タイミングというものは、どうしてこうも空気の読めないものなのか。
「れっ、れれれレイ!? どうしてここに!」
「きみがここにいると聞いたから」
「えっ……」
「料理長にたのまれて、スイーツを届けにきた」
「……あぁあ〜! そうだったんですね〜!」
たしかにレイは、フルーツサンドの載ったワゴンを押していた。
たびたび部屋を脱走するカイルの面倒はレイが見ているようだが、そのレイの面倒はディックが見ているようだった。ときおりこうしてレイに簡単な仕事を言いつけ、「お駄賃」と称してまかないを作ってあげているらしい。
面倒見のいいディックに、レイもすっかりなついている。
「まぁ、あなたがレイなのね! 話には聞いていますよ」
ユリエンへ視線を移したレイは、軽く会釈をするだけに留まる。
「うふふ、かしこまらなくていいわ。こちらにきて、いっしょにおしゃべりしましょう?」
「公爵さまがおっしゃるなら。カイルの弟、レイといいます。兄がお世話になっています」
ユリエンから許可が出たところで、レイもふだんどおりの口調で返す。
「リアをいろいろと助けてくれて、ありがとう」
「いえ。助けてもらったのは俺のほうです」
「あら、謙虚。いきなりここに連れてこられてびっくりしたでしょう。困ったことはありませんか?」
「まさか。とてもよくしてもらって、ありがたいくらいです」
すらすらとユリエンに答える様子を見れば、レイも公爵家で過ごす時間を心地よく思ってくれていることがわかった。
「ただ……」
だからこそ、そう言ってふいに口をつぐんだレイに、セフィリアは嫌な予感をおぼえる。
「兄さんの怪我が治ったら、俺は孤児院に戻ろうと思います」
やはり、予感は的中。
予想外なレイの発言が、セフィリアの思考を奪う。
「手紙で無事は知らせていますが、やっぱりルフ先生を心配させているだろうし……弟たちもまだ幼いので」
レイは行方不明になってから、一度も孤児院へ戻っていない。
カイルが孤児院を出てからはレイが下のこどもたちの兄代わりになっていたようだし、あんな事件があった後だ。レイも育ての親であるルフに会いたいだろう。
(彼が、いなくなる……やっと会えたのに)
とたん、セフィリアの気分はずんと重くなる。
知らず知らずのうち、テーブルの下で白いワンピースの裾をきゅっとにぎりしめていた。
「私は、レイの好きなようにするのが一番だと思いますわ」
ここにいてほしい。そんな本音とは裏腹に、セフィリアの口は強がりを言う。
「そうだわ。レイ、フルーツサンドをすこしもらえますか? カイルさんの大好物だったと思うので、差し入れをしてきます」
「それなら、俺があとで──」
「大丈夫です、部屋でちゃんと休んでいるか確認の意味も込めて、私が行ってきます。残りは食べてもらってかまわないので!」
「ちょっと、きみ……!」
「たまにはレイもゆっくりしてください、それでは!」
質問の隙は与えない。
なにか言いたげなレイは知らんぷりで、フルーツサンドを紙袋に詰めたセフィリアは、そそくさと温室を後にした。
* * *
あたたかな陽の光が射し込む一室。
窓辺にたたずむカイルは、手にした一冊の本に視線を落としていた。
ぺらり。ぺらり。何度かページをめくったのち、カイルはふと顔を上げる。
ブルーの瞳が、窓ガラス越しにとある一点を捉える。そこは、庭園にある噴水広場。
「────」
カイルが小声で何事かを唱える。するとかざした右手から青く光る魔法陣が出現。
その直後だった。噴水の方角で同様に青い発光があり、上から下へ流れ落ちるだけの水流がぱたりと止む。
偶然通りがかった庭師たちが「なんだ?」「どうした?」と首をかしげるころ。
プシャアアッ!
