月明かりだけが差し込む一室に、剣を見つめて座り込む黒甲冑の剣士が居た。
黒い刀身を持つ剣は、剣士の真紅の瞳に射抜かれようとも言葉を話さない。当然だ、剣は剣であり、言葉を話す生物ではない。
生物では無い故に、剣は生命を殺すという行為を持ち主に代弁させ、血肉を啜る。鋼が言葉を話さぬよう、剣は言葉を話さない。
剣士はその事実を理解しているし、嫌という程知っている。それでも彼は問いかけるように剣を見つめていた。
黙って刃を指で撫ぜ、籠手と刃を擦り合わせる。黒い籠手に一本の線が刻まれ、それは剣の刃による傷だと剣士は知っている。知っているからこそ、剣は生命を奪う武具であると同時に、己をも斬りつける凶器であると真紅の瞳が物語る。
恐れを持ちえない生命は生物と云えるのか。生命は恐れを持つ故に生物としての根幹を持ち続け、生きるのか。
生命は何時かその命を使い潰し、この世を去る。生物は生命を失うことを恐れる故に、恐怖という感情を持つに至ったのか。
死を恐れない生物は生命に非ず、死を恐れる生物は生命である。ならば、死を恐れぬ己は生命を持ち得る生物であるのだろうか。
死など一度も恐れた事は無い、戦いにおける本質とは命の奪い合いであり、殺さねば殺されるのだ。剣を抜けばその凶刃は敵の首を撥ね、胴体を分断する。殺す為に殺すのではない、殺されない為に殺すのだ。
だが、死を恐れぬ意を持ちながら、殺されない為に戦う己の戦いは、そもそもが矛盾しているのではないのかと、剣士は己に問う。
何の為に戦っている? 剣は何も答えない。
殺す為に殺すのか? その問いは愚問である。
殺されない為に戦うのか? 死を恐れないと豪語するのに何を言う。
自分の命など惜しくない。惜しくない故に傷を負う事も構わない。四肢が切断される痛みも、甲冑を撫でる血の温かさも、剣が敵を斬り裂く感触も、その全てが己の肉体の証明である。だが、肉体としての証明があっても、それは精神の証明と成り得るのだろうか。
肉体が幾ら頑強であろうとも、傷を負って尚戦える屈強さを持ち得ていても、精神は肉体程強くは無い。
敵を目にし、胸に爆発的な殺意や憎悪、憤怒を抱いて戦いに臨む剣士であろうと、一時の過去を目の当たりにしてしまえば己が抱いていた激情は一体誰に向けられていた感情であるのか、何故こうも怒り狂っているのか、その感情全てが疑念と迷いに変わる。
記憶を失い、戦闘甲冑と黒の剣を持つ男。それが剣士、アインが己を鑑みた姿である。内に絶える事の無い殺意を抱き、常に烈火の如き憤怒を滾らせ、世界に溢れた肉塊へ向けて溶鋼のような憎悪を宿す者。
自分自身の意識を取り戻した瞬間より剣を振るい、己に牙を剥いた生命を殺し続けていたアインは、サレナとの出会いにより彼女の剣にして騎士であると誓った。だが、それは本当に彼女の為であるのかと、彼は一人迷っていた。
アインの脳裏に過る血の記憶。それは、守ると、共に在ると約束したサレナとそっくりの少女を自らの手で殺した記憶。断片的な記憶でありながら、彼の思考にこびり付いたその記憶は、剣士の戦いの意味や誓いを揺るがすものであり、答えの見えない混迷の袋小路へ誘うものであった。
剣は持ち主の殺意を代弁する刃である。その刃は自身の意思を持たない鋼の塊であり、敵の生殺与奪権を持たない武具だ。言葉を話さず理も解さず、剣が物語るは沈黙のみ。
剣が持つ殺傷能力を活かすは刃を振るう持ち主であり、殺意を以て振るわれた剣が生命を殺すのだ。己は、剣を以て少女を殺した。あの優しい笑顔と、白い花に囲まれた少女を、帰りを待っていてくれていた少女を、殺したのだ。
生物は死んでしまえばお終いだ。己に笑顔を向け、白い花冠を編む少女を殺したのは己であり、少女の腹に剣を突き立てのも己。少女の鮮血がバイザーを濡らし、血が籠手を伝って滴り落ちた感触も覚えている。体温が失われ、命が尽きる瞬間もこの手が記憶している。サレナと全く同じ顔をした少女が、最後まで己に微笑みかけていた事も覚えている。
