クエースを蝕む劇毒が絶望と悪意ならば、その毒を解毒する薬はなんだろう。
意思? 未来? 光? これらはどれも正解であるが、毒の根源を浄化する薬には至らない。毒を撒き、毒を利用する者は自らが毒を知り、喰らっているからこそ。その危険性を以て効果的に扱えると言えよう。そう、
だが、毒を知りもしないで言われた通りにしか扱えない者が、悪意と絶望の毒を使ったならばどうなるだろう? 行き過ぎた圧政と弾圧、終わりの見えない暴力による支配。過剰に投与された毒は、知らぬ間に使用者もを腐敗させる毒となり、全てを深い奈落の底へ突き落す破滅の引き金となるのだ。破滅―――そう、知らぬ者は己が毒に冒されている事を知らず、既に腐敗した己を誤認させる。
毒を以て毒を制す。毒を用い、毒を以て絶望を撒く悪が居るのならば、悪は知らねばならない。その毒がどのような効果を持ち、どのような副作用を産むのかを知らねばならない。効果的に、的確に撒かれた毒が成す
悪意を以て絶望を成した悪による劇毒。町に蔓延する毒は支配者自らが撒いた破滅の種である。だが、毒を知らぬ者が用いた毒は、彼の剣士が仕込む毒によりある変化を迎えようとしていた。
「そんなことは、できない」
「いや、出来る。少しだけ呟けばいい、魔族が来たと。それとも、頭を潰されて死ぬ方がいいのか? 時間が惜しい」
「だが―――」
アインの手に力が込められ、頭蓋骨が軋む音が聞こえた。
「少しだけ嘘を吹き込み、伝播させろ。周りを見てみろ、幸いにも貴様の仲間は意識を失い倒れている。魔族の仕業だと、霧に紛れた魔族がいると噂を流せ。迅速に、的確に、幅広く、噂を広めろ。出来ないと言えば、皆殺しだ」
鋼の手指が皮膚を抉り、肉に食い込む。血が流れ、悲鳴を上げようとも激痛により上手く声を発することが出来ない兵は、呻くような声を発し、アインの言葉に屈する。
「もし変な気を起こしてみろ、貴様ら全員瞬く間に皆殺しにしてやる。いいな? 行け、行って自らの手で
声にならない悲鳴をあげ、路地から表通りに走り去って行く兵を、その姿が見えなくなるまで殺意を向けたアインは、踵を返しサレナとディーン、リーネの下へ戻る。
「アンタは、いったい何者なんだ?」
「俺はサレナの剣であり、騎士だ。それ以上でもそれ以下でもない」
「騎士? いや、アンタのやり方はもっと違う」
魔族のような、その言葉を口に出す前にディーンは頭を振る。
此処で問答をしても意味が無い。俺は俺のやるべきことをするだけだ。
「あの女性も連れて行きましょう、アイン、彼女を背負って下さい」
「待て、それじゃリスクが!」
「リスクを負って、進みます。少し、気になる事がありますから」
「気になる事?」
「はい。アイン、お願いします」
気が乗らんが、仕方あるまい。アインは空を仰ぎ、空虚なる瞳をした女性を担ぐと、ついでと言わんばかりに兵から剣を一本奪い、ディーンへ投げて寄越した。
「これは?」
「剣だ、見て分からんか?」
「いや、どうして俺に」
「兵士ならば、戦う者ならば剣の一本くらい持っておけ。いざという時に丸腰なら誰が貴様と他の肉塊を守る?」
「……貰っておく」
剣を腰に差し、駆ける。
「リーネさん、君の家は本当にあの屋敷なんだね?」
「……はい」
路地を抜け、町の外壁に沿って大回りをして進む。
霧が薄くなり、日の当たる場所を避けて進めば当然進行方向は外側に逸れ、内側を進む計画は困難となる。もしの為に第二、第三の計画を立てておいて正解だったと、ディーンは内心安堵の息を吐く。
湿った煉瓦と這うネズミ、鼻孔を刺激するカビの臭い。既に使われなくなった道を進み、周りの建物と比べると一際大きな屋敷の裏に辿り着いた四人は、先に裏口の鍵を開錠し、屋敷の中へ進んだディーンの合図を待つ。
