夕方、仕事を終えたサレナはカロンの書を抱き単身魔法店グルウへ早足で向かった。
夕日に濡れる魔法店は神秘的な雰囲気を醸し出しており、剥げた金メッキすら何か特別めいた存在感を放っていた。サレナはドアノブを握り扉を開けると、カウンターに肘を着いて寛ぐダリアへ視線を向ける。
「何だい、アンタか。もう少しで店を閉めるところだったよ」
「お聞きしたい事があります、少々お時間宜しいでしょうか?」
「……」
ダリアの白い瞳がサレナの抱える書物に吸い寄せられ、在り得ない物を見たと言った風に大きく見開かれた。
「アンタ、それは、もしかして」
「カロンの書、魔女カロン様が作った魔導媒体です。ダリアさん、教えて欲しい事があります」
少女は歩を進め、カウンターに書を置き表紙を開くとページを捲り魔力を込める。すると、書に記された文字が宙に舞い上がり彼女の周囲を漂う。
「指輪と魔法薬、あなたの開発した魔法について教えて下さい。手帳だけでなく、私はダリアさんの口から話される言葉を聞きたいのです」
「……わたしの知識なんてその書とカロンに比べれば赤子のようなものさ、アンタにはカロンの書がある。それさえあれば私のような凡人の手帳と言葉なんて必要無かろうに」
「いいえ必要です。手帳や書は意思を持たないただの道具に過ぎないのです。道具に記された知識だけではその物を作った人の意思を理解できず、ただ使うだけならば赤子でも使えるのです。
私が得たいのは、あなたの意思と言葉に含まれる意味です。ダリアさん、私にはあなたの手が必要です。お願いします、私にあなたの知識を授けて下さい」
書から手を離し、頭を下げたサレナをダリアはジッと見つめる。
彼女の姿には過去、自分の店に来た若いエルファンを思い出す。両目が別々の色を持つ少女が、桜色の髪を垂れ下げ教えを乞いに来た日を思い出し、その少女とサレナを重ねたダリアは深い溜息を吐き出すと「おいで」とだけ話し店の奥へサレナを招き入れる。
「わたしがこの都市に店を構えて早六十年、いや、それ以上になるね。スピースの職人通りに長年店を構えられる者、それがどんな意味か分かるかい?」
「腕の良い魔法使いであり、技術者であるとお見受けします」
「そうだけど、違う。私やゼンは人の命と弟子入りしたい者の意思を見捨て、失いながらも店を続けてきたのさ。己に不要と断じ、どれだけ教えを乞われても己の技と意思を他者に与えなかった故に技術を独占出来た。
いいかい? 職人通りに生きるという事は、己が技と意思を胸の内に固く秘め、表に出さない者こそが常に生き残るのさ」
まぁ、ゼンの馬鹿は数年前に考えを改めたらしいがね。と呟いたダリアは漆喰塗の扉を開け、細長い通路を歩く。
色褪せた壁に掛かる魔導ランプの拙い明りが通路を照らし、天井に吊るされた薬の材料となる植物が仄暗い闇の中で乾かされていた。
薬草は採取したその日に薬に加工しなければ薬効を失い、その身に溜め込んだ魔力も霧散してしまうのだが、ダリアが乾燥させている薬草からは魔力の一切が漏れ出しておらず、乾いている筈なのに生き生きとしているように見えた。
「ダリアさん、どうして薬草を干しているのですか? 魔力は失われていないようですが、これで薬が作れるのですか?」
「作れる。いいかいサレナ、魔力は生物ではないのさ。生物ではない故に死してもいないし生きてもいない。魔力が宿る肉身が死んでも、内に巡る魔力は生きている。死生者という存在は知っているね?」
「はい」
「どういった存在か話してごらん」
「死した肉体に術を掛け、魔力を以て動かされている存在です。急所を潰すか頭部を破壊することにより、死体に掛けられた術が解ける。死して生きる者故に死生者だと書で読みました」
「原理としてはそうさね。だが、死んでいる者に術を掛けても死人は生き返らないし、死体は死体さ。何故術を掛けられただけで死体が動くと思う? 何故魔力を以て死体が動く? 答えは簡単さ、奴らは夢を見ているのさ」
