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夕暮れに、迷う人 ②

 怖かった。自分の命よりも重い存在であるサレナを失うのが、恐ろしかった。


 アインの口より吐き出された迷いは、渦巻く殺意の中に落とされた一滴の迷いの一雫であり、大海を染め上げる墨のように濃い疑念の塊。夕照に濡れる剣士は、拳を握り締めると憤怒と憎悪を孕んだ瞳で、刃に映った己を見つめた。


 「過去の記憶の通り、俺はお前を殺してしまうかもしれない。剣でお前を貫いてしまうのかもしれない。俺の剣はお前の為に在る物なのに、守るべき存在の命を刈り取ってしまうのかもしれない。それが怖いんだ、俺は」


 サレナと同じ顔をした少女を殺し、白銀の髪が血に濡れた記憶を想起する。


 白い花畑で交わした約束を反故にし、帰りを待っていてくれた少女の血が鋼を伝う。


 あの優しい微笑みと守るべき笑顔を自らの手で奪った記憶に、泣き叫び、嘆き、慟哭した己の声が鼓膜から離れない。血の感触も、温かさも、冷たさも、鋼から剥がれない。


 「過去の俺と、今の俺。命を断ち、奪う以外に能の無い俺は何の違いも無い悪鬼だ。守りたい者さえも守れず、約束の一つも果たせない。結局、俺は剣を振るって八つ当たりをしているだけに過ぎないのだろう」


 剣で敵を斬り、肉片と血を浴びるのは幼子が人形に八つ当たりをする行為に等しいとアインは語る。己の苛立ちや力不足、弱さを敵にぶつけているだけに過ぎない。抑えきれない感情の発露を戦闘でのみ発散させ、ただ迷い無く殺す。


 己はサレナに相応しく無いのだ。彼女のように寛容でも無いし、優しくも無い。戦い方が他よりも優れているだけで、他には何も無い。少女自身が持つ心の強さも無い、他人を認める器も無い、誰かを癒す能力も無い。戦う為に産まれた屑。それが、アインという黒い剣士だ。


 「サレナ、俺は剣であればよかった。ただ一本の剣であれば、こんなにも苦しい思いをしなくとも良かった。剣として、ただ敵を殺すだけの存在であれば迷いの一つも無くお前を守れた。けど、俺は、剣として居ればお前と共に居られない。お前と共に歩めない。人で在らねば、足は無い」


 泣きたい筈なのに瞳から涙は溢れない。蹲りたい筈なのにアインの肉体は戦闘態勢の解除を拒む。疲れている筈なのに眠れず、空腹である筈なのに胃は食物を受け付けない。


 戦士として完成されている彼に、休息という文字は無い。肉体は常に剣を振るえる態勢を維持し、精神は一時も戦場から離れない。狂気と激情を胸に抱えた剣士は戦士としてではなく、人としての迷いに縛られていた。


 「……アイン、あなたの目に映る世界はどう映っているのですか?」


 「肉塊が蠢く形容しがたい悍ましい世界だ」


 「その中で私はどう映りますか?」


 「人だろう。お前と、忌々しいがイエレザと名乗った魔族も人に見える」


 「私も、あなたが何故生命を肉塊と呼び、世界を地獄と表現したのか分かったような気がします」


 「……」


 「制約に縛られた世界では人は完全な自由意思を持つ事は出来ません。人類であれば魔族の命を奪う事を躊躇せず、魔族であれば人類の命を奪う事など厭わない。


 けど、あなたは違う。言い方は酷いですが、人類も魔族も同様に一つの生命として見ている。その視点はこの世界で生きる者からしたら異常であるかも知れません。


 制約に縛られず、どんな命も殺意を以て平等に見る。それは一種の優しさだと思います」


 「優しさだと? 違うな、こんなものはただの餓鬼の癇癪だ。殺せる命であれば人類と魔族に何の違いも無い。ただ死にやすいか死ににくいかの違いだけだろう。

 俺は優しくなんか無い。優しければこんなにも人を簡単に殺そうとは思わないし、忘れてはいけない記憶を忘れたりなんかしない」


 「優しいですよ。あなたは甘いのではありません、ただ人との付き合い方が分からないだけ。優しいから自分なりの視点を以て無器用ながら他人を認めようとするし、期待もする。アインは自分が剣であればいいと言いましたよね? そんな事、悪鬼ならば言いません」


