銀春亭に戻って来たサレナの目に映る光景は、号泣して酒を呷り続けるクオンとその姿を冷静に観察するアインの姿だった。
「ど、どうしたんですか? クオンさん? アイン?」
「ざ、ざれなちゃん、きみ、きみってば、苦労したんだねえ!!」
「え? え?」
サレナを抱き締めたクオンはおんおんと泣き喚き、その豊満な胸に少女の顔を埋める。クオンとアインとの会話の場に居なかった少女は状況を把握することが出来ず、自分を離そうとしないクオンの腕と胸の中で藻掻き、何とか顔を肉の間から上げた。
「ア、アイン、一体クオンさんは何故こんなに」
「これまでの旅路について話をしていたら泣き始めてな。それからどうしたらいいのか分からずに放置していた」
「ざれなちゃん! いつでも私を頼ってね! 私きみの力になるからねえ!」
「あの、なら、ち、力を、緩めて下さい」
「うん!!」
パッとサレナを解放し、態勢を崩した少女の身体を毛玉を操る猫のような動きで己の膝の上に乗せたクオンは、酒に酔った舌で料理を注文しサレナの頭を優しく撫でる。
「えっと、クオンさん、少し恥ずかしいのですが……」
「うん」
「自分の席に行くので、放して貰えると助かります」
「だめ」
「……アイン、どうしましょう」
「……少し待ってろ」
アインは溜息を吐き、クオンに近づく。彼女は潤んだ瞳で剣士を見つめると、だらしない微笑みを浮かべた。
「クオン」
「なぁに? アイン?」
「すまない」
「え?」
フッと目視出来ない手刀がクオンの首筋と顎を掠り、意識を奪う。白目を剥き、力なく項垂れたクオンの瞼を下ろしたアインはサレナの手を引き、空いている椅子に座らせる。
「あ、ありがとうございます、アイン。あの、クオンさんは」
「意識を奪っただけだ。殺しちゃいない」
「そうですか……」
飯女が料理を並べ、意識を失っているクオンを一瞥すると笑いながら「やっと寝たかいこの酔っ払い!」と歩き去る。
「食事にしよう、腹が減っているだろう?」
「ええ、そうしましょう」
食器を手に取り食事を進めるサレナを見つめ、バイザーの奥で僅かに笑みを浮かべたアインは周りを見渡し、独り言のように呟く。
「それにしても、色々あったな」
「何がですか?」
「お前と共に旅を始めてから、思い返してみると色々な事があった。クエースの町での戦い、上級魔族との戦い、お前を喰らおうとしていた魔族との戦い。戦ってばかりだった旅路の中でも、思い返してみるとお前が何時も居る」
「私の記憶にも、色付いた思い出の中にもアインが居ますよ?」
「……ああ、そうだな」
猛烈な勢いで料理を平らげていくサレナに自分の料理を追加で与え、少女は一瞬戸惑ったが剣士の瞳から了解の意を察すると頬を赤らめフォークとナイフで肉を切り分け口に運ぶ。
「アインは、食べないのですか?」
「お前が帰って来る前に食事を摂ったから大丈夫だ、安心しろ」
「そうですか!」
サレナから視線を外し、窓の外へ視線を向けたアインの瞳に光り輝く一番星が映えた。美しく、その輝きで人を導かんとする星にサレナの姿を重ねた剣士は少しだけ笑い、白銀の少女を眺めるのだった。
……
………
…………
……………
……………
…………
………
……
身体がびくりと痙攣し、瞼を上げたクオンは痛む頭を手で押さえ、身体に掛けられていた毛布を捲る。
淡く拙いランプの炎が揺れていた。炎は僅かな揺らめきを魅せ、ガラスの中で踊っているようにも感じられた。だが、闇の中で光を発するランプの炎よりも先にクオンが意識を向けたのは、自分の対面に座る父親であるハルの姿だった。
