「──婚約しよう」
星空のもと、まるで王子さまにひざまずかれていると錯覚するようなプロポーズ。
まさに夢のごとくロマンチックな夜から、ほんの数週間後。
「
「ありがとうございます、うふふ」
正式にオープンし、得意先へ披露する機会も兼ねているらしい。うまいこと言いくるめられた。
朝っぱらから婚姻届を突きつけられたアレを思えば、一応はそれなりの手順を踏んでくれているのだろう。
にしたって、展開が早すぎるが。
婚約パーティー開催が決定したあと、ゆく先々で祝福され、花梨は内心泣きそうだった。
(学校でもクラスメイトから質問攻めにあったし、筒抜けだわ……星夜さんのしわざね!)
キッと視線を向けると、ダークグレーのスーツに身をつつんだ星夜が、すぐとなりで首をかしげる。「俺、何か間違ったことでもしたか?」と言いたげな顔をしているそこのひと、あなたである。
「持病で死ぬ前に、花梨さんの花嫁すがたを見ることができそうだわ……」
「お母さま、縁起でもないことをおっしゃらないで」
「孫の顔を早く見せておくれよ」
「それはさすがに気が早いです、お父さま」
娘の晴れ舞台に駆けつけた
まずい、完全に外堀を埋められている。
「ご安心ください、お義父様、お義母様。予定どおり、花梨さんが卒業したら籍を入れます。彼女のことは、俺が責任をもって一生幸せにしますので」
それはつまり、「卒業したら覚悟しとけよ」という意味でもある。
いつもは真顔な星夜が、やたらにこやかなのも怖い。社交辞令ではなく素だ。余計に怖い。
(星夜さんたら、どうしたのかしら……そんなに急がなくても、私は逃げないのに)
花梨だって、生涯の伴侶は星夜を選ぶと心に決めている。
それなのに、星夜は毎日毎日、花梨がいっぱいいっぱいになるまで愛をささやいてくる。俗にいう溺愛というやつだ。
花梨としては、一途な星夜の想いが嬉しくもあり、悩ましくもあった。
「くそ……なんでこんなにひとが多いんだ。独り身の男はどこから湧いてきた。花梨は俺のものだと釘を刺しておかねばならない対象が多すぎる」
「威嚇しないでください、取引先の方でしょう」
「さっさとパーティーを終わらせて、花梨を堪能したい」
「本音を隠すつもりもないんですね……」
本日の主役が、この調子で大丈夫だろうか。
(まぁでも……こんな旦那さまに捕まってしまった、私の負けね)
一応、星夜も花梨の気持ちを尊重しようと努力はしてくれている。「ちなみに子作りは、具体的に結婚後いつごろから可能だろうか」と真顔で相談されたときは、迷わず平手をお返ししたが。すでに手を出しておいて、どの口が言うか。
「おふたりとも、ご婚約おめでとうございます! やっとですか〜!」
そこへ陽気に声をかけてきたスーツすがたの男性は、もしかしなくても
「ちっ……出たな」
「そんな幽霊みたいに!」
「存在がさわがしいんだよ、酔っ払いめ」
「呑んでないですって! 花梨さん、ご無沙汰してます〜、本日のお召し物、お似合いですね〜」
「花梨を口説くな、シメるぞ」
「やっぱ怖いなこのひと!」
星夜と七海のやり取りを、花梨は生温かい目で見守る。
(七海さんが相手だと、星夜さんって柄が悪くなるのよねぇ……)
例によって星夜に何かがあると七海から連絡が飛んでくるのだが、自分の知らないところで花梨と七海が親しくしているのが星夜は面白くないらしく、すねる。
そして七海に大量の仕事を押しつけ、半泣きの七海から花梨に連絡が来る……という堂々巡りだ。
花梨は早い段階で、いろいろとあきらめた。
「せっかくの婚約パーティーで、おまえの顔を見たくないんだが」
「そんな冷たいこと言わずに! 一匹狼気質全開だった社長もご結婚間近なんて、隅に置けないじゃないですか〜! プロポーズの言葉とか聞きたいな〜、なぁんて!」
「おい……!」
にぱにぱと笑みを浮かべた七海が、星夜の肩に腕を回し、会場の隅へ引きずっていく。
こんなふざけた言動をしているから、誰も七海が星夜の秘書兼ボディーガードだとは思わない。とんだトラップだ。
「それじゃ、あとはよろしくたのむよ、マイハニー!」
「星夜さまをあまり困らせないように」
「はいは〜い!」
七海の言葉で、花梨は背後にいる誰かの気配に気づく。
いつの間にだろう。ネイビーのイブニングドレスを着こなした女性が、たたずんでいた。
「
「ご無沙汰しております、花梨さま。夫がご迷惑をおかけしておりまして」
流れるように一礼した女性は、和紗。七海の妻だ。
そして星夜の部下のひとりであり、花梨のボディーガードをつとめる女性。
星夜は自分の仕事中も花梨の安全を守るために、和紗をボディーガードにつけていたのだ。
和紗は花梨の学園生活に支障をきたさないよう、基本的にすがたを現さず警護を行う配慮をしていた。
その和紗が、こうして婚約パーティーに同行したということは。
「……何か、起こったんですか?」
「ホテル内に設置されたセキュリティーシステムに、誤作動が生じたようです。念のため、星夜さまにご確認をしていただくべきかと」
「そうでしたか……」
ちらりと視線を戻せば、ふざけた態度をひそめた七海が、星夜へ何事か耳打ちしている。
「星夜さまはすぐにお戻りになるはずですが、花梨さま、どうぞおひとりになられませんように」
「わかりました。和紗さんのそばから離れないようにします」
すこしのあいだとはいえ、星夜が不在にしている以上、パーティーの主催者のひとりである花梨がゲストの安全を確保しなければならない。
「挨拶まわりを続けましょう」
何事もなかったように、パーティーを続ける。
そして何事もないことを願うのが、花梨にできることだった。
(星夜さんがいるもの、きっと大丈夫よ)
そう、自分に言い聞かせる。
けれど、なぜだろう。花梨の胸は、妙にざわついていた。
何か、よからぬことが起ころうとしているような──
「──今日は一段とすてきですね」
そんなとき、ふいに花梨を呼び止めた声。
はっとふり返った花梨の目に、ほほ笑みを浮かべた男のすがたが映る。
とたん、花梨の背すじが凍りつく。
栗色の猫っ毛に、やわらかな笑みを浮かべた彼は──
「…………
そこではじめて、花梨は尋常でない違和感に襲われる。
(待って。最後に彼に会ったのはいつだった? あの事件のとき? あれから……彼はどうしていたの?)
必死に思い返しても、花梨の記憶はまっさらだった。
螢斗がどうしていたのか、まったくわからない。
クラスメイトも、螢斗について言及はしていなかった。
まるで、はじめからそんな人物など存在しなかったかのように。
「こんばんは。僕のいないあいだ、ささやかな幸せを堪能できたかい、
混乱する花梨をよそに、螢斗のすがたをした『誰か』は、花梨ではない『誰か』の名を、花梨へ向けて呼びかけるのだった。