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第90話 逃がすかよ

「──聞こえなかったか? 死にたくなければ、お嬢さまからその手を離せ」


 セフィリアは息をのむ。

 冷たい言葉、痛いほどの殺気が陽気でやさしいカイルから発されたものであると、にわかには信じられなかったのだ。

 ここまで激怒したカイルを、セフィリアは見たことがなかった。


「物騒だな。これだから人間は血の気が多くて困るよ」


 首もとに短剣を突きつけられてもなお、クラヴィスは余裕の姿勢を崩さない。それどころか、呆れたようなため息を隠しもしない。


「そこまで言うなら、きみのその手でこの子を奪ってみればいいじゃないか。まぁ……ただの人間でしかないきみが、僕に敵うわけがないだろうけどね?」


 その言葉は挑発であり、クラヴィスの本心でもあったのだろう。

 クラヴィスは地獄の番犬ケルベロスを従えている。ヤンスのように一瞬で消されてしまう光景を直前に目の当たりにしていれば、ふつうの人間ならば恐れおののくことしかできない。


「……わかってんだよ、そんなことは。けど、あんたにそれを言われるのは、なんか無性に癪にさわる」


 しかし、カイルの反応は正反対のものだった。

 クラヴィスに気圧されるどころか、ブルーの瞳に、闘志をさらに燃え上がらせるのだ。


「俺が雑魚でしかない人間のクソガキなら、その俺に一発入れられたあんたはなんなんだろうな!」


 ──ビュオウッ!


 カイルの足もとから、一陣の風が巻き起こる。

 左のほほから血をしたたらせていたクラヴィスはかすかに舌打ちをして、セフィリアをきつく抱く。


「きゃ……!」


 ヴゥン──……


 ぐにゃりと歪んだ空間に飲み込まれたかと思えば、クラヴィスに抱かれたセフィリアは、一瞬にしてカイルの背後へ移動していた。転移魔法テレポートだ。


「逃がすかよ!」


 だが、カイルの反応速度もすさまじかった。

 瞬時にクラヴィスの気配を察知し、たんっとひと飛びで距離を詰める。右手に短剣をにぎりしめて。


 キィインッ!


 けたたましい衝突音がひびき、火花が散る。

 右手をかざしたクラヴィスが魔法陣を展開。カイルの一撃を弾き返したのだ。


「風魔法で身体能力を強化しているのか。ふぅん……人間にしてはやるみたいだけど」


 カイルの実力を認めたクラヴィスだが、セフィリアに見せるような上機嫌な饒舌さはない。淡々と、「面白くない」とでも言いたげだ。が、ふいにくすりと笑みをもらす。


「なにがおかしい!」

「いいや? どんなに優秀でも、結局きみが人間でしかないことに変わりはない。そう思ってね」


 クラヴィスの声音に、嘲笑がまじる。

 果敢にも幾度となく踏み込み、短剣をふるうカイルではあるが、余裕の笑みを浮かべたクラヴィスによってひらりとかわされていた。


「ほらほら、もっとがんばらないと。まるで闘牛のようだよ?」

「この野郎っ……!」


 ぶわり。

 ブルーの瞳がぎらりとまたたき、カイルの周囲で魔力濃度が急激に上昇。ゴウゴウと強風が吹きすさびはじめる。それはまさに、嵐。


「あれは……カイルさん、やめて!」

「落ち着くんだ、カイル!」


 異様な魔力濃度であることは、一目瞭然。

 セフィリアとジェイドがほぼ同時に制止するも、カイルは止まらず。


「返せ……セフィリアお嬢さまを、返せッ!」


 がきぃん、と重たい衝突音ののち、短剣の突き刺さったバリアの魔法陣にヒビが入る。

 それからガラスが割れるような音を立て、魔法陣が砕け散るも──


「──ざんねん」


 かたちのいい唇をことさらゆっくりと動かし、クラヴィスはわらった。


 すい──


 クラヴィスがおもむろに、左手の人さし指を虚空でスライドさせた直後。


 ──ぷしゃあ。


 長い指の軌道をなぞるかのごとく、カイルの右肩から真紅の飛沫が散る。

 驚愕に目を見ひらくカイル。彼がよろめく光景を、セフィリアはやけにスローモーションで目の当たりにする。


「うっ……ぐぁあッ!」


 カイルの手からすべり落ちた短剣が、地面をのたうち回る。

 うめき声をあげて崩れ落ちたカイルの右肩からは、とめどなく血があふれていた。

 とたん、セフィリアから血の気が引く。


「っ……カイルさん、大丈夫ですか、カイルさん!」

「おっと。暴れないで、いいこにしてて?」

「離して! 離してよっ!」


 すぐにでもカイルのもとへ駆けつけたいのに、クラヴィスの腕から抜け出すことが叶わない。歯がゆくて、不甲斐なくても、セフィリアは唇を噛むことしかできない。


「わからないな……そんなにそのぼうやのことが大事? 僕のほうが強いでしょう?」


 からだの芯が凍えるような心地だったが、悪びれもせずのたまうクラヴィスに、セフィリアはカッと燃え上がる怒りをおぼえる。


「──いい加減にしなさいよ」

「うん? セフィリア、どうし……」

「離しなさいっつってんのよッ!」


 クラヴィスの肩をつかんだセフィリアは、怒りにまかせ、一撃を繰り出す。

 魂を込めた一撃──渾身の、頭突きを。


 ごちぃんっ!


 視界が白く弾ける。セフィリア自身も激痛に見舞われた。だが、こんなことでひるむセフィリアではない。


「魔王がなに? 私のたいせつなひとに手を出して、ただじゃおかないわよ! ぶっ飛ばしてやるわ、グーパンで!」


 まさかセフィリアに一撃を食らわされると思ってはいなかったのか。

 放心したように動きを停止したクラヴィスに向け、セフィリアはきつくこぶしをにぎりしめる。そして。


「……い…………した……」

「は? なに独り言言ってるの」

「……おもい、だした……」

「だからなにを──」


 予想外の展開が、セフィリアを襲う。

 うわごとのようにつぶやいたクラヴィスが、腕から抜け出そうとしていたセフィリアをがしりと抱きすくめたのだ。


「ひゃあっ!? なにっ……」

「思い出したよ……僕の愛しい子! あぁっ、どうしてこんなにたいせつなことを、忘れていたんだろう!」


 クラヴィスを突き動かすのは、震えるほどの喜び。

 セフィリアへほおずりをしながら、はらはらと涙をも流している。


「僕がきみに惹かれるのは当然だったんだよ。ふふ、負けず嫌いでおてんばなのは変わらないね……可愛い可愛い、僕の阿妹アーメイ?」

「な…………」


 その瞬間、セフィリアは混乱におちいる。

 耳を疑った。だがクラヴィスから発された言葉は、聞き間違いなどではない。


「僕がわからないの?」


 いや、わからないはずがない。

 じぶんのことを「阿妹」だなんて呼ぶ存在は、ひとりしかいないのだから。


「………リン師兄にいさま?」


 無意識のうちに、セフィリアの口からこぼれていて。

 歓喜に笑みを深めたクラヴィスの表情が、すべての答えだった。


「そうだよ、愛花アイファ花梨かりん──僕の愛しい子。今度こそ、僕らは愛し合うために生まれてきたんだね、セフィリア!」


 もう、否定しようがない。

 魔王クラヴィス──彼は、燐が転生した青年なのだと。

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