「生存出来ない、とは?」
「言葉通りの意味だ、人類領でしか生きてこなかった者には分からぬだろうが、魔族領と人類領とではまるで環境が違う。
大気に漂う魔力の質も、生育している草花や無機物まで何もかもが人類と相容れぬ性質を持っている。魔族内では薬となる魔力結晶も人類には有害な毒物となる。食物は人体に重大な異常を引き起こし、建築材や建造物に至ってはその場に在るだけで精神を蝕み侵す。
魔界……その言葉が正しいだろうな。我々人類が人類領を人界と評すならば、魔族が己の領域を言い表す言葉も人界。逆もまた然り。故に、生存可能範囲を広げる為に人魔は戦線を押し上げ、維持し、生存競争を続けている」
「ですがハルさんは魔王を見たのですよね? 人類の生存可能範囲外に存在している魔王をどうやって見たのですか?」
「勇者が持つ神剣のおかげだ、あの神々しい剣は魔界の魔力を無害化し、一定の範囲内であれば人界と同じ環境に作り変える事が出来た。だから我々は戦闘における消耗だけに気を配る事ができ、魔王城へ進むことが出来た」
だが、もうその少数精鋭で魔王城へ向かい、決戦を挑む事は出来ないだろう。とハルは呟く。
「神剣は勇者と共にこの世から失踪を遂げ、人類の決戦存在とされた勇者も生死不明となった。だが、魔王と魔剣も同様なのかもしれない。人類と魔族は永久に決着をつける術を失った。故に、二十年の歳月が経とうとも人魔戦争は続いているし、変わらぬ戦乱が世を覆っている」
「……魔王自身が行動を起こしておらず、その魔王も存在が不確かな状況である今、上級魔族が自ら行動して戦況を動かす可能性はありますか?」
「奴らは魔将の指示に従い行動する。魔将が戦線を押し上げ、領域の拡大を狙っているのなら戦場に現れるだろう。だが、私が見て戦った上級魔族は魔将の命に従っている者ばかりであり、自発的に戦況を変えようとする者は少なかった」
「もし、その上級魔族がこの都市に現れたら彼らはどのような行動を起こすと思いますか?」
「魔将の命であれば既に此処は戦場となっているだろう。戦いを好む者が戦闘を開始したのであれば、聖王とエルファンの女王が黙っていない。彼らが行動を起こさないという事は、この都市はまだ脅威に晒されていないという事だ」
「分かりました、ありがとうございます。お仕事の最中にご迷惑をおかけしました」
「いや、いい。何故奴らの事を聞いた?」
「アインが上級魔族二体と遭遇したので、勇者と行動していたハルさんにお話を聞きたいと思っていたのです。大変参考になるお話が聞けて良かったです」
ハルの瞳が驚いたように見開き、アインを見る。
「ハルさんのお話通りでしたら上級魔族は行動を起こさないつもりか、戦闘を行う意思は無いと推測できます。スピースの通りにも兵が増えた様子は無さそうですし、人々が死の脅威に晒される可能性は低いと判断しましょう。お休みなさい、ハルさん」
「……待て、何故そうも落ち着いていられる」
「内心は恐ろしいと感じています。ですが、恐ろしいと思っていても行動を起こさねばならない時が来るでしょう。もし上級魔族が現れ、話し合いが不可能になった時には戦う選択が必要です。
私には戦う力がありません、けどアインは私を守るために剣を振るう。その
そう語ったサレナの姿に、ハルは友と勇者の姿を重ねる。非凡な才能を持ちながら、嘆き、怒り、慈しみ、己の理想を追い求めた者達をサレナの瞳に見る。
「……私は既に己が矛と牙を収めた人間だ。次の時代は若者が作るべきだと考えている。君は何時までスピースに滞在するつもりだ?」
「もう少しお金に余裕を持っておきたいので、暫くは滞在するつもりです。どうかしましたか?」
「我が友にして盟友である聖王へ紹介状を書いておこう。君は一度、あの男に会うべきだ。勇者と志を共にし、世界の真実の一端に触れた者と会うべきだろう。旧き英雄と、顔を合わせられるよう手筈を整えておく。それが今の私にできる限界であり、君に出来る事だろうからな」
「あの、私なんかが、聖王様と会えるのでしょうか?」
「君でなければ彼は会おうとしない。彼は悔いている、たった一度の悔いを胸に絶望に染まっている。だが、絶望していても尚歩みを止めず、己の恥と在り方を受け入れる器量を持った英雄と会え。そして、旅を続けてくれ。君がもしかしたら今世の」
勇者なのかもしれないな。その言葉を噛み砕き、飲み込んだハルは誤魔化すように咳払いをし「明日から仕事だ、今日はゆっくりと休むといい」とこれ以上の会話は望まない風で筆を握った。
「本当にありがとうございました。では、失礼します。行きましょう、アイン、クオンさん」
「ごめんサレナちゃん、私は少しお父様と話をしてから寝るよ」
「そうですか? 分かりました、お休みなさいクオンさん」
微笑みを浮かべたサレナはアインを連れて部屋を去る。クオンとハルの二人だけとなった部屋は重い沈黙に包まれ、何処からどう話を切り出せばいいのか二人とも分からない様子であった。
「……あ、あの、お父様、少しだけ話をしてもいい?」
「……何だ?」
「えっとね、私さ、もう一度修行の旅に出てみようかと思うの。あの二人と一緒にさ。私、自分でも馬鹿だったと思うよ。だから、今度は私自身の戦いを見つけて、誰かに胸を張れるような自分に成りたい」
「……勝手にしろ、誰が帰ってこいと言った阿呆が」
「ハハ、相変わらずだね。けどさ、今度はちゃんと私自身の答えを持って、私が誇れる私に成って帰って来るからさ、期待しててよ。それと、身体大事にしなよ? 話はそれだけ、お休みお父様」
「……ああ、お休みクオン」
頭を掻き、部屋を出たクオンを見送ったハルは小さく笑う。
誰かの意思に触れて、己の意思と誓いを得る様は過去の自分とそっくりだと笑う。昔、勇者が隠れ家に訪れ己を打ち負かし、手を引いて立ち上がらせた場面を思い出したハルは、妻と瓜二つに育った愛娘へ思いを馳せる。
修羅は修羅でしか無く、悪鬼は悪鬼にしか成り得ない。人と成るには人と分かり合い、人を受け入れねば鬼は鬼のままなのだ。幾ら強くとも、幾ら一人で生きる事が出来ようとも、それは人として生きる事が出来ぬ単なる命の維持でしかない。
誰かと共に生き、誰かの意思に触れ、受け入れる事で鬼は命を授かり人と成る。遠い回り道を経て、ようやく一人の人間として歩み始める事が出来る。
新たな一歩を踏み出たクオンへ微笑を称えたハルは思う。
どうか、あの娘が世の不条理と理不尽に負けぬようにと、切に願った。