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黒と白 ⑤

 夕日がスピースの都市を茜色に染める。


 銀春亭の窓ガラスから差し込む夕日に目を細めたサレナは、最後に食事を摂っていた客のテーブルを拭くと疲労を帯びた息を吐く。


 八時間の労働は働き慣れていないサレナの両足は痛みで疲労を訴え、料理を運び続けていた腕は怠い痛みが広がっていた。このままベッドに潜り込めば一瞬で眠りに就けるだろうと思うサレナの肩に、鋼の手が置かれる。


 「疲れたか? サレナ」


 「少し、疲れましたね。アインは疲れていないのですか?」


 「戦いに比べれば楽なものだ。一応飯は食っておけ、それと疲労回復には睡眠が必要だ。質の良い睡眠を取る為には入浴したらいいと、クオンが言っていた。判断はお前に任せる」


 「アインはどうするのですか?」


 「俺はティオを待つ。お前は気付いていないだろうが、奴も中々に忙しいようで彼方此方を走り回っていた」


 「そうですか」


 アインの瞳を見る。彼の瞳は変わらない真紅の色を帯びており、疲労を感じていないかのように轟々と燃え盛っているように見えた。サレナは自身の肩に置かれたアインの手を握ると、金色の瞳にアインの姿を捉え、優しく、少し疲れたように笑う。


 「アイン、ご飯にしましょう。お腹空いていませんか?」


 「ああ、そうだな。俺は部屋に行って金を取って来よう。少し待っていてくれ」


 「ええ、分かりました」


 銀春亭の二階へ向かったアインを見送り、夕日を見る。


 一日の終わりを告げる夕日は雲一つない空を照らす美しいものだった。眩しくもありながら何処か優しい光。その夕日を眺めていたサレナの瞳に、黒い、漆黒のドレスを着た真っ白い肌を持つ美しい少女と、彼女の少し後ろを歩く中性的な容姿の青年の姿が映る。少女はサレナの視線に気が付くとニッコリと、純粋で可愛らしく、何処か恐ろしい微笑みを浮かべた。


 背筋に氷を押し当てられたかのような感覚を覚える。誰もが目を引く美しい二人である筈なのに、多くの通行人はまるで彼等を認識していないような、見えていないかのような素振りで道を歩き一度も少女と青年に目を向けていない。


 何故かあの二人から目が離せなかった。脳が彼らを認識すること自体が異常である筈なのに、正常と判断して姿を映し続けるのだ。恐ろしいと思った筈なのに、恐怖は曖昧で不完全な感情となり、機能を低下させる。感情という機能が上手く働かなくなる。


 ボウっと不思議な雰囲気を醸し出す二人を見つめていたサレナは、指に熱を感じ、それがダリアから貰った指輪が発する熱だと気づく。


 「―――ッ!!」


 指輪の熱に我を取り戻したサレナの視線が揺らいだと同時に、少女と青年の姿が消える。其処には建物から伸びる影だけが存在し、最初から何も無かったと思わせる。


 心臓が痛い程に脈打っていた。額から汗の雫が流れ、息が上手く出来なくなっていた。―――息をするのも忘れ、二人の存在に意識を奪われていた。サレナは過呼吸気味の己に癒しの術を使い、何とか正常な身体機能を取り戻す。


 あれは、あの二人は違う。恐らく、人類ではない別の種族だ。それも、もっと強大な力を持った存在。そう、ハルが話していた上級魔族のような―――。


 ズルい。


 頭の中に少女の声が響く。


 ズルい。


 憎悪と憤怒が入り混じる少女の声は、直接サレナの脳に叩き込まれたかのように反響し、視界が黒に染まる。


 貴女だけが黒い騎士様の寵愛を受けるなんて、腹立たしい。妬ましい。羨ましい。


 黒い影はサレナの身体を瞬く間に包み込み、少女の世界へ引き摺り込む。影と無数の意識がかき混ぜられた混沌の世界へ、少女の姿をした上級魔族、イエレザが支配する世界へサレナを飲み込む。


 「御機嫌よう、白銀の人。私の名はイエレザと申します。上級魔族が一柱にして魔将ラ・リゥに仕える者。少し、貴女とお話をしたくて私のに招待しました。どうぞ、お見知りおきを」