 真紅の瞳が剣から逸れ、サレナの黄金の瞳を見据える。


 「アイン、剣でありたいと願うなら剣を持つで在りなさい。自分を優しくないと思っているなら、他人を見なさい。過去の記憶に苦しむのは、あなたの心が人で在りたいと願うから。

 あなたが私を殺してしまう? 馬鹿を言わないで! あなたがアインとして今を生きているなら、過去のあなたなんて鼻で笑えるような強さを得なさい!」


 輝きを放つサレナの瞳が、黒い剣士を真っ直ぐに見つめる。


 アインを信じる気高い心を持った少女の瞳に、剣士は気圧され言葉を失った。何処までも信じているのだ、この少女は。自分を殺してしまうと話した剣士でさえも、彼女は受け入れ、理解しようと手を伸ばす。迷い、猜疑に呑まれたアインを救おうと、支えようと言葉を放つ。


 その心を美しいと感じた。そして、アインは彼女の何処に美しさを感じたのか理解する。


 この娘は人の内面に目を向け、生命の強さを信じているのだ。信じているからこそ疑わない。個々の強さ、希望と未来を手にしたいと望んでいるから言葉を交わす。理解を示そうと歩み寄り、手を伸ばす。アインはその強さに惹かれ、サレナの為に剣を振るおうとしたのだ。


 「……敵わないな、お前には」


 「アイン、少しでも頼って下さい」


 「……」


 「人は一人でも生きていけます。けど、それは死んでいるのと同じです。あなたが人としての生を望み、人としての在ろうとするなら私や他人を頼って下さい。一人で悩まないで下さい。あなたが人として藻掻き、共に歩もうとするなら私はあなたに寄り添う大樹でありたい。だから」


 今を生きて下さい、アイン。


 その言葉はアインの胸に渦巻く激情の波を和らげ、凛とした穏やかなる風となって彼の身体を駆け抜けた。


 今を生きる。それは過去を失い、少しずつ記憶を取り戻してきたアインへ向けたサレナなりの叱咤であり激励。過去に目を向け迷っていたアインの足を進ませる為の言葉。


 真紅の瞳がサレナを見つめ、剣の刃に映る己を見る。


 刃に映るは黒甲冑の男と彼に寄り添う白銀の少女。一人じゃない、彼には頼れる想い人が居るのだ。迷い、躓き、己を信じられなくなろうとも、剣士を信じて理解しようとするサレナが居る。その事実は掛け替えのない奇跡なのだろう。サレナが与えてくれたアインだけの奇跡が胸の内に染み渡る。


 「俺は……これからも迷うだろう」


 「人ならば当然です」


 「何時か、完全に記憶を取り戻した時、俺は俺でいられないのかも知れない」


 「私はアインという生命を受け入れます」


 「サレナに、剣を向けるかも知れない」


 「向けません。アインはこれからずっと強くなる人です。だから、剣を向ける前に話をしてくれると信じています」


 「お前は……俺のことを信じ過ぎだ」


 「私がアインの事を信じず、誰が信じるのですか? アイン、あなたは自分の事を嫌っている。けど、私はあなたの事が好き。その不器用な優しさも、人であろうと思い悩む姿も、全部好き。だから、私が愛するあなたを愛して欲しい」


 愛を語り、心から剣士を信じる少女は夕日に煌めく白銀の髪を黒鉄に寄せ、頬を付ける。


 「私は、アインを愛してします」

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