黒い液体が、影のような滑らかな黒を纏った液体が、石畳の溝に沿って流れ往く。
人の雑踏を抜け、住居通りを通ったソレは、宿屋通りに流れ着くと人気の無い路地へ入り込む。
日が沈んだ路地は、心許ない小型魔導ランプが点々と設置された薄暗い場所だった。地面には破り捨てられた行方不明者の張り紙が散乱し、路地に吹き込んだ風により空に舞う。液体は魔導ランプから伸びる影に張り付くと、其処から拙い繰り人形のような動きの
口を動かし言語を発する真似をする。掠れた空気のような音が喉の奥から発せられ、舌を動かし調整する。一歩足を踏み出すと黒い液体が足首から溢れ出し、影の肉体が崩壊を始め、崩れた肉体は泡を吹き出し元の液体状に戻ってしまう。
これで一つ無駄にした、無駄にしたからには補給せねばなるまい。お前のせいで誰か死ぬ、死ねば再び一つとなる。闇の中から幾重もの声が木霊し、路地の影という影から一斉に目玉が開かれる。
子供の目玉、女の目玉、男の目玉、老人の目玉、色彩を失った目は喜怒哀楽様々な感情で失われた一つを嘲笑うと、影の中より
次は無い、否、次もある。次が無ければ次はある。例え一つの意識が死んだとしても、影の中に蠢く無数の意識の集合体からまた新しい意識を垂れ流せばいい。人類を殺し、糧とし、意識を増やす。
影が垂れ流す意識の液体とは喰らった人類の一つの意識。人に扮し、人を誘い、人を喰らう為の疑似餌なのだ。影に取り込まれた意識は最期の瞬間の感情だけを残され、肉体と魔力は影の主である魔族の糧となる。そう、影の中に座す
つまらない、面白くない、退屈だ。麗しい少女の姿で駄々を捏ねるイエレザは怒ったように笑い、怒りながら笑う。ただただ笑う。笑い転げて咽返りながらも尚笑う。愉快でなかろうが、面白く無かろうが、無垢な少女のような顔に妖艶な笑みを張り付けたイエレザは、笑うのだ。
何故笑う、何故怒る、何故真っ白い顔に仮面を張り付けて笑う。問うのならば答えよう、制約に縛られた道化の地獄を笑って何が悪い。道化が道化であるのなら笑ってやらねば道化に生きる価値無し。
ゲラゲラと、影が笑い、イエレザが笑う。意識の集合体の中で個我を保つ狂人染みた
人型を象った影が歪な歩き方から誰の目から見ても
彼女の展開する
上級魔族イエレザは膨大な情報が詰まった世界で歪んだ笑みを口元に浮かべると、通りを歩く二人に視線を向ける。
子供と黒い甲冑を身に纏った剣士。子供は少年のような風貌であるが、幾千もの生命を喰らってきたイエレザには分かる。あの子供は少年に扮した少女であると、影とイエレザは認識する。
何故己の性を偽るのか理解出来ぬが、どうでもいい。あの二人を今日は喰らおう。そうしよう。影が一歩踏み出し、声を発しようとした刹那、強烈な殺意が影とその向こう側に潜んでいたイエレザを貫く。
何だ? と、疑問を持った瞬間人型の頭が潰された。視界が黒く染まり、頭部に激痛を感じたイエレザは影の目を開き、状況を見る。
「何処から見ている、何処に居る、何処に潜んでいる。……其処か」
右目が潰され限界を超えた痛みに笑みが零れる。
「ただの魔族か? それも上級魔族か? いいや構わん、殺せばいい。姿を見せろ」
人の身では収まり切れない殺意、憎悪、憤怒を宿らせた真紅の瞳が影を見据え、その先に存在するイエレザを射抜く。獰猛な殺気を奔らせた剣士は鉄塊を両手で握ると甲冑から溢れた魔力を身体強化に回す。
「そう滾らないで下さりませんか? けど、嗚呼」
剣士、アインの足元の影が円を描き、彼を己の世界に招き入れる。