必ず帰って来ると誓い、約束を結んでいた少女を殺めた己は、悪鬼以外の何者でもないのだろう。
鼓膜に張り付いた慟哭が耳から離れない。胸を斬り裂かれるような悲しみは何時までもアインを思考の渦に縛り付け、剣と向き合わせる。
剣は何も答えない。幾ら見つめようと、触れようと、剣は彼の籠手を傷つけるだけであり、アインが求める答えを提示しない。悲しみに暮れようと、迷っていようと、その終わりが無い思考の中で、剣士は初めて恐れを感じた瞬間を思い返す。
サレナに触れるのが、彼女の声を聞くのが、少女に触れられるのが、怖かった。サレナ自身が恐ろしいのではなく、もし自分が少女に剣を突き立てる可能性を持っている事が恐ろしかったのだ。あの記憶の通りに、剣を大切な人に突き立てるのが怖かった。
だから、アインは初めて少女を自分で抱き上げる事を拒み、他人に任せた。彼のトラウマとそっくりな存在に恐怖したのだ。
戦いに対して恐れを抱かない。だが、アインはサレナを失う事が、また大切な存在を失う事が怖かった。初めて剣を握り、振るう行為に恐怖を抱いたのだ。
剣のままで居られたらどれだけ良かっただろう。この身に余る殺意に穢れた存在で居られたらどれだけ良かっただろう。敵だけを見て、命を奪うだけの存在で居られたらどれだけ良かっただろう。
繰り返す自問自答の中であろうと彼の激情は衰えを見せず、更なる業火を燃え上がらせる。
この殺意の矛先は何処だ、この憤怒で燃やし尽くす敵は何処だ、この憎悪で滅相する存在は何処だ。暗い部屋の中、真紅の瞳に轟々とした業火を宿したアインは、月明かりに濡れる黒の剣の刀身に己を見る。
そこには、激情と迷いを抱いた黒甲冑の
「――ン、アイン!」
剣を見つめる剣士に声が掛けられ、視線を部屋の出入り口の方へ向けると、其処には食事を盆に載せたクオンが立っていた。
「サレナが目を覚ましたよ! だから、君から顔を見てやりなよ! あの娘はアインに会いたがっていたんだ、だから―――」
淀んだ真紅の瞳がクオンを射抜き、その中に渦巻く激情が彼女の言葉を奪う。濁流のように押し寄せる穢れた殺意と全てを消し炭にせんとする憤怒、溶鉄を思わせる憎悪。少しでも視線を逸らせば、自分の首が跳ね飛ばされる幻覚さえ感じたクオンは、言葉を失いただ黙らざるを得ない。
ああ、と。アインは一言だけ返事を返し、視線を剣へ戻す。見られただけなのに冷えた汗が止まらない。何時彼が剣を握り殺しに掛かってくるのかと、幾つもの死を連想したクオンは息をするのさえ忘れ、逃げるようにアインの部屋を後にする。
咽返る程に充満した死の臭い、その臭いの元はアインと黒の剣。その二つの存在が発する意思と感情は生物にとって猛毒であり、弱者ならば部屋に入った瞬間に狂死、いや、迷わず自死を選ぶ程の強烈な神経毒の類。幸いにもアインと剣が発する死の臭いは部屋の外に漏れ出さず、内に留まり続けている。 クオンは息を整え頭を振るい、剣士の状態をどうサレナに伝えるか頭を悩ませる。今のアインを少女がどう見て、どう接するか分からない。分からないが、一つだけハッキリ言える事がある。それは、サレナはアインを放っておかない事だ。
サレナは自身の身体が不調であろうとも真っ先にアインの姿を探し、彼の下へ向かおうとする少女だ。純粋で、無垢で、誰よりも優しい少女が今の剣士の姿を見てどう思う? 答えは簡単だ、救おうと、死さえ厭わずに行動する。猛毒に耐えながらも彼を求めるだろう。手を伸ばし、受け入れようとする。凶剣を突きつけられてもだ。
溜息を吐き、窓の向こう側に見える星を見上げる。空には光り輝く満天の星が映え、スピースを見下ろしていた。