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「
星夜も、腕をひろげて花梨の名を呼んでいた。
「……許さない」
だが、腕をすり抜けた花梨の手首を、
「いっ……!」
「逃がすものか」
「燐
燐は笑みを浮かべているが、その目はわらっていない。
何より、ほの暗い影をまとったまなざしが、異様だ。
「すこし、おしゃべりがすぎたようだね」
「っ! だめ、燐師兄さま!」
燐の右手に、シュルシュルと何かが渦巻く。
気弾だ。
燐は星夜めがけ、容赦なく気の衝撃波を放つ。
「くそっ……!」
無意味とわかっていながらも、星夜は受け身を取る。
だが、覚悟した衝撃はおとずれなかった。
──ガォオウッ!
獣の咆哮とともに、迫りくる気弾の気配がかき消えた。
やがて、星夜の視界に映り込むものがある。
「この子らに、手出しはさせぬぞ」
思わず、星夜はまばたきをした。
燐とのあいだに割り入るように現れたのは、真白い毛並みをし、勇健な翼を持った虎。
「きみは……
「久方ぶりだな、愛すべきこどもたちよ」
あり得ない光景に、燐も息をのんだ。
騶虞は天界にすむ瑞獣だ。下界におりることなど、あるはずがないのに。
「ワタシが授けた法具を使ったろう。禍々しい邪龍の気配もすみかまでただよってきた。急ぎ駆けつけたが、間に合わなんだ……」
法具。騶虞から譲り受けた短剣と羽扇のことだ。
騶虞は邪龍の出現を察し、すぐさま駆けつけてくれたのだ。
だが騶虞の思いもむなしく、星藍と愛花は命を落としてしまった─
「かの夜のことは、悔やんでも悔やみきれぬ。ゆえにワタシは、そちらの魂をさがしていたのだ。その迷える魂をどうにか導けるようにと……この『ゲンダイ』という地は龍脈に乏しいゆえ、ワタシもただの猫程度の力しか発揮できなかったが」
「猫……白い、猫……まさか、きみだったのか、騶虞!」
花梨と星夜、ふたりの記憶に共通して姿を現していた、不思議な白猫。
その正体こそ、騶虞だったのだ。
「わからないな……瑞獣が、なぜそこまで肩入れをする?」
「そこの若いの。よもや、自覚しておらぬのか?」
星夜に対するものとは打って変わり、厳しい声音で問い詰める騶虞に、燐は瞳を細める。
「何のことだ?」
「哀れなことよの……
「……待て」
「自覚がないならば言わせてもらうぞ。邪龍を呼び寄せたのはこの子たちではない。小僧、そちの激しい嫉妬心だ」
──沈黙。
誰もが、衝撃的な真実に絶句するしかない。
「そんなはずはない……そんな、ことは」
「その嫉妬が、邪龍を呼び寄せた。仙界を、この子らを、みずからの母親すら脅かしたのは、まぎれもなくそち自身だ」
「そんなことはないッ!」
「きゃっ……!」
「花梨!」
半狂乱になった燐が、乱雑に花梨を抱き寄せる。
「目をそらさないで、いい加減認めてよ……燐師兄さまのそれは、親愛ではないわ……!」
必死に呼びかける花梨。
はたと気づいたように、燐が荒い呼吸をひそめた。
「愛……そうだ。愛は、罪などではなかったか。それなら僕の気持ちも、罪ではない。そういうことだよね……愛花?」
うわごとのようにこぼした燐が、いま一度笑みを浮かべる。
完全に光を失くしたそのまなざしに、花梨はぞっとした。
「いいことを教えてあげようか、愛花。きみが邪龍の呪いを受けたとき、僕が真っ先にきみの魂を救おうとしたんだよ。ほかの誰にも、邪魔はされたくなかったからね」
「な、にを……っ!」
「ほかの男に奪われるくらいなら、僕の手で……そうだね、この煮えたぎる感情は、愛欲だ。僕は異性としてきみを愛している。もう言い逃れはしない。だから──」
ゆらり。燐を取り巻く影が、不気味に揺らぐ。
「──僕もいっしょに、堕ちるとするよ」
ビュオオウッ!
燐の周囲で、旋風が巻き起こる。
それは、身を切り裂くような熾烈さで吹きつけた。
「小僧め、こんなところで内功を解放するとは!」
「燐! 関係のないひとびとを巻き添えにする気か! 愛花……花梨だってただではすまない、彼女を離すんだ、燐!」
「指図は受けない。愛花は僕のものだ」
燐からは一切の表情が消え失せ、言葉も抑揚に乏しい。
(なぜ俺には、力がないんだ……くそっ!)
邪龍と闘ったかつての蒼星真君であったなら、この程度の内功の暴走など、簡単に止められただろう。
だがいまの星夜は人間。非力な弱者なのだ。
(いや、たとえこの身が引き裂かれても、花梨は俺が助ける……!)
最愛のひとを失う悲しみ以上の恐怖など、この世には存在しないのだから。
「よせ、行ってはならぬ!」
「止めないでくれ」
制止する騶虞へ、星夜は毅然として返す。
自身をふるい立たせ、暴風が吹きつけるその先へ、一歩を踏み出した。
「だめよ、星藍──星夜さん」
そこで、花梨が笑っていた。
とたん、星夜は既視感に見舞われる。
だってあの笑顔は、『あのとき』と同じ──
「私たちは、ともに試練を乗り越えました。この人生は、けっして無駄なものではなかったわ」
「花梨、まさか……やめろ」
「『また守れなかった』なんて、後悔だけはしないでくださいね。だって、いまこの瞬間の私が、幸せなんだもの。この世界での物語を、悲劇で終わらせないで」
「やめてくれ、花梨……花梨ッ!」
「すこし、ひと休みしましょう。私も、あなたも……燐師兄さまも」
向かい風に阻まれながら、星夜は必死に手を伸ばす。
あともうすこしでふれるというところで、もう一度、花梨がほほ笑んだ。
「あなたを、愛しています」
澄んだ涙をこぼした花梨を、桃色の花吹雪が飲み込んでゆく。
彼女が、持ちうる内功を解放したあかしだった。
星夜の絶叫はかき消され、すさまじい力の衝突の果てに、静寂がひろがる。
「私は何度だって、あなたに恋をするわ。だから……また、私を見つけてね。約束ですよ」
ふたりの愛を、証明するのよ、と。
あどけなく笑った少女の表情が、青年の魂に刻まれた。
【第1章 完】