたことでエルドゥラーに宿る破界儀が活性化され、彼に異なる視点を与えようとする。
不幸に嘆き、不幸に泣き、不幸に涙するのは人類と魔族が争い合うせいだ。終わりが見えぬ戦乱が続き、勇者と魔王という
故に、エルドゥラーは知らず知らずの内に世界の真実の一端に触れる。力ある凡人として、勇者に成り得た素質を持つ英雄は、己が内に宿る黒金の輝きを放つ破界儀の存在を感知する。
「……ちょっと、エルドゥラー? アンタ、いったい何を言ってるの?」
「ああ、俺は大丈夫だ。そうか、エリンが言っていた意味は
あまりに簡単な答えに思わず笑いが込み上げ、それと同時に絶望と憤怒が腹の底から込み上げてくる。
茶番。この世界は茶番と地獄で成り立っている。生物の大半が重大な事実に気が付かぬ傀儡と道化で構成された歪な茶番劇。劇だからこそ終わりがない。終わりがないからこそ苦痛と苦難が強いられている。その事実に気が付いてしまったエルドゥラーは顔を手で覆い、腹の底から笑うと地面に膝を着き、慟哭する。
「……アニエス」
「な、なに?」
「君の瞳に、俺はどう映る」
「どうって……エルドゥラーはエルドゥラーでしょ?」
「……あぁ、そうだな」
罅割れ斬り裂かれた黄金の鎧を雨粒が叩く。
瞳に黄金を宿した