 妖艶、そして歪な微笑みを浮かべたイエレザは黒い瞳をサレナへ向け、笑う。彼女の声に従うように、影達も皆口々に笑い出し、彼女の支配する影の世界が狂ったような笑い声に包まれた。


 影に浮かぶは無数の瞳。その一つ一つの瞳は老若男女全ての生命が入り混じった滅茶苦茶で無茶苦茶な無秩序の意識。影は一つの生命を持ちながらにして、内に蠢く生命の数は裕に千を超え、計り知れない生命が一つの生命をかたどり、支離滅裂に世界を成す。


 イエレザが展開する秘儀は、己と影が喰らった生命を生きながらにして己が世界に内包し、力として振るう自己完結型の秘儀である。


 影はイエレザであり、イエレザとは影である。影あるところにイエレザは存在し、イエレザが存在するところに影は存在する。何処かに居て、何処にもいない。存在の証明が不確定であり、何処かに存在する少女は影で作られた椅子に座り、己の世界に引き摺り込んだサレナを見下ろす。


 「……」


 「白銀の人、貴女の名は何でしょう? 何故彼とあそこまで仲睦まじく出来るのでしょう? 嗚呼、妬ましい。彼は私の伴侶となる騎士であり、貴女のような定命の者に相応しくありません。

 彼を手放すのなら、彼と縁を切ると宣言するのならば貴女を殺さずに光の下に帰して差し上げましょう。悪い条件では無いと思いますが」


 彼、アインを己の手に渡せとイエレザは語る。白い手をサレナへ伸ばし、彼女の首元に影を伸ばした少女は笑みを浮かべる。


 「―――貴女、騎士の誓約、その瞳にある紋章は騎士の誓約? 嗚呼、忌々しい、羨ましい、悔しい。何故貴女がその誓約を彼と契ったのでしょう? 何故彼は貴女の騎士であり、剣であろうと誓ったのでしょう? 

 さぁ答えて、いえ、答えなくても結構。貴女を殺せば彼も死ぬ、死んでしまうなら手に入らない。そんなのは嫌、認めない、信じられない。であれば」


 私の中で影となり、道化の中に加わりなさい。脳に電撃が奔ったように、イエレザの圧倒的なまでの存在感から我を取り戻したサレナは、給仕服の懐からオムニスを抜き、術を唱える。


 唱えるべき術は何でもよかった。少しでもイエレザの気を逸らす必要があった。魔力を練る時間も惜しい、最短で術を構築し、杖の先から放出した五属性の魔力は其々の特色を帯びた魔力の塊となり、イエレザに迫る。


 「魔弾でしょうか? それも全属性の魔力を含んだ魔弾。でも」


 影が魔力の弾を飲み込み構成された魔力ごと喰らう。サレナの首元に伸びた影は、醜悪なる鋭利な牙を見せ、彼女の白い柔肌に牙を突き立てようとしたが、それは行動を起こす手前で影自体が


 「……? あらあらどうして」


 サレナの首元から下がるタリスマンが光を発し、少女の身体全体を淡い光で包み込む。カロンから授かったタリスマン。それは上級魔族の攻撃ならば如何なる牙をも防ぐ護符である。サレナを守護する光のベールは押し寄せる影を打ち消し、雫と化してイエレザの影を払う。


 「面白い小道具をお持ちになっていますのね」


 「ハ――はッツ、ぐ!」


 「人類領であろうとも此処は私の世界。私の世界ならばデメリットは何もありません。貴女の放つ魔法も、術も、何もかもが私の糧となり、力となる。そうでしょう? 皆さん?」


 影が喚き、笑う。イエレザも笑い、大声で狂ったように笑う。


 己の完結した世界を持つ故に、彼女は孤独であるのだ。孤独であるからこそ生命を生きたまま喰らい己の一部に加え、満たそうとする。だが、満たされない。満たされないから更に喰らい、影は広がりイエレザの世界は深度を増す。穴の開いたバケツに必死になって水を足す愚行をも思わせるイエレザの秘儀は、完成されてさえいない。


 サレナは濁流となって押し寄せる影の波の中で立ち続ける。言葉を発する余裕も、戦いに臨む余裕も無いのに、見たかった。イエレザが何を求め、何を考えているのか理解したかったのだ。故に、少女は手を伸ばし、足を進める。何処か、自分と似ている部分がある異種族の少女へ、手を伸ばす。

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