「夢?」
「ああ、夢さ。戦う夢を見ているから死生者は敵に対して牙を剥き、剣を向ける。此処まで言えばアンタは聡い子だ、後は分かるね?」
魔力は生きていないが死んでもいない。夢を見て戦う死体。ならば、そうかとサレナは理解する。
「魔力と術を以て死体に夢を見せ、戦うように仕向けている。故に、天井から吊るされ乾燥している薬草も夢を見ている、という事ですか?」
「そうさ。あの草が見ている夢は草原の風に揺蕩う光景か、鳥や虫の鳴き声に耳を傾ける情景さね。ああ、これは死生者の呪法の応用だが、この術を知っている存在はアンタとわたしだけになってしまったね」
「それは、どういう意味ですか?」
「死生者の呪法はわたしが編み出した術さ。馬鹿な若気の至りだと思ってくれても構わないが、この術を開発した経緯を話そうか」
淡々と、死人を偽りの夢を以て動かす呪法を編み出したダリアの骨ばった指が通路の奥の扉を開ける。
「昔、ある女と男が居た。女は男を愛していたし、男も女を愛していた。二人は若いエルファンと人間の番いでね、故郷を出てスピースの職人通りに住み着いた」
扉の先に広がるは魔女の工房と言っても過言ではない様相。黒い大釜と所狭しと並べられた薬草と毒草、そして薬の素材となる生物の肝や身体そのもの。
湯気が上る大釜や薬の素材だけでも異様な有様だが、サレナの視線を吸い寄せる物は魔女の道具ではなく、瓶漬けにされた小さな胎児の標本だった。
「職人通りの生活は苦しく貧しいものだったが、それでも二人は幸福だった。故郷ではとびっきりの技術を持っていた二人だけどね、そんなのは井の中の蛙さ。職人通りでは日々技術は進歩し、新しい技術も生まれる。二人が故郷から持ち出た技術はとうに使い古された技術だったのさ」
ダリアは小瓶の隣に置かれた写真立てを懐かしそうに見つめ、指で撫でる。
「新しい物を生み出さなければ食えない、技術を磨かなければ生き残れない。故郷の者に自分たちの名を轟かせる事を考えていた二人は、寝食も忘れて魔法や薬の研究開発に没頭した。
それで出来たのが失った魔力を回復させる薬、どれだけ汚れた水でも術式さえ間違わなければ真水に変換する魔法等々、二人は生まれ持った才能にものを言わせて術技を開発した。あの頃は、そうさね。楽しかったし、幸せだったよ」
古い白黒写真だというのに黄ばみもせず、過去の姿を保っている写真には二人の若い男女が笑顔で映っていた。何処にでも居る普通の男女。それがサレナが得た二人の印象だった。
「あの頃は人魔による戦争が激しさを増していてね、やれ欠損した四肢を補う為の魔導具を作れやら広範囲に散布できる毒薬を作れだとか、軍の注文が五月蠅かった時期でもある。
わたし達は殺す為の薬や術を開発するつもりは無かったけど、軍と各種族の王に言われたらやるしかない。拒否権なんて無かった。
けどね、皮肉にもそういった薬や術、魔導具を作れば作る程技術ってのは進歩して磨かれていくんだ」
「先の人魔闘争に直接では無いにしろ、関与していたということですね」
「ああ、戦争の為の技術なのか救う為の術技なのか、そんなものは戦時下では無意味な思考さ。ただ作り、開発し、供給する。工房こそが職人の戦場であり、顧客こそが敵。そう考えなければ殺しの道具なんて作れはしない。少し話が逸れたね、サレナ少しお掛け。話の続きは腰を落ち着かせてからにしよう」
サレナはダリアが座る為の椅子を引き、老女が腰を落ち着かせると自分も椅子に座る。椅子は固く、少し体重を掛けるだけで痛ましい音を奏でる古い物だった。
「わたしがアンタに渡した手帳に記された術と薬は、戦争という犠牲の上に成り立つ呪いさ。呪いは気付かぬ内ならば何の影響も無い毒であるが、気付いた瞬間に毒となる。……思えば、わたしはずぅっと聞いて貰いたかったのかも知れないね。過去の過ちと、己の罪の話を、アンタみたいな若い子に聞いて貰いたかったのかもしれない」