銀春亭に戻ったサレナを待っていたのはほとほと疲れ果てたと言った様子のクオンと、額に手を当てて椅子に座るティオの姿だった。
「皆さん、どうしたのですか?」
「あ、あぁ、サレナちゃんか。いや、何でもないよ」
「クオンさん、何でも無くは無いでしょ? もう隠してたって意味ないですよ」
「アインに……何かあったのですか?」
「アハハ……」
随分と疲労を溜め込んだようにクオンが溜息を吐く。その溜息に釣られたかのように、ティオも溜息を吐いた。
「まだ彼は部屋から出て来ていないようですね」
「うん、まあ、ね」
「部屋から出て来ていないというより、ボスがあの部屋に誰かが立ち入る事を禁止したんです。常人はこの空気に触れる等不可能だと。一応クオンさんとボスは入る事が出来るようですが、僕や銀春亭の従業員は近づく事すら出来ません」
「アインの居る部屋の場所を教えて下さい。私は彼に用事があります」
「止めておきなよサレナちゃん、アインは」
「止めません。クオンさん、彼が迷っているなら私は彼の迷いを晴らさねばなりません。それが、アインと共に歩く者の使命であり、愛する者を立ち直らせる意思です。彼に、アインに会わせて下さい」
「……なら二つだけ約束して。危ないと思ったらゆっくりと部屋の外に出る事。駄目だと思ったら諦める事。君にこの二つの約束が守れるかい?」
「……はい」
「なら教えよう。私に付いて来て」
椅子から立ち上がったクオンはよろめきながら階段を上がり、サレナはふらつく彼女の脇に身体を差し込むと肩を貸す。
「サレナちゃん、大丈夫なのに」
「大丈夫じゃないと思います。疲れているのでしょう?」
「自分より小さい子に心配されちゃ、調子狂うなぁ」
けど、ありがと。疲れたように笑ったクオンに対し、サレナは頷く。
何故アインから自分を遠ざけようとしているのか、少女は分かっていた。アインと冗談交じりとはいえ一戦交えたクオンが今の彼の状態は危険だと判断し、英雄の一人であるハルも同様の判断を下した。それは、つまり今のアインは生命であれば誰彼構わず剣を向ける状態であると推測する。
アインと初めて森で出会った時の、轟々とした殺意と灼熱たる憤怒、傷つき血に濡れた憎悪を思い出す。
突き付けられた剣先の向こう側に見える真紅の瞳と鋼の巨躯。手負いの獣のような状態であったアインの荒々しい息遣い。そして、瞳の奥に見えた悲しみと寂しさ。今の彼が、過去のような状態であるのならば、救えるのは自分しかいないだろう。
「此処だよ、この部屋の中にアインは居る」
「ありがとうございます。クオンさん」
息が詰まるような殺意が扉の奥に充満しているように感じた。不用意に扉を開けば直ぐにでも剣が首を断つような殺意に息を呑む。
「サレナちゃん、無理しなくても」
「いいえ、大丈夫です」
大丈夫。恐れていては何も始まらない。勇気を振り絞り、愛を示す。その為に己は居る。ドアノブを握り、部屋の中へ足を踏み入れたサレナは暴圧的な激情の渦の中心を見据える。
「……」
「……」
床に突き立てられた黒の剣を見つめる黒甲冑の剣士。黒鋼の装甲が夕照に濡れ、美しい煌めきを放ち、剣も同様に刃が夕日を反射し金属特有の光沢を輝かせる。
剣士、アインの姿に少女は暫し言葉を失った。恐怖、恐慌、鬼胎、畏怖、怖気、恐れに関する様々な感情がサレナの中を一瞬にして駆け抜けたが、それ以上に彼女が感じたものはただ一つ。
美しい、と感じたのだ。
狂気や殺意、憎悪、憤怒に塗れている剣士の姿に。夕照に当たるアインの姿に。ジッと一人で物思いに耽る姿に。サレナは一種の美学を感じ取る。
