森を抜け、暫く歩を進めると小丘があり、その頂上には小さな平屋の木造家屋がぽつんと建っていた。家屋の近くには鶏を飼うための鶏小屋と小規模の畑、一本の背の高い樹木がそびえ立っており、その樹の下には墓石を模した無名の石と花束が供えられていた。
サレナは石の前で両手を組み、瞼を閉じると祈りを捧げる。祈りを終えると彼女は石の前に置かれた花束を手に取り、新しい花束を供えた。
「何だその石は」
「母様のお墓です」
「……死んだのか?」
「はい。もう二年になりますが実感が湧かないものですね、肉親の死というのは」
静かに、そう呟いた彼女の瞳は愁いを帯び、僅かに潤んでいた。丘の冷たい風がサレナの白銀の髪を靡かせ、樹木の枝葉をざわめかせた。
「何故死んだ」
「……あの麓に見える村が見えますか?」
少女が指差した方向を見ると、煙突屋根が立ち並ぶ村が見えた。常人の肉眼では村の様子を事細かに把握するのは困難極まりないものだが、アインは甲冑のバイザーを通し粒にも等しい村人の生活や動きを視認することができた。
「一週間後、私は巫女として村の為に尽くさねばなりません。母様と同じように顔も知らない男の子供を孕み、この家で育て、死なねばなりません。この村の守神にこの身に宿る命を捧げる……それが私の一族の務めであり、運命なのです」
「守り神だと? あの村は何か外敵の脅威に晒されているのか?」
「いえ、母様の話では百年の間一度も魔族の襲撃にあっていないそうです。村の広場にある像が見えますか?」
「ああ」
「それが村の守神の像です。一週間後、私は像の前で加護を授かり子を儲けます。その後、その子が一人で生きていけるまで育て、命を神に捧げる。それが巫女の運命であり、使命なのです」
広場の中心に位置する像。それは蝙蝠の羽を伸ばす男性を象った禍々しい石像でだった。百年間絶え間なく雨風に晒されていたというのに、石像には罅が奔った跡や苔が生した様子がまるで無く、不可思議なまでに百年前の姿を保っていた。
「……」
「すみません、湿っぽい話になってしまいましたね。どうぞ、家にいらっしゃって下さい。食事を用意します」
ジッと、石像を眺める。像を眺めれば眺める程にアインの内に殺意が沸き上がり、背負った剣が微かに震えたように感じた。
「どうしました? アイン」
「サレナ、あの像は何か良くない気配がする」
「良くない気配とは?」
「分からない」
「きっと気のせいですよ。疲れているからそう感じるだけです。食事を摂ってゆっくり休めば気が晴れますよ」
「……」
何か納得しないという風で像から視線を外したアインは彼女の後に家の中へ入り、剣を戸棚に掛けた。
「アインは何故森の中で休んでいたのですか?」
「三日三晩剣を振り続け、休んでいた。眠る時間など無かったからな」
「三日三晩? えっと、それは魔族とずっと戦っていたということですか?」
「魔族と人間、その両方と戦っていた。何故か奴らは俺を見た瞬間襲い掛かって来る。全て斬った、魔族も、人間も、全て殺した」
木製の椅子に座り、腕を組んだアインは窓の外を眺め、黒の剣へ視線をやった。
「サレナ、何故人間は人間同士、魔族は魔族同士で戦わない。俺を襲ってきた者共は両種族が対面した矢先に、俺の存在など忘れたかのように殺し合った。どんな乱戦でも決して同胞へ攻撃する事は無く、どちらか一方が全滅するまで殺し合っていた。異常じゃないか、寸分違わず敵へ攻撃を向けるなんて、有り得ないだろう?」
異種族同士が互いに我を忘れたかのように殺し合う。互いが互いを憎み合い、殺意をぶつ合い、怒りに身を任せたまま最後の一人になるまで殺し合う。その姿は戦闘に狂乱する意思無き傀儡のような有様であり、不気味にすら思えるものだった。
