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第75話 お祝いです!

「はっ、はっ……はぁっ!」


 少年は走っていた。

 物乞いにあふれた通りを、ねずみが這う薄汚い路地裏を、ただひたすらに駆け抜ける。


 ざぁぁ……


 どす黒い雲。ひび割れた地面を叩く水のつぶ。

 どのくらいの時間、冷たい雨に打たれているのだろう。もうわからない。

 濡れた黒髪が、ひたいに張りついて気持ち悪い。


(いったい、なにを間違ったんだろう……いや)


 屋根のある家で寝起きをすること。

 清潔な服に袖を通すこと。

 毎日食事を摂ること。

 そんな生活が、ひとときの夢だったというだけ。

 この掃き溜めのような場所では、弱い存在から排除されてゆく。

 少年──レイのように。


(兄さん……)


 酸欠によって朦朧とする意識のなか、レイの脳裏に兄の顔が浮かんだ。

 もうどれくらい、会っていないのか。


「いたぞ!」

「……っ」


 行く手に、大柄の男が現れた。

 ぐ、と足を止めたレイの背後に、その仲間も迫る。

 挟みうちにされてしまった。


「小僧め、手こずらせやがって」

「『赤眼あかめ』なら、こんなガキでも物好きが買うだろ」


 あぁ、ばれてしまった。

 これまでじっと、息を殺して生きてきたのに。

 たかだかゴロツキの遊ぶ金のために、なぜじぶんがこんな目に遭わなければならないのか。


 レイはまぶたを閉じ、空を仰ぐ。

 容赦なく降り注ぐ雨が全身にしたたり、指の先まで凍えてしまいそうだった。


「おとなしくしろ!」


 このまま諦めてしまえば、いっそ楽になれるかもしれない。

 ──それでも。


「こんなやつらに好きにされてたまるか……だよな。カイル兄さん」


 こころが折れることは、なかった。

 レイはカッと目を見開き、やせ細ったからだで果敢にも立ち向かう。

 炎のように鮮烈な赤い瞳で、つかみかかる男たちを捉えて。



  *  *  * 



 某日。この日セフィリアは、毎日の楽しみであるアフタヌーンティータイムを取りやめて、『特別講義』の予定を入れた。

 長いストロベリーブロンドをピュアホワイトの三角巾でまとめ、同じく白無地のエプロンを身につけてやってきたのは、厨房。


「ご指名いただき、たいへん光栄でございます。僭越ながらわたくしディックが、本日のご指導をさせていただきます」


 恭しく一礼したのち、ディックが脱帽したコック帽を定位置にもどす。

 そして腕まくりをしながら、セフィリアへ向かってにっと笑みを浮かべた。


「おいしいパンを焼きましょうね、セフィリアお嬢さま!」

「はい、がんばります!」


 そういうわけで。

 踏み台を使ってディックとならんだセフィリアは、昼下がりの厨房で、パン生地をこねていた。



 ──そうだ、パンを焼こう。

 思い立ったが吉日とばかりにディックのもとへ走れば、セフィリアのたのみを快諾してくれた。

 あれから早2日。大量に手配した材料が届いたので、良質な小麦をふんだんに使って、パン作りにいそしんでいる。


「生地がべっとりしてますね」

「はじめは調理台にこすりつけるようにして伸ばします。手のひらの土手のところを使ってくださいね」

「よいしょ、よいしょ……こんな感じですか?」

「お上手ですよ。生地がつながってきたでしょう?」

「ほんとうですね!」

「お次は生地を叩きます。放り投げるのではなくて、生地を指に引っかけて、落とすような感じで」

「すごい、表面がつるつるしてきました……!」

「ははっ、こうして生地がまとまってきたら、バターを入れます」


 軽快にパン生地をこね、叩くディック。

 簡単そうに見えるが、これがなかなか重労働だ。

 やりごたえがある、とも言える。


「楽しそうだな。どれ、ワタシも加勢しよう」

「ありがとう、わたあめちゃん。それじゃあ、このパン生地をこねこねしてくれますか?」

「うむ」


 はじめは見学していたわたあめも手伝いを買って出てくれたので、お言葉に甘えることにする。

 セフィリアが取り分けたパン生地をわたすと、わたあめも見様見真似で前足を使ってこねこね、というかふみふみする。消毒したふきんの上からなので、衛生管理も抜かりはない。

 発酵の終わったものから石窯に入れ、次のパン生地をこねているうちに、香ばしいかおりが厨房にただよってくる。


「さぁお嬢さま、焼き上がりました。お手製のパンを召し上がれ!」

「いただきますね。すごくいい香り!」


 待ちに待った味見の時間。

 ちぎったパンを口に運んだとたん、口のなかにしあわせが広がった。


「ん〜! 香ばしいかおりのあとに、バターのまろやかな風味がひろがって、おいしいです……! ディックさんは教えるのがお上手ですね!」

「はっはっは、お嬢さまは使用人を褒めるのがお上手だ!」

「これは……美味だな」


 セフィリアに絶賛されたディックは上機嫌になり、わたあめも焼きたてのパンを夢中ではぐはぐしている。


「うわー、俺だけ仲間はずれじゃん。ずるいなー」

「あら……カイルさん?」


 いつの間にかカイルがやってきて、セフィリアのうしろからひょいと手もとをのぞき込んでいた。

 不満げなのは、和気あいあいとしたやり取りを前に、ふてくされたからなのか。


「なぁディックのおっさん、俺にもパンの焼き方教えてよ。お嬢さまの胃袋をつかむためにさ」

「喧嘩売ってるのか小僧。お嬢さまの胃袋をつかむのは俺だ」

「おとなげなーい!」

「たわけ、料理長のプライドだ」


 軽口を叩きあうふたりを見ていると、セフィリアも自然と笑みがこぼれてしまう。

 ディックとカイルはほんとうに仲がいい。年齢差も相まって、親子のようだ。


「ごめんなさい。カイルさんを仲間はずれにしたつもりはなくて」

「わかってますよ。こどもたちに配るパンを焼いてるんですよね」


 カイルの言うとおり。セフィリアがせっせとパン作りをしていた理由は、アーレン公爵家が支援している孤児院を訪問して、パンを配るためだった。

 慈善活動のためと周囲には話しているが、セフィリアにはもうひとつ、目的があったりする。


「そうそう、カイルさん。今日は騎士団の訓練もお休みですよね?」

「えぇ。お嬢さまがお呼びとのことで、もどってきましたけど……俺になにか?」


 本来なら、午後は訓練場にいる時間。

 騎士団の訓練に励むカイルに、セフィリアも配慮している。

 しかし今日は、どうしても外せない用事があった。というのも。


「カイルさんに、プレゼントがありまして!」

「えっ? 俺? なんで?」


 ぽかんとするカイルへ、セフィリアは最高にまぶしい笑顔を返した。


「正式に騎士団に所属することになった、お祝いです!」


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