失い、迷い、倒れ、挫け、それでも尚進もうと足掻く者が人なのか。そんな事は分からない。どれだけ迷っていても、思考を張り巡らそうと、時間は進み日は昇る。
窓から差し込む陽光がサレナの瞼を焼き、闇の底から意識を這い上がらせた少女はゆっくりと身体を起こし、目を擦る。彼女の肉体を疲労に喘がせていた魔力の枯渇は休息を取ることにより回復し、節々に僅かな鈍痛を残す。
サレナはベッドから足を下ろすと洗面台へ向かい、顔を洗うと鏡に映った少しだけ疲労を残す目元を見る。金色の瞳が僅かに輝いているように感じたが、それは無視できる範囲のものであり、問題は目元の隈だ。
これからアインの下へ向かい、朝の挨拶と仕事へ向かう迄を伝えるつもりであったが、これでは彼に心配を掛けてしまうような気がした。
「……大丈夫」
独り言のように言葉を発し、己を鼓舞する。
「今日は良い日になるはず。だから、大丈夫」
鏡の向こう側に映る自分を励まし、記憶に残る少女に応えるように呟く。大丈夫、何も心配は要らないと、何度も話す。
「……」
奇妙な感覚だった。見慣れている筈の顔が、何故か別人に見えたような気がしてならなかった。己に眠っていた力を解放して初めて見る顔は、何処か違っていて、同じように見えた。
頬を撫で、白銀の髪を撫でてもどう違うのか分からなかったが、サレナの金色の瞳は鏡のサレナを別の存在だと見ているような気がした。
ふと、指に嵌めていた指輪の色が変わっている事に気が付く。頬を撫でていた指に嵌めていた指輪の色が、鈍色の七色から輝く黄金に変わっていたのだ。
アームにこびり付いていた錆と汚れが剥がれたように、一色の黄金を纏う指輪はサレナの為だけに作られたように彼女の指にピッタリと嵌まっていた。
指輪を見ただけでは貴金属に疎い少女にその価値は分からない。分からないのだが、不思議と指輪に魅入られそうになる感覚は危険な誘惑を孕む魔導具の類のもの。
サレナはハッとした様子で指輪から視線を逸らし、指から引き抜こうとしたが、それは彼女から離れたくないと云った様子で一寸も動かない。何度も力を込めて引っ張ったが、うんともすんとも言わない指輪にサレナの方が参ってしまい、仕方なしに指に嵌め続ける選択を取る。
この指輪は何なのだろう? 何故こうも自分の指に嵌められるために作られたのだろう? それに、指輪の輝きと共に姿を変えた黒の剣は、何なのだろう? 逡巡する思考の中に答えは無い。
彼女の求める答えを握る存在はカロンと、その魔女が記した書物のみ。サレナはカロンの書を開こうと荷物を置いている場所へ歩を進めようとしたが、それよりも大事な事を思い出す。
アインと仕事だ。彼の様子を見て、仕事を終えた後カロンの書を持って指輪をくれたダリアの下へ行こう。そう考えた少女は、手早く身支度を整え部屋を去ると一階食堂ホールの床掃除をしていたティオを見つける。
「ティオさん、おはようございます。すみません、仕事の前にアインの様子を見たいのですが、彼は何処に居るのでしょう?」
「おはようございます、サレナさん。えっと、アインさんは」
サレナから視線を逸らし、明後日の方向を見たティオは帽子を深く被り、口ごもる。
「……彼に、何かあったのですか?」
「いえ、怪我をしているわけじゃ無いのですが、ほら、昨日サレナさんはクオンさんとアインさんで魔族と戦ったじゃないですか。疲れて寝ているんじゃないですかね?」
「……そうですか」
アインが自分を放って一人で寝ている筈が無い。彼の剣士が寝ている場面など一度も見た事が無い。常に剣を背負い、自分が寝ている間もずっと周囲を警戒している剣士が、食事を摂る事があっても眠る筈が無い。
いや、食事を摂っているかさえも怪しいものだ。サレナはアインが兜のバイザーを上げ、食事を楽しんでいる場面を一度も見た事が無かった。
彼は気を離した隙に食事を摂り、常に剣を振れる態勢を整えているのだ。そんな彼が、寝ている筈が無いと、サレナはティオの嘘を見抜く。