「あなたは最高の―――」
イエレザが言葉を紡ぐ途中、鉄塊が少女の頭を叩き潰し、脳漿と血を飛び散らせる。アインは我武者羅に剣を振るい、彼女の肉体を粉々に叩き潰すと返り血に染まったバイザーの隙間から覗く瞳に狂気を宿らせた。
「激しい御方、でもそんな貴方が―――」
「喋るな鬱陶しい、忌々しい。貴様、俺に牙を向けたな? 殺す、殺してやる。 骨の一片も残ると思うなよ? 魔族」
「欲しいと思ってしまいましたの」
「黙れよ魔族」
肉片と返り血に濡れて尚イエレザを刻むアインを影が包む。影は彼の肉体に巨岩石をも拉げさせる圧力を掛け押し潰そうとするが、極限にまで昂った感情の爆発を甲冑が即座に魔力に変換し、内側から影の圧力を弾き返したアインは直ぐ様戦闘態勢を整え、影を纏って肉体の損傷を修復するイエレザへ斬り掛かる。
頭部を潰し、胴体に拳を突き入れる。その腕を取り込もうとする影を剣で分断し、宙に舞った腕へ甲冑の棘を伸ばし癒着させる。
幾度となく再生と修復を繰り返すイエレザは上級魔族の中でも化け物染みた不死性を持つ存在だが、その魔族に対したった一人で戦闘を続けるアインの狂気は彼女の比では無い。
「さあ騎士様! あと何回私を殺して下さるのですか!?」
「死ぬまでだ」
「嗚呼……素敵」
剣を振るい、血を浴びる。剣で断たれ、貫かれる。血で血を洗う死闘を見ていた影は、知らず知らずにアインに恐怖を覚えていた。この空間の絶対的な支配者であるイエレザが、
「貴方のお名前を教えて下さい、私の名は」
鉄塊が口に突き入れられ、言葉が途切れる。
「貴様の名に興味は無い。疾く死ね」
そのまま剣を横薙ぎに振り切り、勢いに任せたまま身体を回転させ、上段からイエレザを両断したアインは荒い息を吐く。
「私の名はイエレザ、貴方の名を教えて下さい、黒き騎士様」
「貴様に名乗る名など無い。貴様のような道化に名乗る名は一つも無いんだよ!!」
剣に罅が奔り、鉄塊が砕ける。だが、アインは剣を振るう。砕けた剣であっても、鋸状になった刃でイエレザの肉を削り、骨を砕く。彼の四肢がイエレザの柔肌を抉り、整った容姿を穿つ。
「貴方との逢瀬は私の空虚なる生に落とされた一滴の炎、貴方を手にするためなら何だって捧げましょう、私の全てを捧げましょう。だから―――」
突如イエレザから膨大な魔力が噴き出し、アインに恐怖していた影が本来の畏怖の対象である少女の魔力に従う。
「邪魔しないで下さる? お兄様」
「イエレザ、やり過ぎだ。此処を閉じろ」
「断ります、私は生涯の伴侶を見つけたばかりなのです。彼であれば、黒甲冑の騎士様であれば私を満たしてくれます。だから、帰って下さい。お兄様」
「……時が来たら彼と殺し合えばいい。君の身勝手さに魔将殿も腹を立てている」
「あら、お兄様ご自身が私に
「どうとでも言えばいい。けど、君の空間は一度閉じさせて貰う」
指を鳴らし、青年の体内より溢れ出た獣とも人とも形容し難い混沌は、指揮棒のように振るわれた彼の指先に従いイエレザの影を貪り、破壊し、秘儀により展開された空間を無理矢理閉じる。
「……」
「そう怒るな、我々はまだ動くべきではない。分かってくれイエレザ」
「……分かりました、けど覚えていてくださいね。今度邪魔したらお父様とお母様のように、私の一部として差し上げます」
「ああ分かった、肝に銘じておこう」
ガラスが割れるような音と共に影の空間が閉じ、イエレザは姿を消し、その場にはアインと青年だけが残された。
「では、少しだけ話をしよう。ノスラトゥの主よ」