「っふふ……お嬢さまのほうから来ていただけるなんて、思いもしませんでしたわ」
可笑しげに笑みを浮かべるヘラのまなざしは、獲物を前にした捕食者のそれだ。
ジェイド、カイルが立ちはだかる。
(黒……ね)
ヘラの胸もとを見やったセフィリアの視界に、黒く染まったハート型の『好感度ゲージ』が映った。
その殺意の対象がじぶんなのか、娘を守るように抱きしめるユリエンなのかは、この際さして問題ではない。
──ヘラの右手ににぎられた硝子の小瓶。
現状、これがヘラのもつ最大の凶器である。
(一瞬でも、隙を作れれば……)
そうすれば、ジェイドやカイルがヘラを拘束するはず。
「ヘラ。あなたとひさしぶりに会って、むかしのことを思い出していました」
「お母さま……?」
セフィリアの策を汲み取ったのかさだかではない。が、おもむろにユリエンが語りかけたことで、ヘラの意識が彼女に集中する。
「……ですから、なんです?」
「まだ年若いのに、ひとりで出稼ぎにやってきたあなたと出会ったときのこと……私にとって、懐かしい記憶です」
ヘラへ言葉をかけるユリエンのまなざしに、敵意はない。
最初からそうだ。ユリエンはヘラに対して、なにかを訴えかけようとしていた。
「あなたは器用で、紅茶を淹れるのが上手でしたね。きっと立派なメイドになるだろうと思っていました」
「……なにをいまさら」
「私は不器用で、何事も練習しないとこなせませんから、器用なあなたがうらやましかった。母を見返してやるのだと、じぶんの意思を強くもって主張できるあなたを、すごいひとだと……尊敬していました」
「嘘よ! 口ならなんとでも言えるわ!」
「えぇ、受け取り方は個人の自由です。これは、本心をきちんとあなたに伝えきれなかった私の落ち度なんです」
「っ、そうやって被害者ぶって! そうよ、あなたは臆病者よ! 家柄に恵まれただけ、跡取りもろくに生めない出来損ない! 私のほうがよっぽどうまくやれたわ!」
「いい加減にしないか、ヘラ!」
穏やかなノクターが声を荒らげる。
セフィリアは、彼ら夫婦がやっとの思いで授かった子だった。
ユリエンに落ち度などない。家族を侮辱されれば、当然の怒りだ。
それでも、ユリエンは語りかけることをやめない。
「……あなたの孤独を、私はなにひとつ理解できていませんでしたね。争いたくないからと、曖昧にして……それでもヘラ、これだけは言わせてください。神に誓って、私の言葉に嘘いつわりはありません。あなたのことを尊敬して……姉のようだと思っていました。いつか仲良くなれると、信じていました……!」
「うる、さい……うるさいうるさいうるさいッ!」
「カイルさん!」
「わかってます、そこ動かないでくださいね、お嬢さま!」
発狂したようにヘラが叫び、すぐさまカイルとジェイドが動く。
「離しなさいよっ、このっ!」
「おとなしくしろ!」
ジェイドに羽交い締めにされたヘラが、がむしゃらにもがいている。力の差は歴然だ。
「終わらせないわ……こんなところで!」
そうと叫んだヘラが、メイド服の袖をたくし上げる。
その左手首には、黒い石のはめ込まれたブレスレットのようなものがあり。
──カッ!
まばゆい光が、セフィリアたちの視界をくらませる。
「ユリエン……リア!」
焦燥に駆られたノクターの声で、まぶたをこじ開けるセフィリア。
その目の前には、ヘラがそびえ立っていた。
魔導具によるテレポートだ。
駆け寄るノクターのすがたが見えるが、おそらく間に合わない。
「……手遅れなのよ、なにもかも」
光を失った瞳でセフィリアを見つめたヘラが、右腕をかかげる。
「私を哀れに思うなら……死んで」
──パリィン!
けたたましい音が鳴り響く。
大理石の床に叩きつけられた硝子の小瓶が、砕け散る音だ。
「──リアっ!」
呆然とするセフィリアの視界を、ユリエンが覆った。
直後、黒ずんだ粉が、セフィリアをかばったユリエンへと降り注ぐ。
「っはは……あははは! あはははははっ!」
ヘラの高笑いが響きわたる。
「おかあ、さま……? そんなっ、お母さまっ、大丈夫ですかっ!」
「っう……けほっごほっ……!」
「お母さま!」
我に返ったセフィリアが必死に呼びかけたとき、激しく咳き込むユリエンが崩れ落ちるところだった。
彼女に降り注いだ
「お母さま、ごめんなさい、私っ……!」
「ヘラ、なんということを!」
「いい気味ね、ユリエン! アハハハハッ!」
取り乱すセフィリアとノクター。
狂ったように笑い続けるヘラ。
だがその後、ヘラは信じられない光景を目の当たりにする。
無言で立ち上がったユリエンが、一歩、また一歩と歩み寄ってくる光景だ。
「……どうして、動けて……」
ヘラの言葉は、最後までつむがれることはなかった。
「──お黙りなさい」
──ばちぃんっ!
強烈な平手打ちが襲い、ヘラは吹き飛ばされる。
遅れて左ほほが熱と痛みを訴えるも、なにが起こったのか理解できない。
「……私を悪く言うのは、許せるわ」
ふぅ……と息を吐きながら、ユリエンがかかげていた右手を引っ込める。
そこでようやく、ヘラはユリエンの平手打ちを受けたことを理解した。
「けれど、あなたはリアに手をかけようとした……それだけは、天地がひっくり返ろうと許すことはできない」
ぐっと顔をあげ、ユリエンは前を向く。
「この子がいるから、私は病に負けずにいられた。リアは私の、私たちの宝物よ。愛する家族がいるから、私は強くなれるの!」
妻として、母として。
ユリエンとヘラの明暗を分けたものは、かけがえのない家族の存在だ。
「ヘラ、きみにも愛される権利はある。だけど、そのためにだれかを傷つけていい理由にはならない」
床にうずくまるヘラへ、今度はノクターが歩み寄る。
うつろとした視線で、ヘラはゆっくりとノクターを見上げた。
「……ユリエンは、きみに歩み寄ろうとしていたよ。その手を振りほどいたのは、きみ自身だ」
──その孤独は、きみ自身が選んだ道だ、と。
ひどく静かなノクターの言葉に、ヘラの唇がわなわなと震えはじめる。
「あ……あぁあ…………あぁああッ!」
髪を掻きむしり、床へうずくまるヘラ。
その悲痛な泣き声が、いつまでも部屋に響いていた。