ふわり……
その香りは、ふいにただよってきた。
「おはようございます。お目覚めの時間ですよ、お嬢さま」
甘酸っぱい花の芳香。
そうだ。この香りを嗅ぐのはいつも決まって、彼がやってくるとき。
「んん……」
「今朝はお寝坊さんですか? 仕方ないなぁ」
まんざらでもなさそうな笑い声のあと、セフィリアは抱き起こされる感覚につつまれる。
なんとか重いまぶたをこじ開けることに成功したセフィリアは、ぼんやりとした視界で、ベッドに座らされていることを理解した。
「そのまま楽にしてくださいね」
目の前で人影がかがむような気配があり、足置き台に乗せられた右足がじんわりと熱を帯びた布でぬぐわれる。
ふわり。甘酸っぱい香りが、ひときわ強く香る。
そうだ、思い出した。これは起こしにやってきた彼が、毎朝一番にやってくれること。
カモミールの花弁を煮た湯に浸した布で、足を拭いてくれているのだ。
ふだんならそれが終われば室内用の靴を履かせられるのだが、両足を丹念に拭いたところで彼の手が止まった。
「……カイル、さん……?」
いまだ夢うつつなセフィリアが、寝ぼけまなこをこすりながら名前を呼んだところで。
──ちゅ。
セフィリアの左足にふれたままのカイルが、おもむろに足の甲へキスを落とした。
「こんなことができるのも、お世話係の特権ですよねぇ」
くすくすと耳に届く声が、やけに上機嫌だ。
このときようやく、セフィリアは覚醒した。完全に目が覚めた。
「……カイルさん」
「はい、おはようございます。今朝は寝癖がキュートですね、お嬢さま」
カーテンを引いたままであるのに、なぜか視界がまぶしい。というのも、カイルが太陽のような笑みを浮かべていることに要因があるのだが、いま重要なのはそこではない。
なぜなら、いまこのとき目の前にいる彼が、
すぅ……と肺いっぱいに息を吸い込んだセフィリアは、渾身の腹式呼吸でひとこと。
「わたあめちゃーんっ!」
「お呼びかあるじ。むむっ、カイルめ、なにをしておる!」
「なにって、お嬢さまのお世話係を」
「ええい問答無用だ、お縄につけい!」
「ふがっ……ちょ、前見えないんだけど……」
セフィリアの悲鳴に呼び出されたわたあめが、ぽふんっとカイルの顔面に飛びつく。
もふもふとした白い体毛に視界を覆われたカイルは、文字どおり前後不覚に。
「失礼する!」
ちょうどそのとき、部屋の扉を開け放つ者がいた。黒髪の少年、レイだ。
レイはカイルのほうへ猛然と駆け寄ってくると、右のこぶしをふりかぶる。
「観念しろ、兄さん」
「へ……」
「──ふッ!」
「ぐはっ」
どす、と重い打撃音のあとに、カイルが崩れ落ちる。みぞおちに一発決められたのだ。
「やるではないか!」
あまりに一瞬のことで呆然とするセフィリアをよそに、床に降り立ったわたあめが絶賛する。
「俺が目を離した隙に、これなんだからな……怪我人という自覚が足りない。まったく」
物理的にカイルを寝かしつけたレイが、呆れたように兄をひょいとかつぐ。
「すまない、兄さんが邪魔をしたな。俺たちはこれで失礼するよ」
自分より頭ひとつ分は背の高いカイルをずるずると引きずりながら、レイは涼しい顔でセフィリアに断りを入れ、部屋をあとにする。
パタン。扉が閉じられると、苦笑いで見送っていたセフィリアにどっと疲れが押し寄せる。
「……もぉお、カイルさんったら〜!」
ここ数日間で恒例になりつつあるのだが。
これは、ベッドを抜け出してセフィリアのお世話をしようとする怪我人カイルを、レイが実力行使で回収に来る朝のワンシーンである。
* * *
「からだが勝手に動くんだから仕方ないじゃん!」
とは、全治2週間の大怪我にも関わらず仕事に精を出そうとするカイルの供述である。
「俺以外のだれがお嬢さまを起こすの? スケジュール管理は? 護衛は?」
こうしちゃいられない! とカイルがたびたびベッドを抜け出すため、「傷口が開くだろうが!」とレイが強制的に連れ戻すのくり返しだ。
そんな日々が続けば、セフィリアもいよいよ危機感をおぼえる。
そこで熟考の末に導き出した解決策が、これだ。
「なにもありませんよ」
「……はい?」
「レッスンだとか、予定はしばらく入れていません。毎朝寝坊しても大丈夫です。お屋敷から出ないので、護衛の心配もいりません」
セフィリア、ヒマをもてあます。
そもそもの予定がなければ、カイルもお世話のしようがないという見解である。
「そういうわけでカイルさん、よく食べて、よく寝て、早く怪我を治してくださいね?」
にっこり。セフィリアから笑顔という名の圧力を受けたカイルが、「お嬢さま、そんなぁ……!」と涙目になったことは、言うまでもない。
かくして、カイルが療養に専念できるようセフィリアも心を鬼にしていたわけなのだが……事件が起きるのは、たいていそんなときである。