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怯える者よ ②

 足がもつれ、上手く走れない。計画していた逃走ルートより大きく道を外れた為、何処を走っているのか全く見当もつかない。息が切れ、心臓が張り裂けんばかりに脈動し、息をするだけで喉が焼けるように痛んだ。転び、よろめき、挫き、後ろを見ながら走っていたせいで、木に顔を勢いよく叩きつけ、熱い血が鼻から流れ出る。


 恐ろしかった、逃げ出した少女はエルファン故に、特別魔力を感じ取る能力に長け、身に迫る魔力と力の塊に恐怖した。暴力的で、殺戮的な暴風のような力の塊。それは少女が経験した恐怖の中でも別格の存在感を放ち、あの力の前ではどんな人間や魔族でも霞んでしまうかと思ってしまうような、激烈なものだった。


 汗が流れ、目に入る。耐え難い痛みと不快感を感じたが、目を擦る時間も惜しい。とにかく今は走り、距離を取る事が先決だった。だが、後方から猛烈な勢いで詰め寄る恐怖の存在は、少女の足よりも数倍速く、地形をモノともしない出鱈目な移動方法を取っているようで、既に少女との距離は十メートル前後となっていた。


 「―――ッ!!」


 足の裏に小石が突き刺さり、堪らず地面に倒れ込む。


 「ハ―――ハッ!!」


 赤い血が流れ出ていた。膝を強く打ち付けたせいか、皮膚は擦り切れ真皮が露出し、血が滲んでいた。


 「――――」


 倒れ、抵抗する力が無い己を見下ろす存在、それは大熊を思わせる巨躯を持つ黒甲冑の剣士。バイザーの隙間から垣間見える真紅の瞳には、剣の紋章が刻まれており、それは古の誓約の証だと理解した。


 「貴様、何故逃げる? 貴様を狙う肉塊が未だ付け狙っているというのに、何故逃げる? 理解できん、貴様は無理矢理にでも手籠めにされたい願望でもあるのか?」


 阿呆か貴様は。剣士は吐き捨てるようにそう言い放つと、少女を担ぎ、元来た道を走り出す。


 「は、離して、いや、殺さないで!!」


 「殺すわけがなかろう、死にたいのならサレナと話した後で勝手に死ね」


 「さ、サレナ? あ、あの、人間様?」


 「人間様? ハッ、耳の長い肉塊は皆人間をそう言うのか? サレナに頼まれ、保護した耳の長い肉塊もそう言っていたな」


 耳の長い、自分と同じ種族? 少女はハッと息を呑み、共に逃げ出し逸れて|《はぐ》しまった仲間達が無事である事に気が付いた。


 「その、あの、貴男様は、魔族、なのでしょうか?」 


 「知らん」


 「知らない……?」


 「種族など知らん、魔族なのか人間なのか、記憶が無い故判断がつかん。だが、種族なんぞどうでもよかろう。生きていれば殺せる生命だ、種族の違いなど些細な問題でしかあるまい」


 「あなたは、その、エルファンだからといって、殺さない、のですか?」


 「くどいぞ貴様、俺が殺すのは俺の敵とサレナの敵だけだ……少し黙っていろ、舌を噛むぞ」


 「え?」


 剣を抜き、獰猛な殺意を滾らせた剣士、アインは木の陰でクロスボウを構えていた男へ剣を投げ放ち、木の幹ごと男を串刺しにすると並外れた膂力を以て、無理矢理剣を横薙ぎに振り抜き、草葉の陰に身を潜めていた他の男の気配を察知しすると同時に刃を振り上げ叩き下ろす。


 男の脳天はかち割られ、血と脳漿が飛び散り、鉄塊を叩きつけられた彼の眼球が飛び出し、絶命する。アインの一連の動作は洗練さの欠片も存在しない、だが、殺しという明確な行動指針を体現する戦い方は、迷いの一切を取り払った動きであり、一種の武の極致に達していた。


 「肉塊が次から次にうじゃうじゃと……殺しても殺しても殺しきっているのかさえ怪しいものだな」


 苛立たしい、こんな塵芥のような肉塊は何処から湧いてくる? 蛆虫か何かか? いや、地を這う様ならばネズミか何かか? 死体を踏み潰し、先を急ぐアインへ、少女は驚いたような視線を投げかける。


