陽光が木々の隙間を縫って草花に温かい光を分け与える。
森には豊富な種類の草花が生育しており、聖都では希少な薬草や毒草もこ
草木が茂り、木々の間を慣れた様子で歩く白銀の髪を靡かせる少女が居た。金色の星々を思わせる美しい瞳を持つ少女は人形のように、いや、人間離れした可憐さと未成熟の美しさを併せ持つ者だった。
「……?」
森が普段と違い沈黙しているように感じた。鳥の囀りも、木々の葉が擦れる僅かな音も、動物の足音も鳴き声も、何も聞こえない。この森に生きる全ての命が息を殺し、何かに怯えている。幼少期の頃より森を訪れていた少女も一歩、また一歩と草を踏みしめる事に何か重苦しい雰囲気を感じ取る。
少女の鼻孔が錆びた鉄の臭いを感じ取った。彼女は不用心にもその臭いを辿り、森の奥地へ足を踏み入れる。薄暗く、陽光の一切が遮断された仄暗い闇の中へ、まるで誘い込まれるように進む。
嗅いだことがあるような鉄錆びの臭い。それは―――血の臭い。いつだったか誤って指をナイフで切ってしまった時に嗅いだ事がある臭い。少女が進む事に臭いは強烈に、吐き気を催すほどに強くなり、彼女の胸は恐怖と非日常の狭間で早鐘を打つように高鳴っていた。
仄暗い闇の中で黒い巨体が蠢いた。金属同士がぶつかる重々しい金属音が巨体から発せられ、
「誰だ、貴様は」
「……」
「俺を追ってきた魔族の仲間か? 俺を殺そうとする人間か? どっちだ? 殺すという意思があるのなら貴様の首を剣で飛ばす」
鮮烈な殺意と湧き出すマグマを思わせる憎悪。荒い息からは濃い疲労の色が垣間見えるが、瞳に宿る狂気はそれとは正反対に鮮烈な輝きを放っていた。
「……あなたを害そうとする意思はありません。剣を引いていただけませんか?」
「そうやって貴様も俺を殺そうとしているのだろう? 騙されん、俺は決して騙されん。去れ、命ある者の顔など見たくない」
少女が一歩、男へ歩み寄る。狂獣、手負いの獣、乾いた血と肉片に塗れた黒甲冑の男へ静かに、一歩ずつ近づいた少女はその白く小さな手で甲冑の装甲を撫でると小さく呪文を唱えた。
白い光が甲冑を覆い、血と肉片を浄化する。血の一片をも払い清めた光は少女の手の平から発動された魔法であり、彼女の魔法は甲冑の傷や破損も修復し、フルフェイスの向こう側に在る男の肉体と精神も回復させた。
「……大丈夫ですか?」
「何故、助けた」
「傷ついた人を助けるのに理由は必要ですか? あなたには休息と食事が必要のようですし、どうでしょう―――私の家に来ませんか?」
「……貴様、俺が、恐ろしくないのか?」
「恐ろしく無いと言えば嘘になります。けど、母様は何時も見知らぬ誰かを助けていました。それが罪人であろうと、無辜な人間であろうと、分け隔てなく持てる魔法を使い、助けていました。私もそれに倣っただけです」
少女は男から三歩ほど離れ小首を傾げる。その表情は何か可笑しな事を言っただろうかと言葉無く言った風であり、そのあまりに簡単な答えに男は剣を下ろすとふらつきながらも立ち上がり、クツクツと含んだような笑い声をあげた。
「何故笑っているのでしょう?」
「何故かね……俺にも分からない。初めて、笑ったような気がする」
「そうですか。あ、私の名前はサレナと申します。あなたのお名前は?」
「……分からない」
「分からない?」
「何も分からない。覚えていない。名前も、出身も、歳も、何も覚えていないんだ、俺は」
男が先程までに纏っていた剣呑な雰囲気は幾分か和らぎ、その代わりに何処か哀愁のような。悲哀を帯びたような空気を醸し出すと鋼の手指を見つめ、思い出せる範囲の記憶を掘り返す。
この手が触れたものは剣の柄と命を絶つその瞬間。それだけだった。何時も何かを奪い、殺してきた手は熊を思わせる程に大きく、分厚く、傷だらけのように感じた。誰かに触れた事もなく、握った事もない。孤独な両手。目覚めた瞬間より常に孤独の道を歩んできた男に、少女は呆れたように近づくとその手をギュッと握り締め、戸惑う男を力いっぱい引きずり始めた。
「貴様、何をする気だ」
「あなたを連れて家に帰るつもりですが?」
「俺は行くと言っていないだろう? そもそも貴様は何故俺に構う」
「……さみしそうだったから、ですかね」
「さみしそう? 俺が?」
「孤独は良くありません。孤独が似合う人なんてこの世に居る筈がありません。私は母様が亡くなってから一人で生きてきましたが、生きているだけです。心は……孤独に堪えられません。あなた、名前が無いんでしたよね?」
「……あぁ」
「なら私が名前を授けましょう。そうですね……あなたは今日からアインと名乗ればいいでしょう。古代語でゼロの意味を持つ言葉です。無ければゼロから始めればいい。あなたはゼロから自分の人生を作り上げればいいのです」
いいじゃないですか、覚えていなくても。少女は男の手を引きながら森の奥地から歩み出し、光が満ちる世界を指差す。
「必ず在るはずです。あなたが生まれた意味も、記憶を失った理由も。アインはこれからも歩き続ける人です。だから、必要以上に人を遠ざけるものではありません」
男、アインが放つ殺気と憎悪が和らいだせいか、草花のざわめきや動物の鳴き声が森の中に木霊する。森が、命が、アインを受け入れてたように感じた。
「貴様」
「サレナ」
「きさ―――」
「サレナです。名前、ちゃんと呼んで下さい」
「……サレナ」
「ん、何でしょう?」
「……ありがとう」
「お礼なんか必要ありません。それで、アイン」
「……何だ?」
「行く当ては、次の目的地は決まっているのですか?」
「いや、全然だ」
「ならそうですね……私の手伝いをしませんか?」
「手伝い?」
はい。サレナは可愛らしい笑みを見せると。
「それは家でお話します」と、アインの手を引き家路についた。