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第70話 お黙りなさい

「っふふ……お嬢さまのほうから来ていただけるなんて、思いもしませんでしたわ」


 可笑しげに笑みを浮かべるヘラのまなざしは、獲物を前にした捕食者のそれだ。

 ジェイド、カイルが立ちはだかる。


(黒……ね)


 ヘラの胸もとを見やったセフィリアの視界に、黒く染まったハート型の『好感度ゲージ』が映った。

 その殺意の対象がじぶんなのか、娘を守るように抱きしめるユリエンなのかは、この際さして問題ではない。


 ──ヘラの右手ににぎられた硝子の小瓶。

 現状、これがヘラのもつ最大の凶器である。


(一瞬でも、隙を作れれば……)


 そうすれば、ジェイドやカイルがヘラを拘束するはず。


「ヘラ。あなたとひさしぶりに会って、むかしのことを思い出していました」

「お母さま……?」


 セフィリアの策を汲み取ったのかさだかではない。が、おもむろにユリエンが語りかけたことで、ヘラの意識が彼女に集中する。


「……ですから、なんです?」

「まだ年若いのに、ひとりで出稼ぎにやってきたあなたと出会ったときのこと……私にとって、懐かしい記憶です」


 ヘラへ言葉をかけるユリエンのまなざしに、敵意はない。

 最初からそうだ。ユリエンはヘラに対して、なにかを訴えかけようとしていた。


「あなたは器用で、紅茶を淹れるのが上手でしたね。きっと立派なメイドになるだろうと思っていました」

「……なにをいまさら」

「私は不器用で、何事も練習しないとこなせませんから、器用なあなたがうらやましかった。母を見返してやるのだと、じぶんの意思を強くもって主張できるあなたを、すごいひとだと……尊敬していました」

「嘘よ! 口ならなんとでも言えるわ!」

「えぇ、受け取り方は個人の自由です。これは、本心をきちんとあなたに伝えきれなかった私の落ち度なんです」

「っ、そうやって被害者ぶって! そうよ、あなたは臆病者よ! 家柄に恵まれただけ、跡取りもろくに生めない出来損ない! 私のほうがよっぽどうまくやれたわ!」

「いい加減にしないか、ヘラ!」


 穏やかなノクターが声を荒らげる。

 セフィリアは、彼ら夫婦がやっとの思いで授かった子だった。

 ユリエンに落ち度などない。家族を侮辱されれば、当然の怒りだ。

 それでも、ユリエンは語りかけることをやめない。


「……あなたの孤独を、私はなにひとつ理解できていませんでしたね。争いたくないからと、曖昧にして……それでもヘラ、これだけは言わせてください。神に誓って、私の言葉に嘘いつわりはありません。あなたのことを尊敬して……姉のようだと思っていました。いつか仲良くなれると、信じていました……!」

「うる、さい……うるさいうるさいうるさいッ!」

「カイルさん!」

「わかってます、そこ動かないでくださいね、お嬢さま!」


 発狂したようにヘラが叫び、すぐさまカイルとジェイドが動く。


「離しなさいよっ、このっ!」

「おとなしくしろ!」


 ジェイドに羽交い締めにされたヘラが、がむしゃらにもがいている。力の差は歴然だ。


「終わらせないわ……こんなところで!」


 そうと叫んだヘラが、メイド服の袖をたくし上げる。

 その左手首には、黒い石のはめ込まれたブレスレットのようなものがあり。


 ──カッ!


 まばゆい光が、セフィリアたちの視界をくらませる。


「ユリエン……リア!」


 焦燥に駆られたノクターの声で、まぶたをこじ開けるセフィリア。

 その目の前には、ヘラがそびえ立っていた。

 魔導具によるテレポートだ。

 駆け寄るノクターのすがたが見えるが、おそらく間に合わない。


「……手遅れなのよ、なにもかも」


 光を失った瞳でセフィリアを見つめたヘラが、右腕をかかげる。


「私を哀れに思うなら……死んで」


 ──パリィン!


 けたたましい音が鳴り響く。

 大理石の床に叩きつけられた硝子の小瓶が、砕け散る音だ。


「──リアっ!」


 呆然とするセフィリアの視界を、ユリエンが覆った。

 直後、黒ずんだ粉が、セフィリアをかばったユリエンへと降り注ぐ。


「っはは……あははは! あはははははっ!」


 ヘラの高笑いが響きわたる。


「おかあ、さま……? そんなっ、お母さまっ、大丈夫ですかっ!」

「っう……けほっごほっ……!」

「お母さま!」


 我に返ったセフィリアが必死に呼びかけたとき、激しく咳き込むユリエンが崩れ落ちるところだった。

 彼女に降り注いだ黒妖精インプの鱗粉が、じわりと衣服越しにしみ込んでゆく。


「お母さま、ごめんなさい、私っ……!」

「ヘラ、なんということを!」

「いい気味ね、ユリエン! アハハハハッ!」


 取り乱すセフィリアとノクター。

 狂ったように笑い続けるヘラ。

 だがその後、ヘラは信じられない光景を目の当たりにする。

 無言で立ち上がったユリエンが、一歩、また一歩と歩み寄ってくる光景だ。


「……どうして、動けて……」


 ヘラの言葉は、最後までつむがれることはなかった。


「──お黙りなさい」


 ──ばちぃんっ!


 強烈な平手打ちが襲い、ヘラは吹き飛ばされる。

 遅れて左ほほが熱と痛みを訴えるも、なにが起こったのか理解できない。


「……私を悪く言うのは、許せるわ」


 ふぅ……と息を吐きながら、ユリエンがかかげていた右手を引っ込める。

 そこでようやく、ヘラはユリエンの平手打ちを受けたことを理解した。


「けれど、あなたはリアに手をかけようとした……それだけは、天地がひっくり返ろうと許すことはできない」


 ぐっと顔をあげ、ユリエンは前を向く。


「この子がいるから、私は病に負けずにいられた。リアは私の、私たちの宝物よ。愛する家族がいるから、私は強くなれるの!」


 妻として、母として。

 ユリエンとヘラの明暗を分けたものは、かけがえのない家族の存在だ。


「ヘラ、きみにも愛される権利はある。だけど、そのためにだれかを傷つけていい理由にはならない」


 床にうずくまるヘラへ、今度はノクターが歩み寄る。

 うつろとした視線で、ヘラはゆっくりとノクターを見上げた。


「……ユリエンは、きみに歩み寄ろうとしていたよ。その手を振りほどいたのは、きみ自身だ」


 ──その孤独は、きみ自身が選んだ道だ、と。


 ひどく静かなノクターの言葉に、ヘラの唇がわなわなと震えはじめる。


「あ……あぁあ…………あぁああッ!」


 髪を掻きむしり、床へうずくまるヘラ。

 その悲痛な泣き声が、いつまでも部屋に響いていた。

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