──セフィリアは、猛然と疾走していた。
ジェイドが目にしたなら「お嬢さまぁー! なりませんー!」と発狂しながら追いかけてくるだろう。
だがこの際、レディーの品格など知ったことか。
ゆえにセフィリアは、『廊下は走らない』と現代でも口酸っぱく注意されるルールを完璧に無視して、屋敷内を疾走している。
(私は、たいせつなことを忘れているわ!)
事件後丸2日寝込み、今朝ようやく目をさましたセフィリアだ。当然ながら午前も午後もレッスンの予定はない。
つまり思う存分行動ができるチャンスは、今日のみ。
ユリエンとお茶をしたあと、自室を飛び出したセフィリアは、一直線に書庫へやってきた。
ここには教材から歴史書、魔導書、その他貴重な文献にいたるまで、ありとあらゆる書物が本棚に敷き詰められている。
「ルミエ王国法、ルミエ王国法……あぁっ、あんなところに!」
セフィリアはざっと書庫内を見わたし、天井高くまでそびえる本棚の最上段に、お目当ての本を見つける。
すぐさま壁に立てかけられていたはしごを引きずってきて、よじのぼる。
ずしりと重く分厚い本を手に取るなりパラパラとひと通り目を通したセフィリアは、ガクリとうなだれた。
「なんてこと……お母さまのおっしゃるとおりだったわ……」
セフィリアが躍起になって目を通していた書物、それはルミエ王国の法律、とくに婚姻に関するもの。
古ぼけたページには、こう記されている。
──わが王国は一妻多夫制を推奨する。
──よって女子に限り、重婚を許可する。
「うそでしょーっ!?」
にわかには信じがたいが、見間違いではなかった。
セフィリアは深呼吸ののち、情報を整理する。
「ルミエ王国では、古くから女性のほうが豊富な魔力をもって生まれる傾向にあった……」
魔法国家であるルミエ王国において、魔力はなによりも重視される。
必然的に、王室や貴族をはじめとして血統を重んじる家系は、女性に家督がゆずられることとなった。
しかし、一方で大きな問題があった。
「出生率は、
思い返せばセフィリアの身のまわりでは、カイルやディック、ジェイドなど、男性の使用人がほとんどだ。
「カイルさんがぜんぶこなしちゃうからとくに気にしていなかったけれど、そもそもの話、メイドの存在自体が貴重だったのね……」
どうりで没落したとはいえ、もとは高貴な血すじであったヘラがメイド長をつとめていたわけだ。
そのヘラが毒殺未遂事件の責任を問われ、公爵家を追われる身となったのだ。
アーレン公爵家に仕えるひとびとは、ほぼ全員が男性であるといっても過言ではないだろう。
そしてセフィリアは、いままで大きなかん違いをしていたことに、つい先ほど気づいた。
「女性が優遇される世界……」
女性が主体の国家で、高貴なるアーレン公爵の地位を与えられる人物は、ただひとり。
「お母さまが、アーレン公爵……っ!」
そう。セフィリアが盛大にかん違いをしていたことが、それだ。
じつはいままで、セフィリアは父のノクターが公爵であると信じて疑わなかった。
だが実際、アーレン公爵家の血を引いていたのはユリエン。ノクターはルミエ王国内でも辺境にささやかな領地をもつ、貧乏男爵家の生まれだった。
この世界で男性が爵位をつぐことはよしとされないため、『男爵』というだけで白い目で見られる。
そんな常識をぶち破り、世紀の大恋愛の末に結婚したのが、ユリエンとノクターなのだ。
「私はお父さまひとすじですから、これ以上結婚はしません。ですがリアは、リアのしたいようにしていいんですからね?」
とは、先ほどのお茶会にてユリエンにかけられた、ありがたーいお言葉だ。
ちなみにユリエンによると、貴族社会ではより多くの夫をもつことは財力や権力を表すと考えられ、推奨されている。そして成人年齢こそ法でさだめられているが、実際には貴族令嬢がまだ幼いうちに、こぞって男性たちが婚約をもちかけてくるのだとか。
(こんなの、合法逆ハーじゃない!)
