少女が走る、一心不乱に、走る。切り傷だらけの素足から血が流れ出ようと、頬が枝で傷付き血が垂れようと、そんな些細な事なんて構わない。
後方から地が抉れ、爆ぜる音が聞こえた。何度も、何度も、まるで此方に位置を知らせるかのような爆音は次第に距離が縮まり、爆破された樹木の木片が背に当る迄になっていた。
これが最後のチャンスだった。町から逃げ出す最後のチャンス。もし自分が逃亡に失敗し、追手に囚われたとしたら、手を貸してくれた者やその家族、仲間が殺されてしまう。だから、今ここで捕まるワケにはいかなかった。
「――あっ!!」
足が滑り、大きく倒れ込む。肘と膝、足首に激痛が奔り、涙が滲んだ。
「見つけたぁ!! おぉい!! 此処に居たぞお!!」
右方向から男の声、継いで後方から下卑た笑い声と複数人の足音が迫ると、あっという間に十人もの武装した男達に囲まれている事に気付く。
歯がガチガチと鳴り、全身が震える。突き付けられた剣の刃に怯え、
「なに逃げようとしてんだ? ああ?」
「ご、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!!」
「聞こえねえなあ」
「ごめんなさい!! 許して下さい!! 助けて下さい!! お願いします!! お願いします!!」
腹を蹴られ、髪を掴み上げられ、その白い肌を男の汚らしい舌が舐った。
逆らった者は、四肢の何れかを切断され三日間野晒しされる。町に敷かれたルールに則り、支配者が制定した法律によって処罰される。逃亡罪はその法律の中では特に重く、舌を切り取られ、権利を剥奪された後、ありとあらゆる責め苦を受けて、四肢を切断される。逃亡者の親類、家族も同罪であり、少女は何人も刑を受けた者を見てきた。
残酷な支配者とその猟犬は逃げる者を狩り、虐め、悦楽に浸る。泣き叫び、逃げ出そうとする少女の服を剥ぎ、無理矢理股を開かせた男達は、ギラついた目を欲望に染め、涎を垂らす。
「……」
ふと、黒い影が見えた。
黒い甲冑と黒い剣、空間が歪む程の殺意を垂れ流す影は斬り掛かった男の首を刎ね、斬り刻み、粉砕しながら歩を進め、憎悪に濡れた真紅の瞳を男達と少女へ向けた。
「ま、魔族―――」
口を開いた男の喉に鋼の手指が食い込み、潰す。
「肉塊が何を話している? 何をしようとしている? いや、言うな、貴様らは皆殺しだ!!」
男達は一斉に武器を構えるが、剣士の姿が瞬時にして掻き消えた瞬間、少女を取り囲んでいた男達が一斉にして強大な力を叩き付けられたかのように血肉と臓物を飛び散らせ、絶命した。
鮮血に濡れ、激情を滾らせた剣士。その姿は恐怖を超えた感情を刺激する悪鬼の姿。その悍しき剣士に許容量を超えた恐怖の感情を刺激された少女は、彼に駆け寄る白銀の髪を持つ少女を視界に映し、意識を手放したのだった。
………
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「旅の準備は十分かね? 森は貴公らを受け入れ、再び訪れる際は自ずと道を開くだろう。サレナ殿、アイン殿、また巡り会える時を楽しみにしているよ」
館にて、旅の準備を済ませたサレンは、数日分の水と食料を担いだアインと共に、カロンと別れの言葉を交わしていた。
「何から何まで、ありがとうございますカロン様」
「いいのだ、サレナ殿。これは私がしたくてしている事故に、礼など必要無い。アイン殿、その娘を宜しく頼むよ」
無言でカロンへ視線を向けたアインは、当たり前だと云った風で魔女に背を向け歩き出す。
「おやおや手厳しい。だが、貴公はそれで良い。ほら、サレナ殿も行きなさいな」
「はい」
少女が剣士へ駆け寄り、笑顔を見せる。可愛らしい、年相応の恋をする少女の笑顔。微笑ましい少女を最後まで見送ったカロンは独り呟く。誰にも聞こえない声で、囀るように、最後の忠告を呟く。