凪いだ水面が、突如として水柱を噴き上げる。
空高くまで噴出した水は細かな霧雨となって草花へ降りそそぎ、きらきらと光の粒子をともなって七色の橋を架けた。
「最初はこんなもんかぁ」
突然の出来事に慌てふためく庭師たちから視線をはずし、カイルはパタンと本を閉じる。コンコンコン、とドアのノック音に気づいたのは、そのときだ。
「はい──」
「こんにちは、カイルさん」
「──お嬢さま?」
カイルが部屋のドアを開けると、そこにいたのはセフィリアだ。なにやら紙袋をかかえている。
「今日はちゃんとお部屋にいましたね」
「この様子だと俺、抜き打ちチェックされた系ですか」
「それもありますが、差し入れです。ディックさんのフルーツサンドですよ。お邪魔してもいいですか?」
「断る理由がないですね。大歓迎ですよ、お嬢さま」
「では、失礼します」
はにかんだカイルに手招きをされ、セフィリアは彼の部屋に足を踏み入れる。
カイルがふだん寝起きをしている部屋。ここを訪れるのは二度目だ。だが以前の状況が状況だっただけに、まじまじと目にするのは今日がはじめてである。
とはいえ、デスクや椅子、ベッドにクローゼットなど、必要最低限な家具しか置いていない殺風景な部屋だ。
「今日はなにを?」
「読書ですかね」
「読書? というと……その魔導書のことですか?」
セフィリアが指差したのは、カイルが手にしていた本。これはセフィリアも見たことがある。初級〜中級レベルの魔法を記した魔導書だ。青い表紙であることから、水魔法に関する魔導書だとわかる。
「そうそう。水魔法はあんまり試してなかったなぁと思いまして」
風魔法と水魔法の適性がある。それは以前カイル本人の口から聞いたことだ。
「追い風で身体能力が強化できる風魔法は武器を使った闘い方と相性がいいんですけど、そればっかじゃだめだなって」
「それで、水魔法のほうも挑戦してみようと?」
「そんなところです。なんていうか水魔法は、ザ・魔法! って感じじゃないですか? 使い手も多くて確立されてる魔法もたくさんあるので、できるに越したことはないです。どうせいまは外に出て走り込みもできませんしね」
「もう、カイルさんったら……」
要するに騎士としての訓練にストップがかかっているため、魔法の腕を磨くことにした。カイルはそう言いたいらしい。
「こっちに座ってください。紅茶を淹れましょうか」
「ありがとうございます」
紙袋をわたすととたんに手持ち無沙汰になり、セフィリアはカイルにすすめられた椅子にちょこんと腰かける。
とくにやることもなくぼんやり部屋を見わたしていたら、デスク上に積まれた本を見つけた。どうやら、いろんな魔導書を読みあさっているらしい。
「カイルさんは勤勉ですね。……あら?」
デスク上にあるのは一般的な教材に使われる魔導書だったが、その中にセフィリアにも見覚えのない古めかしい本が一冊まぎれ込んでいた。
「散らかっててすみません」
あれはなんですか、とセフィリアが疑問を口にする前に、カイルが手にした本もろともすべてデスクの引き出しにしまい込む。
結局質問する機会を失ってしまい、セフィリアは手際よくティーセットの準備をするカイルの背を見つめることしかできなかった。
ほどなくして紅茶の支度がととのい、当然のようにフルーツサンドとともに振る舞われる。
「いっしょに食べたほうがおいしいですよ」と言われては、セフィリアもうなずくしかない。
「で、お嬢さまはなにから逃げてきたんですか?」
「へっ……」
ひとしきりティータイムを堪能した後。唐突なカイルの問いに、セフィリアの声が裏返る。
「だって、なんかそわそわしてますもん。心ここにあらず、みたいな?」
「それはその……」
「レイとなにかありました?」
「えっと……」
バレている。さすがカイルといったところか。彼の目はごまかせない。
「嫌なことをされたわけではなくて、私がただ、勝手に落ち込んでるだけなので……」
「まぁ、なんとなく理由は想像がつきますけど」
カイルはため息まじりにティーカップを置き、デスクに頬杖をつく。そしてブルーの瞳でじっとセフィリアを見つめた。
「だから、俺にしとけばいいじゃん」
「カイルさん……」
「違うでしょ、
「っ……」
わざと強調する言い方は、確信犯のものだ。
「…………
やっとの思いで声を絞り出したセフィリアへ、カイルはにっと笑みを深める。
「はい。やっとふたりきりで話せますね」
──前世の記憶を取り戻した。
七海であったことを自覚してなお、セフィリアを見つめるカイルのまなざしは、水飴のように甘くとろけていた。