「此処がリーネさんの家ですか?」
「……はい」
「大きなお屋敷ですね、ご家族の方は」
「殺されました、十年前に」
「……申し訳ありません」
「……」
重い沈黙の中、サレナ頭上の窓ガラスが二度叩かれた。彼の合図だ。
「先に行け、外に姿を晒している方が危険だ」
「あ、アインさんは」
「最後に入る。安心しろ、敵が現れてくれた方が俺に都合が良いし、お前たちが居る方が動きにくい。早く行け」
裏口から忍び込むように入ったサレナとリーネを見送ったアインは、ディーンへ女性を押し付け、窓から屋敷の中へ飛び込んだ。
埃が溜まった絨毯と朽ちかけた壁、割れたシャンデリアの動力源となる魔石は既に魔力が切れており、その代わりに幾つもの芯が短くなった蝋燭が至る所に置かれていた。人が住んでいるのに、生活感が薄い屋敷の一室は酷く寂れ、荒廃しているように見える。
「この人はどうする?」
「その、空き部屋が、たくさんあるので、其処に寝かせましょう」
「私も付いて行きます、彼女の容態を確認したいので」
アインは、と口を開きかけたサレナの目に、一枚の写真立てが映った。
周りの家具には埃が溜まり、部屋全体が荒廃しているにも関わらずその写真立てだけは一切埃が積もっていない。毎日拭き掃除がされ、持ち主が大切にしていたと思われる写真立てには、笑顔を浮かべるリーネによく似た可愛らしい少女と、彼女の父母と思われるエルファンの男女が愛しむような視線を少女に向けていた。
「これは……」
「昔の、写真です。父と母と私の、最後の写真。町に、支配者が来る前に撮った、宝物です」
「優しそうなご両親ですね」
「はい、父と母は優しかった、です。けど、優しかったから」
殺されてしまった。消え入りそうな、悲哀交じりの声でそう呟いたリーネは小さく鼻を啜るとディーンの後を追う。
「……アイン」
「何だ」
「この町は、悪は、何なのでしょう? ずっと、リーネさんとディーンさんが居たから黙っていましたが、この、町を覆う不気味な気配は何なのでしょう? 村や丘の家で感じた事の無い粘ついた重い空気、恐ろしい。怖いと、感じてしまう。アイン、私が異常なのでしょうか?」
「異常では無いだろう。この町を覆っている空気は異常であり、恐怖を感じるお前は至って正常だ。サレナ、この空気に慣れてしまい、溺れる者が異常なんだ。心を強く持て、大丈夫だ俺が付いている」
「アイン……手を、握っても構いませんか?」
無言で差し出されたアインの手を握り、声を押し殺して震える。
自分は彼女達が思っている程強くなんてない、誰かを導けるほど強くない、この恐怖を必死に抑え込んでいる弱者に過ぎないのだ。自分の恐怖という感情を誰かに伝播させぬ為、誰よりも気丈に振る舞い、意思を示さなければならない。戦う力も、進む意思も、希望を求める手も、この町を覆う空気に竦んでしまう。自分は、弱いのだ。
「サレナ、聞いてくれ」
「……何でしょう」
「俺はお前の騎士であり、剣だ。お前が恐怖を断ち切り、前に進みたいと思うのならば、俺の剣は恐怖さえも断ち切れる絶対の剣であると断言しよう。
お前は弱い、当然だ、実戦を経験していない者は恐怖に竦み、震えるだろう。だがな、お前の本当の強さは戦う力なんかじゃない。前に進み、希望を求め、光を誰かに与えてくれる意思がお前の強さなんだ」
アインの真紅の瞳が、サレナの瞳を見据える。
「俺は剣を振るう事しか能が無い男だ。だが、お前は違うだろう? サレナ、お前は誰かの意思を奮い立たせ、希望を与える力がある。
お前は弱くなんかない、人本来の強さを持つ者だ。サレナだから俺はお前と騎士の誓約を結んだ。不安ならば俺を頼れ、周りを動かせ。お前なら、サレナなら、絶対にみんなを救えるだろう」