「はっ、はっ……はぁっ!」
少年は走っていた。
物乞いにあふれた通りを、ねずみが這う薄汚い路地裏を、ただひたすらに駆け抜ける。
ざぁぁ……
どす黒い雲。ひび割れた地面を叩く水のつぶ。
どのくらいの時間、冷たい雨に打たれているのだろう。もうわからない。
濡れた黒髪が、ひたいに張りついて気持ち悪い。
(いったい、なにを間違ったんだろう……いや)
屋根のある家で寝起きをすること。
清潔な服に袖を通すこと。
毎日食事を摂ること。
そんな生活が、ひとときの夢だったというだけ。
この掃き溜めのような場所では、弱い存在から排除されてゆく。
少年──レイのように。
(兄さん……)
酸欠によって朦朧とする意識のなか、レイの脳裏に兄の顔が浮かんだ。
もうどれくらい、会っていないのか。
「いたぞ!」
「……っ」
行く手に、大柄の男が現れた。
ぐ、と足を止めたレイの背後に、その仲間も迫る。
挟みうちにされてしまった。
「小僧め、手こずらせやがって」
「『
あぁ、ばれてしまった。
これまでじっと、息を殺して生きてきたのに。
たかだかゴロツキの遊ぶ金のために、なぜじぶんがこんな目に遭わなければならないのか。
レイはまぶたを閉じ、空を仰ぐ。
容赦なく降り注ぐ雨が全身にしたたり、指の先まで凍えてしまいそうだった。
「おとなしくしろ!」
このまま諦めてしまえば、いっそ楽になれるかもしれない。
──それでも。
「こんなやつらに好きにされてたまるか……だよな。カイル兄さん」
こころが折れることは、なかった。
レイはカッと目を見開き、やせ細ったからだで果敢にも立ち向かう。
炎のように鮮烈な赤い瞳で、つかみかかる男たちを捉えて。
* * *
某日。この日セフィリアは、毎日の楽しみであるアフタヌーンティータイムを取りやめて、『特別講義』の予定を入れた。
長いストロベリーブロンドをピュアホワイトの三角巾でまとめ、同じく白無地のエプロンを身につけてやってきたのは、厨房。
「ご指名いただき、たいへん光栄でございます。僭越ながらわたくしディックが、本日のご指導をさせていただきます」
恭しく一礼したのち、ディックが脱帽したコック帽を定位置にもどす。
そして腕まくりをしながら、セフィリアへ向かってにっと笑みを浮かべた。
「おいしいパンを焼きましょうね、セフィリアお嬢さま!」
「はい、がんばります!」
そういうわけで。
踏み台を使ってディックとならんだセフィリアは、昼下がりの厨房で、パン生地をこねていた。
──そうだ、パンを焼こう。
思い立ったが吉日とばかりにディックのもとへ走れば、セフィリアのたのみを快諾してくれた。
あれから早2日。大量に手配した材料が届いたので、良質な小麦をふんだんに使って、パン作りにいそしんでいる。
「生地がべっとりしてますね」
「はじめは調理台にこすりつけるようにして伸ばします。手のひらの土手のところを使ってくださいね」
「よいしょ、よいしょ……こんな感じですか?」
「お上手ですよ。生地がつながってきたでしょう?」
「ほんとうですね!」
「お次は生地を叩きます。放り投げるのではなくて、生地を指に引っかけて、落とすような感じで」
「すごい、表面がつるつるしてきました……!」
「ははっ、こうして生地がまとまってきたら、バターを入れます」
軽快にパン生地をこね、叩くディック。
簡単そうに見えるが、これがなかなか重労働だ。
やりごたえがある、とも言える。
「楽しそうだな。どれ、ワタシも加勢しよう」
「ありがとう、わたあめちゃん。それじゃあ、このパン生地をこねこねしてくれますか?」
「うむ」
はじめは見学していたわたあめも手伝いを買って出てくれたので、お言葉に甘えることにする。
セフィリアが取り分けたパン生地をわたすと、わたあめも見様見真似で前足を使ってこねこね、というかふみふみする。消毒したふきんの上からなので、衛生管理も抜かりはない。
発酵の終わったものから石窯に入れ、次のパン生地をこねているうちに、香ばしいかおりが厨房にただよってくる。
「さぁお嬢さま、焼き上がりました。お手製のパンを召し上がれ!」
「いただきますね。すごくいい香り!」
待ちに待った味見の時間。
ちぎったパンを口に運んだとたん、口のなかにしあわせが広がった。
「ん〜! 香ばしいかおりのあとに、バターのまろやかな風味がひろがって、おいしいです……! ディックさんは教えるのがお上手ですね!」
「はっはっは、お嬢さまは使用人を褒めるのがお上手だ!」
「これは……美味だな」
セフィリアに絶賛されたディックは上機嫌になり、わたあめも焼きたてのパンを夢中ではぐはぐしている。
「うわー、俺だけ仲間はずれじゃん。ずるいなー」
「あら……カイルさん?」
いつの間にかカイルがやってきて、セフィリアのうしろからひょいと手もとをのぞき込んでいた。
不満げなのは、和気あいあいとしたやり取りを前に、ふてくされたからなのか。
「なぁディックのおっさん、俺にもパンの焼き方教えてよ。お嬢さまの胃袋をつかむためにさ」
「喧嘩売ってるのか小僧。お嬢さまの胃袋をつかむのは俺だ」
「おとなげなーい!」
「たわけ、料理長のプライドだ」
軽口を叩きあうふたりを見ていると、セフィリアも自然と笑みがこぼれてしまう。
ディックとカイルはほんとうに仲がいい。年齢差も相まって、親子のようだ。
「ごめんなさい。カイルさんを仲間はずれにしたつもりはなくて」
「わかってますよ。こどもたちに配るパンを焼いてるんですよね」
カイルの言うとおり。セフィリアがせっせとパン作りをしていた理由は、アーレン公爵家が支援している孤児院を訪問して、パンを配るためだった。
慈善活動のためと周囲には話しているが、セフィリアにはもうひとつ、目的があったりする。
「そうそう、カイルさん。今日は騎士団の訓練もお休みですよね?」
「えぇ。お嬢さまがお呼びとのことで、もどってきましたけど……俺になにか?」
本来なら、午後は訓練場にいる時間。
騎士団の訓練に励むカイルに、セフィリアも配慮している。
しかし今日は、どうしても外せない用事があった。というのも。
「カイルさんに、プレゼントがありまして!」
「えっ? 俺? なんで?」
ぽかんとするカイルへ、セフィリアは最高にまぶしい笑顔を返した。
「正式に騎士団に所属することになった、お祝いです!」