「アインは―――」
声を発した瞬間、サレナの肩に手が置かれた。背後を振り向くと、其処にはクオンが立っており、彼女は笑顔を浮かべながら「アインなら大丈夫だよ」と話す。
「彼は少し考え事をしているみたいでさ、部屋にずっと居るよ。サレナちゃんは心配しなくても大丈夫さ」
「アインが考え事をしているなら私も一緒に考えます。彼と会わせて下さい」
「サレナちゃん、人にも一人で考える時間が必要だよ? それに、君は仕事があるでしょ?」
「ですが」
「ですがもへちまも無いったら。さ、仕事の準備に取り掛かるよ」
サレナの背を押し、厨房へ向かうクオンはティオへ視線を送り、その場を去る。少女はクオンへ少しだけ頭を下げ、アインが篭る部屋を見る。
扉を一枚挟んだ先から漏れ出ようとする漆黒の殺意。その部屋にアインが居る事を知っている者ならば、その殺意に中てられ意識的に視線を逸らす。
彼が自分から空いている部屋を訪ね、その中に入る事を許可しなかったのはサレナに危害を加えない為だった。一人孤独に思考を巡らせ、迷う剣士は外界を拒絶し、内に潜り続けていた。
彼の剣士を救うことが出来るのは、恐らくサレナだけなのだろう。アインが彼女に出会った事により変わったならば、今の状態の彼を変える事が出来るのはサレナだけ。
隠しておくよりも、正直に話した方が良いのではないのだろうか? ティオは手に持ったブラシに体重を預けると一かバチかの賭け、いや、荒療治を考え付く。
「……やっぱり、隠しておくなんて出来ませんよ」
そう呟いた少女は掃除道具を片付けるとハルの部屋へ向かった。
………
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……………
………………
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……………
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幾ら気に掛ける事が在ろうとも、激流のように押し寄せる仕事に向き合った瞬間それは水泡の如く弾き消え、流れに身を任せれば身体は勝手に動き始めるものだ。
「サレナちゃーん! お会計お願ーい!」
「はい! ただいま!」
「お嬢ちゃん、注文いいかい?」
「はい!」
ホール内を駆け回り、普段よりも客が多い中、伝票と盆を抱えて客の対応を急ぐサレナは先日よりも俊敏に動き回る。
食堂ホール内のスタッフの一人として二日目の現場。それも、ホールに収まりきらない客を捌いての労働は、彼女の頭の中からアインと指輪の問題を掻き消し、動く事に専念させた。それが良い効果かどうかはサレナ本人にしかわからないが、少なくとも悪影響は無い。
息を切らしながら汗をハンカチで拭い、時折話し掛けてくる客の相手をする。そうしているうちに、昼休憩の時間がやって来てようやく束の間の休息を得る。
厨房から大量の賄い料理を貰い、バックヤードに向かうと既に先輩の飯女が数人食事を摂っていた。サレナがその輪の中に入ろうかと躊躇していると、リーダー格と思われる恰幅の良い中年の女性がサレナを手招きし、少女は料理を手にテーブルに着く。
「いやぁ、アンタ本当に手際がいいね! 前もおんなじような仕事をしてたのかい?」
「いえ、都市で働くのは初めてです。以前は母と薬を作って暮らしていました」
「薬? てことはアンタ本業は薬師か術師かい?」
「そういう訳では無いのですが……、故郷の丘を去ってから働くのは初めてです」
「丘? 随分と辺鄙な物言いをするんだねぇ」
「スピースと比べれば田舎ですよ。近くの村以外には町や都市なんてありませんでしたから」
「そうかい、まぁ、アンタみたいな娘が働いてくれるのはアタシらにとっても嬉しいものさね。少しでも困った事があったら相談しなよ? 小さな