戦士は剣に思いを託し、剣を以て意思を紡ぐ。己の在り方を剣に問い、剣を以て答える。戦いに赴き、戦場を駆ける。戦場において戦士を理解するは剣であり、剣という友を理解するは戦士である。
言葉を話さぬ友に問い、答えを求めるアインの姿は正に戦いに臨む者の理想たる存在であり、己が内面を探求する者だろう。
故に、サレナは美しいと思った。言葉を発さずに己の一部である剣と無言の対話を繰り広げるアインの姿に、戦士としての美学を感じたのだ。黒の剣とアイン、その二つの存在の間には不可視の聖域が存在し、その中で剣士は言葉を紡ぐ。
触れ得ざる者。その言葉がピッタリだろう。触れれば斬れる刃の如き鋭さを以て思考を研ぎ澄まし、己が思考の妨げとならん者は生命であれば斬り捨て糧とする。
剣士、戦士という存在は血と戦場の中で生きる者。命のやり取りを是とし、戦いであれば他者の命を非とする者。剣を振るい、戦う者は命に意思を乗せるのではない。剣に意思と命を乗せるのだ。
この聖域に足を踏み入れていいものかと戸惑う。アインは剣士として剣を向き合い、迷っている。その迷いの答えが永久に得られないものだとしても、彼は思考を止めないだろう。
彼は剣士という戦場で生きる者として思考を続けている。アインが剣士で在り続け、平穏と安寧を肯定し、求めない限り彼は思考の袋小路に留まり続け、進めない。だから、自分がアインという
彼が剣士であり、アインという個人であると認め、理解する。それが出来るのはサレナという
「アイン」
剣士は真紅の瞳をサレナへ向け、再び剣へ視線を戻す。
「少ししか離れていないのに、随分と会っていないような気がしますね。身体の方は大丈夫ですか? 甲冑の修復は必要ですか? ご飯は食べていますか?」
剣士は何も答えない。彼の視線は剣にだけ注がれ、サレナの言葉も聞こえていないかのように見えた。サレナはアインの隣に座ると剣士と同じように剣を見つめる。
「……迷っているのですか?」
「……」
「話してくれないと何も分かりません。アイン、あなたは強い人。だけど、何処か悲しくも、寂しくもあります。何があなたを縛り付けているのですか? あなたは何に対して迷っているのですか? お願いします、教えて下さい。アイン」
剣士が信じているものは二つだけ。一つはサレナという少女、もう一つは剣士自身。その二つだけだった。
彼は世界の全てを信じていなかった。この歪んだ制約に覆われた世界を信じてしまえば世界に飲み込まれ、咀嚼され、消えてしまうと思ったからだ。故に、剣士はこの世界に生きる生物を信用していないし、信頼もしていなかった。
この少女を無くしてしまうのが怖かった。記憶の断片で見たように、少女そっくりなサレナをこの手で殺めてしまうのが恐ろしかった。このまま彼女に付いて行けば、同じような事をしてしまうと恐怖した。
「……サレナ、俺は、怖いんだ」
「……」
「少しずつ戻って来た記憶の中で、お前とそっくりな少女を殺した。必ず帰って来ると、約束を交わした少女を殺したんだ。
ああ、覚えている。あの子の温かい血がこの手を伝って流れ落ちる感覚も、徐々に冷たくなっていくあの子の身体も、覚えている。剣で貫いた肉の感覚も、骨を砕いた感覚も、覚えていた」
アインから発せられた声の調子に変わりは無い。だが、その声の中には悲痛な叫びが混じっているように感じられ、声にならない慟哭も含まれていた。
「サレナ、俺は戦いが怖いんじゃない。お前を失ってしまうのが恐ろしいんだ。誰かの手に掛かって殺されるよりも、俺がお前を殺してしまうんじゃないのかと、それが恐ろしい」