「異常だ、有り得ない、不可思議だ。この世界は同種族間の戦闘を禁止しているようにも感じられる。ならば何故俺は人間を殺せる? 何故俺は魔族を殺せる? 俺は、一体何なんだ? 人でもない、魔族でもない、人の形をした生命体? 俺は、何だ?」
人を殺し、魔族を殺し、命を狙う存在を全て斬り捨ててきたアインには、この世界で生きる生命体は全て異物にしか見えなかった。
人の形を持った肉塊が、人と同じ言葉を発し戦う。意味不明な生き物が訳も分からずに互いを憎み合う姿は捻じれて歪み、醜悪にさえ見えた。
「……アイン、あなたにはこの世界について教えねばならぬ事があるようですね」
「世界について?」
「ええ、この世界は二つの領土に分かれており、人と魔族が互いに争い合う戦乱の世なのです。母様が話して聞かせてくれた話では、人類の勇者が魔王と戦い、勇者の勝利によってこの世界に平和が訪れるとされています。私は外の世界をこの目で見た事は無いのですが、あなたの話から察するにまだ勇者は魔王を討ち取っていないのでしょう」
サレナは戸棚から一冊の古い書物を取り出し、テーブルの上に広げると手書きで記された文字を指でなぞる。
「これは私の一族に伝わる本の形をした魔導媒体です。一族の血筋を持つ者がこの文字に触れる事で賢者カロンが記した世界の記憶を垣間見る事が出来ます」
サレナが文字へ魔力を流入させると、文字はぼんやりとした白い光を発し、紙面から離れると宙へ舞い飛び彼女の周囲を旋回する。
「私たちは外の世界を知らず、内に閉じこもる生を送る不変の一族。過去の巫女はこの本に触れる事に恐怖し、未知を恐れたのです。しかし、未知を恐れ、恐怖によって前へ進む事を拒否するばかりでは何も変わらない。私は時々母様の目を盗んではこの本を用いて外を垣間見ていました。過去の記憶しか読み取れない媒体ですが、あなたの過去を知るには十分なものでしょう。少々お待ちください」
金色の瞳が文字を追い、白く細い指が宙を撫でる。小声でぶつぶつと何かを呟いていたサレナは、途中で記憶を読む事を諦め申し訳なさそうな様子で本を閉じた。
「……どうだった?」
「……申し訳ありません。あなたの過去、出生、経歴を覗き込もうとしたのですが、その、何も見えませんでした」
「どういうことだ?」
「三日前、あなたが人類と魔族両方の兵士と戦っている場面は見えました。しかし、それ以前の記憶を覗き込もうとしたのですが、何故か映像にノイズが奔り、黒く染め上げられるのです。まるでこの先の過去が無かったように、何も見えなくなる。……初めてですね、こんな現象は」
「……」
暫しの沈黙。
人間でも魔族でも無い己は生物であるのか? それとも生物ではない何かなのか? 疑念が己の内で渦巻くアインの手をサレナは優しく包み込み、フルフェイスの向こう側に見える真紅の双眼を覗き込む。
「アイン、自分がどういった存在か分からないと言いましたね」
その声は優しく、慈愛に満ち。
「あなたは人間でも魔族でも何方でも無くてもよいのです。感情があるのならばそれはあなたを個とする意思であり、魂の道標となるのです。生きているのならば変われる。変わろうとする意志が個をたらしめるのです」
「アイン、あなたは過去を失いゼロから歩き出す新たな命。これからどんな道を歩く事になろうとも、この先の未来があなたにどんな世界を見せようとも、変わり続けるのがゼロから歩き出す者の特権なのです。だから、大丈夫、どんな感情に支配されようと私の言葉を思い出して、進んでください。ね? アイン」
彼女の手の平から伝わる熱は、奪うしか知らない鋼に温もりを与え。
その金色の瞳は、この世界のどんなものよりも美しい。
剣士の胸の内から湧き出る未知の感情、尊く、守らねばならぬその感情の名を剣士は知らない。知らない故に、求めてしまう。剣士に渦巻く激情を押しのけたその感情を、彼は無言でサレナの手を握り返したのだった。