さすが乙女ゲームが舞台なだけある。いや、いまは感心している場合ではない。
(どうしてこんなだいじなことを忘れていたの? だめ……思い出せないわ……)
紅茶に毒を盛られ倒れる以前のことを思い出せないのと、おなじだ。
ところどころページが破り捨てられてしまったかのように、この世界に関する記憶が、抜け落ちてしまっている。
「まさか合法逆ハーを目の当たりにすることになるとは……ていうか……え? まって」
うんうん唸りながらページをめくっていたセフィリアは、視界に飛び込んできた一文に度肝を抜かれた。
「成人年齢……男性は15歳、女性は……12歳!? おかしいわ! これぜったいおかしいですってー!」
興奮のあまり、手にした本を床に叩きつけたくなる衝動に駆られる。
このときセフィリアは、完全に忘れていた。
じぶんがいま、どこにいるのかを。
「えっ、落ちっ……ひゃあっ!」
気づいたところで、時すでに遅し。
足場にしていたはしごがぐらりとかしぎ、セフィリアのからだは宙に投げ出された。
(ぶつかる……!)
衝撃を覚悟したセフィリアは、きつく目をつむる。しかし──
ヒュオウ……
窓のない書庫内に風が吹き抜ける。
そして、すとん、という軽い感触とともに、セフィリアはだれかに抱きとめられた。
「お嬢さまはほんとに、目が離せないですねぇ」
「えっ……あっ、か、カイルさん! ごめんなさい……」
「いえいえ、これくらいお安い御用ですので」
セフィリアの危機に颯爽と現れるとなれば、やはりカイルだった。
お得意の風魔法でセフィリアの落下重力を相殺し、見事抱きとめてみせたらしかった。
そっとカーペットにおろされたセフィリアは、カイルを前にして気もそぞろになる。
「あのう、カイルさん……」
「なんでしょう?」
「お父さまと、どんなお話をされました……?」
「聞きたいですか?」
待ってましたとばかりに、カイルが白い歯を見せて笑う。
「そりゃあもう、俺とお嬢さまの将来に関わる重要なお話を」
「きゃーっ!」
やけにほほ笑ましいノクターに連れて行かれていた時点で、薄々予感はしていたのだ。
(してるわ! これはぜったい、カイルさんにいろいろとよろしくお願いしているわ、お父さま!)
──ねぇリア、将来はカイルと結婚するんでしょう?
──それならさっさと婚約しちゃいなさいな!
どうやらユリエン、ノクター夫婦の視点でセフィリアとカイルのやり取りは仲睦まじく見えるそうで、相思相愛なのだとすばらしく早とちりをされてしまった。
そういうわけで、セフィリアも大慌てでユリエンの誤解をといてきたところだ。
「お嬢さまのお考えどおり、旦那さまからは『そういうお話』をされました」
「それで、カイルさんはなんと……?」
「はい、ぜひ婚約させてください──って乗っかりたいのは山々でしたけど、こればっかりはお嬢さまのお気持ちもありますのでね」
「えっ?」
「だってお嬢さま、最近俺が近づくと逃げますし。嫌々婚約とか結婚とかをするのは、ちがうじゃないですか」
それは予想外の返答だった。
すっとんきょうな声をもらしたセフィリアに、カイルは笑ってみせる。カイルらしい、快活な笑みだ。
「最近はいじわるしすぎましたね。反省してます。お嬢さまへの『好き』があふれたゆえの、若気の至りということで、大目に見てもらえたらうれしいなって」
「カイルさん……」
「お嬢さまが嫌がることはしないので、俺のこと、そばに置いてくれませんか? いまはそれだけでいいです」
「……すごい心変わりですね」
「下心がないわけじゃないんですよ。けど、お嬢さまを困らせてまで優先することじゃない。そう思っただけです。正直、今回の事件は、俺もけっこうキたので……」
カイルはそういって、自嘲気味に薄く笑った。
セフィリアが倒れたことについて、やはりカイルは相当堪えたようだ。
そこであらためておたがいの関係性について考え、セフィリアを尊重する結論にいたった、ということなのだろう。
「そうですね。私も、カイルさんにたくさん助けていただいています。どなたかと婚約だとかは、いまは考える余裕がなくて……それでも、これまでどおり、私に力を貸していただけますか?」
「もちろんです! なんたって俺は、セフィリアお嬢さま専属のお世話係兼騎士なんですからね!」
カイルは満足げにうなずいて、セフィリアの手を取る。
「結婚してやってもいいよって、お嬢さまに思ってもらえるようにがんばりますので。まぁ気長に、よろしくお願いしますね?」
それは、宣戦布告のつもりなのか。
恭しく手の甲へキスをするカイルへ、セフィリアは「……覚悟しておきます」と返した。