「悪とは、何なのだろうな。貴公は耐え難く、醜悪なる悪を見出した時、どのような選択を取るのだろうな。悪を、罪を、この世界に見出すは時。希望と絶望、光と闇、全てが曖昧となるぞ」
なぁ、統合者よ。
魔女の呟きは風に消え入る。彼女の独白は風と世界のみが知る真実。制約は嘲笑い、世界は沈黙を諭す。
悪が迫る。生命を穢し、陵辱せしめる悪が、這い寄っていた。
………
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歌が聞こえた。
鈴のような美しい声色に乗った、何処か懐かしい歌。
柔らかな感触と落ち着く匂い、歌に合わせ、髪を撫でる小さな手の平。重い瞼を開いた少女は、自身を見下ろすかくも麗しい少女を瞳に映し、自身がどのような姿勢で気を失っていたか悟る。
「気が付きましたか? もう大丈夫です、あなたを襲う者は去りました」
去った……? 逃亡者を何処までも追跡する猟犬のような人間達が諦めた? いや、人間だけではない、あの恐ろしい、悪鬼のような剣士も去ったと云うのだろうか?
怯えた様子で起き上がった少女は、身の安全を確かめるように周囲を見渡すと、其処に居る者は白銀の髪を持つ少女と己だけであると知り、やっと一息吐いた。
「ありがとう、ございます。その、介抱まで、人間様に」
「構いません、礼を言うなら私の騎士に。あ、申し遅れました、私の名はサレナ。旅をしている者です。どうかお見知りおきを」
不安を刈り取るような笑顔を少女へ向けたサレナは、懐から杖を取り出すと術を唱え、彼女の衣服の汚れと傷を癒し、湯を沸かす。
「申し訳ありません、どうにも修復術の魔法があなたの衣服を治せなくて。アインの甲冑ならば治せるのですが、上手くいかないものですね」
服の構造から素材まで幅広く知っておくべきだろうか? けど、アインの甲冑は何故治せるのだろう? うんうんと唸り、杖を振っては自身の服に術を掛けるサレナを他所に、少女は何故人間が
「どうしました? 何処か痛むところはありますか?」
「……あなた様は、私がエルファンであることを、気になさらないのですか?」
「エルファン? あぁ、魔法の才脳に長けた耳の長い人種の事ですか? 別に気にしませんよ。同じ人類である事は変わりありませんし、言葉を交わせれば意思は通じます。何を気にする必要があるのですか?」
何を突然変な事を言っているのだろうといった風でポカンとした顔をしたサレナに、増々困惑する少女。
人間がエルファン、それもエルファンの女性にこんなにも優しく接する筈が無い。町を支配し、暴虐の限りを尽くす人間がこんなに優しい目をしている筈が無い。隣人を暇つぶし程度に凌辱し、家畜の如く弄ぶ人間が、我が物顔でエルファンを迫害する人間が、こんなに美しい筈が無い。
「まぁ、お話はこれからゆっくりするとして、そろそろアインが帰って来る筈ですから、ご飯にしましょう。お野菜とお肉は食べられますか?」
「……アインって、誰―――」
全身の毛が逆立つような力を感じた。その力は魔力と感情が滅茶苦茶に入り混じった不可解な力の波動。魔力でありながら魔力を感じず、感情でありながら常に暴発と爆発を繰り返す理不尽な力の塊。一歩、また一歩、大地を踏み付け迫る存在に、自然と身体が委縮し、情けなく震えてしまう。
「どうしたのですか?」
「に、人間様は、感じないのですか? この、圧倒的な、力を、激情を、殺意を」
「あぁ、なら彼が帰って来たようですね。少々お待ちください、私の騎士を紹介します」
逃げ出そう、一刻も早くこの場から逃げ出そう。この馬鹿げた力の奔流から、少しでも遠ざかろう。少女は竦む足に活を入れ、脱兎の如く駆け出す。深い森の中へ、緑の地獄の中へ、駆け出すのだった。