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影の中で、迷う ②

 イエレザが個人と定義する生命は多くない。彼女が一つの生命と認識し、有象無象の道化以外と見るのは兄であるゼファーと魔将ラ・リゥ、そして黒い剣士アインだけだった。


 この三人だけはイエレザの眼には特別に見え、各々が他とは別の独特な雰囲気を醸し出していたのだ。


 一人は己に愛情と憎悪を向け、一人は己に領域内でのルールを課し、一人は己に感じたことのない鮮烈なる激情を向けた。だが、目の前の少女はイエレザに慈愛と優しさを向け、理解と対話を求めた。過去に一度も向けられた事の無い感情を向けたサレナに、強い興味を示したイエレザは妖艶な笑みを浮かべ、鋭い牙を覗かせる。


 「では……イエレザ、何故あなたはアインを欲するのですか? 彼は私と騎士の誓約を結んだ者、この誓約を知っているのならばそう簡単に手を出せない筈ですが」 


 「嗚呼、あの人の名はアインと申すのですね? 古代語でゼロの名を冠する者。何と雄大で力強い名を持つ人なのでしょう。始まりと終わりを名乗る強大な力を有する戦士。嗚呼、彼の騎士はそのような勁烈なる名をサレナに名乗ったのですか? 何と、美しいのでしょう」


 「……あの、すみません。アインは私が名付けた名前であり、その、彼が自ら名乗った名前ではないのです」


 そうだ、彼は自身に関する戦闘以外の全ての記憶を失っていた。だから、アインと名付けた。サレナは黒甲冑の剣士の本当の名を知らないし、何処で彼が産まれ、どうやって生きてきたのかも知らない。

 サレナが知るアインとは、恐ろしいほどの戦闘能力を有し、サレナと確固たる意思を持つ者以外の生命は塵芥としか思わない明確な線引きを己に課した戦士であるのだ。


 常に殺意と憎悪を真紅の瞳に宿し、煮える憤怒は己と他者へ向けて放出し続けるアインは何故かサレナにだけは優しかった。身体を労り、心を通わせようと激情を抑え、何時も少女の為に血に濡れていた。


 何故アインが此処まで尽くしてくれるのか分からなかった。分からないから手を伸ばそうとしても、その手は何時も彼の分厚い黒鉄に阻まれ触ることが出来なかった。


 バイザーの隙間から見える真紅の瞳以外に彼の感情を推し量る術は無く、自身の頭を撫でる手は固く冷たい鋼の籠手の感触のみ。己に掛けられる言葉は素っ気ない。何故、どうして、強き者である筈のアインが弱い自分について来てくれるのか、サレナには分からない。


 「彼は、自身に関する全ての記憶を失っています。何故記憶を失ったのかも、何故強さだけを残して他の全てを失ったのかも、全てが分からないのです。彼と初めて会った時、私は剣と殺意を向けられました。彼は恐ろしかった、恐ろしかったけれど、それ以上に寂しそうだった」


 薄暗い森の中、乾いた血肉に染まっていたアインを思い出す。彼の瞳には全てを焼き尽くす鮮烈な激情が渦巻いていたが、その瞳の奥には儚げな寂しさが揺らいでいたのだ。アイン自身が気が付かなかった朧げな哀愁の意は、暗く小さな部屋で蹲る子供のようにも見え、泣き叫び、慟哭する傷だらけの戦士のようにも見えた。


 可哀そうだとか、情けをかける気持ちは一切無い。だが、剣を付きつけながら強烈な殺意をサレナに放ったアインから、少女は剣士の中にある哀愁と悲哀を感じたのだ。泣きたい筈なのに涙は紅蓮の炎により枯れ果て、誰かの手を求めたい筈なのに剣を持つ手は殺意に濡れた眼に映る命を斬り捨てる。牙を向けられた故に牙を剥き、矛を向けられた故に矛を振るう。


 人より二倍も三倍も不器用な剣士は、他者と接する方法を忘却し、血に濡れる。優しさを持っている筈なのに、不要だと断じて切り捨てる。安らぎから自ら遠ざかろうとする剣士は、何時も剣を振るっていた。


 「私は、アインを理解しているつもりで理解していない。彼を知ろうとすればするほど彼の姿が分からなくなる。彼が何を考え、何をしようとしているのか分かっているつもりで、結局は私の選択で彼を戦いへ誘っている。

 私は何時かアインを殺してしまう、私の選択を最後まで信じてついて来てくれるアインを、殺してしまうんじゃないかと、恐ろしくなる。一緒に歩んでくれると誓った、大好きなアインを、私は何れ殺してしまう」


 クエースの町で遭遇した絶望と悪、上級魔族との戦い、魔導鎧との死闘。サレナが訪れる場所は常に戦いの火種が燻ぶっており、それを刺激して回っているだけではないのだろうかと邪推する。


 刺激された火種は赫々たる業火となり、剣士と少女を逃れられない、否、逃れるべきではない戦いの炎となって飲み込むのだ。


 「私は、彼に死んで欲しくない、死んで欲しくないのに、戦いへ誘ってしまう。なのに、なのに、アインは私を信じて戦ってくれる。


 私の願いを、希望を、未来を、手に入れようと傷だらけになって戦うの、血を流して、死にかけても、剣を振るう。


 私は、彼に何も与えられないのに、彼は私に未来をくれる、希望をくれる」


 涙が溢れ、嗚咽交じりに言葉を紡ぐ。サレナの金色の瞳から流れた涙は彼女の手背に零れると、線を描き衣服を濡らす。異種族、それも上級魔族を前にして想い人の為に涙を流すサレナは、年相応の弱さを持つ小さい少女の姿であり、強者と思わせる強さを持つ姿ではない。


 彼女は優しかった。人一倍優しく、慈愛に満ちていた為に誰もが理解できず、分かろうともしなかったアインの心に触れ、イエレザとも殺し合う意思を見せずに対話による選択を選んだのだ。


 覚悟を決めなければならない時であれば覚悟を決める。選択しなければならない場面であれば、自分が責を負う覚悟を以て選択する。求められたから、手を貸すし助けようともする。


 身体的な強さを持たないサレナには精神的な強さがあるのだろう。だが、どれだけ精神が強くとも彼女は少女であるのだ。少女であるからこそ迷い、倒れかけ、転びそうにもなったりする。弱くもあり、強い。逆もまた然り。


 「……サレナ、貴女は実に人らしい」


 「人、らしい?」


 「ええ、人のように迷い、誰かを求め、求められようとする。それは実に人らしい生き方で御座いましょう? 嗚呼、私と貴女はどこか似ているけど、全く違う人なんだとしみじみと感じます」


 「どういう、ことでしょう」


 「私達魔族は人よりも頑丈で、長命な種族ですわ。長命である故に世界の真に触れようとしたり、たった一人を愛そうとする者も御座います。

 ですが、肉体がどれだけ頑丈であろうと精神はその命に耐えられません。耐えられないからこそ壊れたり、壊されようとする者も存在します。

 嗚呼、少し掴みかけてきましたわ。ええ、生きるという事は理解を示し、未来と希望を掴み取る行為に他ありません。サレナ、理解を示すという事はどういった行為の事を指すのでしょうね? 少し、考えてみません?」


 両手を組み、黒い瞳を輝かせたイエレザはへの対話を切り出したのだった。

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