「起きたか、クオン」
「……」
「酒を飲んで感情的になるのは構わんが、少しは自制をというモノを知るべきだろう。その様では、これからの戦いに耐えられんぞ」
「……そうだね」
「分かっているなら己を強く持て。お前は秘儀を獲得したのだろう? 力を持つ者には大いなる責任が付き纏う。拳を握るその手には何を持ち、蹴り上げるその脚には何が乗っているのかを考えねばなるまい」
「うん」
暗闇の中、ランプの灯りに照らされる父の姿は想像以上に老いて見えた。皺の数も影のせいか深く刻まれているように、髪の艶も枯れているように感じた。
これが本当の父の姿なのだろうとクオンは心なしか理解する。従業員の前では己は未だ枯れず、並々ならぬ精気を醸し出しているが、それは仮の姿であってハルは既に老いて枯れかけていたのだ。
「クオン」
「お父様、ごめんなさい」
「……」
「私さ、まだまだお父様は若いと思ってた。ずっと私を見ていてくれて、正しくなければ道を示してくれると思ってた。けど、それじゃ駄目なんだよね」
ハルの澱んだ緋色の瞳にクオンが映り、彼女の父親譲りの緋色の瞳にハルが映る。
「苦杯を飲み下し、苦難と邪を恐れるべからず。綺麗な言葉だよね。生きる為の指標っていうかさ、なんというか、この言葉は私達の一族だけの言葉じゃないと思うんだ」
「……」
「全ての生命に対して当て嵌まるんだよ。生きる以上、苦杯を飲まねばならないし、苦難と邪は生命の前になり立ちはだかる。けど、正道を歩む生命は邪道には負けないんだ。生命は、邪を打ち払い苦難を乗り越える強さを苦杯を以て知る。お父様が昔私に言って聞かせた通りだと思うよ」
だから、私は生きる命に示したい。正道を征く全ての生命に、自分自身を意思と誓いを以て示すのだ。苦難を乗り越え、邪道を払う法を刻みたい。
「お父様、私また旅に出る。帰ってくる時、もう少しマシになった私を見せるからさ、期待してて」
「……ああ」
「じゃ、私寝るよ。お休み、お父様」
「クオン」
「なに?」
「お前の、母の事だが」
「お母様のこと?」
「……」
言葉にし辛い現実に、息が詰まる。ずっとずっと、言えなかった真実を口に出してしまう事を恐れてしまう。
「クオン、お前の母は」
「待った、私の方から答えを言ってもいい?」
「……」
「沈黙は肯定と受け取るよ。お母様は……死んでしまったんでしょ?」
「……知っていたのか?」
「いや、知らないよ。けど、やっぱり死んでしまっていたんだね。うん、何だか納得した」
クオンは何度か頷き、頭を掻くとハルを見据え、言葉を繋ぐ。
「お父様は私に言えない事があると言い淀む癖があるんだよね。昔、私がまだ小さかった頃、何度かお母様の事を聞いたけどお父様はハッキリとした答えを話さないで話題を変える事が多かった。薄々気が付いてたよ」
「……そうか」
「けどね、それがある意味での優しさだって事も気が付いていたよ」
「……」
幼い娘に母の死を告げる勇気が無かっただけとは言い難い。死を告げてしまえば、幼かったクオンの心は耐えられなかったのかもしれない。故に、ハルは彼女が己の意思を確立し、誓いを胸に抱くまで隠し通す事を決めたのだ。それが間違った優しさだとしても、ハルは嘘を重ね続けた。
「お父様、もう大丈夫。私は自分の意思と誓いを裏切らない。だから、安心してよ」
「……ああ、大きくなったな、クオン」
母親譲りの赤髪と美しく整った容姿。父親の技と訓示を抱いたクオンは満面の笑顔でハルの言葉に応え、銀春亭の自室へ向かう。
その背を見送ったハルは、ランプの炎を吹き消すと夜空の星を見上げた。