 「お強いのですね、その、人間様は」


 「こいつ等が弱いだけだ、相手が魔族ならばこうもいくまい」


 「魔族には、敵わないの、ですか?」


 「魔族も殺す、武器を向けられたならば殺すだけだ。戦う必要があり、戦わねばならない状況であれば誰だって剣を抜くだろう? 貴様は剣を抜かないのか?」


 「……抜いたところで、負ければお終い、です」


 「そうか、貴様は敗北者なのだな」


 「そう、ですね」


 戦ったところで負ければ惨たらしい結末が待っている。死んでいないだけで、生きてもいない。自分がどうやって生きているのかさえ分からない。力なく項垂れた少女は町を覆う絶望を、人々を蝕む悪意を、口にするか思い悩む。


 「貴様らの事情なんざ知った事ではないし、俺には関係の無い下らないものだ。そうして絶望しているといい、迷っているといい。その間にも貴様らは敗北を重ね、負け犬根性が染みついて離れなくなるだけだろう」 返す言葉も無かった。敗け続け、奪われ続け、気付いた頃には全てを失っていた。


 温かで優しかった両親も、世話を焼いてくれた幼馴染も、面倒を見てくれた祖父母も、全てが血と罪に濡れ、町に絶望が溢れていた。


 助けて欲しかった、誰かが助けてくれるのを待っていた、自分たちで変える意思を持たなかった故に、生命と権利さえも奪い尽くされた。支配者とその猟犬に。


 涙が溢れて、唇を噛み締める。声を出さずに泣く。


 絶望を希望に、闇を光に、求めしものは救済。だが、それは己が意思で成さねばならぬ祈りと願い。

 猛スピードで森を駆け抜け、食事の準備を終えたサレナが待つキャンプ地に辿り着いたアインは、担いでいた少女を地面に降ろすと背を木に預け、腕を組んでジッと立つ。アインの視線はサレナと彼が保護した少女達へ向けられていたが、敵を察知するセンサーにも似た気の滾りは一瞬も途切れない。


 「リーネ!! 良かった、良かった!!」


 「……うん」


 「人間様、いえ、サレナさんの騎士様が助けてくれたの! ああ本当に良かった! 生きて会えるなんて!」


 アインが担いで連れて来た少女、リーネは自身と同じように逃げ出した少女達に取り囲まれ、喜びを分かち合っていたが、何故か彼女の表情は暗く、迷いがあるように見えた。


 「アイン、お疲れ様です。手を」


 「何故だ?」


 「鎧、汚れていますよ? そんな姿じゃまた彼女達に怖がられてしまいます」


 「構わん、一度は恐怖された身だ。今更どう思われようと」


 「アイン、手を」


 「サレナ、だからな」


 「手を」


 「……あぁ」


 アインの鋼に包まれた大きな手をサレナが両手で握り、術を唱える。すると、甲冑に付着した血肉と臓物が浄化され、大小様々な傷が修復される。


 「アイン、ご飯が出来ていますよ? 食べられますか?」


 「ああ」


 「なら良かった。皆さーん! 食事ですよー!」


 リーネ以外の三人の少女達は皆それぞれサレナの指示の食器を並べる。一人、浮かない顔をしたリーネはアインの下に歩み寄り、落ち着かない様子でおずおずを声を掛けた。


 「その、他の皆を、本当に助けて下さり、ありがとうございます」


 「礼はサレナに言え、俺は彼女の為にやっただけだ」


 「それでも、皆、生きて、ました」


 「そう言われたから、生かし連れて来た」


 「……」


 「何だ? 話はそれだけか? これ以上話すことが無いなら飯を食え、食える時に食っておかないと―――」


 「あの!!」


 突然大きな声を出したリーネに、サレナと少女達の視線が向けられる。


 此処で言わなければ駄目なような気がした、此処で言わなければ後悔するような気がした。此処が分岐点なのだろう、町と自分たちと、希望と絶望の分かれ道。今進まなければ変わらない、意思を固めなければ歩けない。逃げては―――いけない。


 「お話が、あります!」


 此処が、己の岐路なのだとリーネはに悟ったのだ。

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