──師匠の姿が見当たらないんです。
困惑した
この日は西派の宿舎で迎える最後の朝。
朝一番に
「星藍! 師匠が……師匠が!」
「なっ……蘭師匠!」
捜索をはじめてしばらく、星藍と愛花によって蘭は発見された。
裏山の奥深く、鬱蒼とした森の中で、変わり果てた姿となって。
「なんなのよ、これっ……気持ち悪い!」
蘭は、木の幹にはりつけにされていた。
だが、蘭を縛るのは縄などではない。
ドクドクと脈打つ、赤黒い血管のようなものだ。
すぐさま、星藍と愛花は剣を抜き払う。不気味な血管もどきを切り裂き、はりつけにされた蘭を救出した。
「蘭師匠、なにがあったのですか!」
「だめ……息をしていないわ、星藍!」
「くそっ……!」
横たえられた蘭は、ぐったりと意識がない。
(外傷はない。が、呼吸をしていないなんて、まるで生気を吸い取られたような……まさか、あの血管のようなモノのせいなのか!?)
危険な状態であることは、一目瞭然だった。
「
愛花の叫びは、もはや悲鳴だ。
「とにかく、蘭師匠を宿舎へ連れ帰ろう。ほかの四長老にも知らせを飛ばして、医仙を派遣してもらうんだ」
「はい……わかりました」
愛花はこぼれそうになる涙を袖でぬぐい、星藍へうなずき返す。
そしていざ、星藍が蘭を抱き上げようとしたとき──
……ズ……ズズ……
「──!」
嫌な気配を感じ、ふたりははじかれたようにふり返る。
その視線の先で、木陰がゆらめく。
厚い雲がかかり、かろうじて覗いていた晴れ間を、完全に覆い隠した。
……ズズ……
うごめく影が、木の幹をつたい、地面を這う。
影はまるで意思をもった生き物のように動き回り、その黒を色濃くしてゆく。
『……り……ぬ……足りぬ……こんなものでは、我は満たされぬ……』
星藍と愛花は、絶句した。
目の前に現れたソレは、あきらかな異形のモノ。
ぎょろりと目を血走らせた、漆黒の龍の姿をしていた。
とたん、あたり一帯に禍々しい瘴気が立ち込める。
漆黒の龍。それがなんなのか、星藍たちは本能的に悟った。
「邪龍……っ!」
あり得ない。だが夢などではない。
世界を滅ぼす災厄が、数千年ぶりに姿を現したのだ。
ドクン、ドクン──
星藍の視界に、地面に散らばった赤黒い断片が映る。
不気味な血管のようなモノ。禍々しいその色彩は、漆黒の鱗と血のような瞳を持った邪龍とよく類似している。
「まさか……アレで蘭師匠の生気を喰らったのか!」
なんともおぞましい話か。
すべてを理解したとき、ふたりは怒りで身が火照るのを感じた。
「あんたが師匠をこんな目に遭わせたのね……許さない!」
果敢にも、邪龍へ剣のきっさきを突きつける愛花。
だが邪龍は長い首をかたむけて、じっと愛花を見つめるのみ。
『小娘……うまそう、だな』
「なんですって?」
『おまえに絡みついた、嫉妬の情……我を呼び出した者の闇……極上のにおいだ』
「呼び出した……?」
邪龍を呼び寄せるほど激しい負の感情をいだいた者が、この仙界にいる。
それも、先の央派の師兄の比ではない激情の持ち主。
悔しいが、それは否定しようのない真実だ。
そうでなければ、邪龍が現れたことの説明がつかない。
「邪龍よ、いまなら間に合う。寝ぼけるのもそこまでにして、いま一度眠りについてはくれまいか。そのほうがおたがい穏便に事がおさまるだろう」
『ハッ、小童が生意気な』
わずかな期待を込めて提案するも、邪龍は鼻で笑い飛ばす。
星藍は嘆息。愛花を背にかばうさなか、剣へ手をかける。
が、そんな星藍の袖を引く者があった。当然ながら、愛花だ。
「星藍、私も闘えます」
「愛花……」
そうだ。彼女はもう、だれかの言いなりになるだけの人形ではないのだ。
「あぁ、ともに闘おう」
たしかな意志を宿した愛花へ、星藍も力強くうなずき返した。
『腹が空いてたまらぬ……骨の髄まで、我が喰ろうてやるわ!』
目を剥いた邪龍が、大口を開けて襲いかかってくる。
「させないわ!」
ビュオウッ!
突如吹きつけたつむじ風が、邪龍の鱗を切り裂く。
『グゥ! 小娘ェ……!』
「さすが、
先制をしかけた愛花の手には、真白い羽扇がにぎられていた。それによって巻き起こした突風で、邪龍を退けたのである。
『小癪な!』
ヴン!
邪龍が長い体躯で、空間を薙ぎ払う。
瞬時に跳躍して回避した愛花がひらりと着地するころ、根もとからへし折られた木が、めりめりと軋みながら倒れた。
『ちょこまかと……』
「よそ見とは悠長だな」
間髪をいれず、目にも止まらぬ速さで剣を抜き払った星藍が一閃。
キン!
だが無情にも、刃は邪龍の鱗にはね返されてしまう。
「硬いな……この剣ではだめか」
『ごちゃごちゃと鬱陶しい!』
キンッ、キンッ!
鋭い爪で、襲いかかる邪龍。
星藍は手首を返し、鋭利な爪の軌道をはじく。
そのたびに、火花が散った。
「ならば、こちらにも考えがあるぞ」
逆上した邪龍の攻撃を、星藍は後方に跳んでかわす。
「邪龍の弱点……ほかとは異なる箇所」
星藍は、冷静に戦況を見きわめていた。
空中でくるりと体勢を立て直し、木の枝へ着地。
そして枝のしなりをばねに、跳躍するのだ。
「──逆さに生えた、のど元の鱗!」
邪龍めがけ、流星のごとく間合いを詰めるために。
「はぁッ!」
渾身の力でもって、刃を突き立てる星藍。
金剛石をも削る短剣が、邪龍ののど元の鱗を抉った。
『ギシャアアアア!!』
響きわたる断末魔の叫び。
激痛に悶絶する邪龍の巨体が、地を抉り、草木をなぎ倒した末に、糸が切れたかのごとく横たわる。
「……仕留めたか」
しばらく警戒していた星藍だが、邪龍が起き上がる様子はない。
逆鱗は龍の急所だ。一発で仕留められなければ、いまごろ八つ裂きになっていただろう。
星藍は短剣を構える右手をおろし、安堵の息をもらした。
「星藍! やりましたね!」
「あぁ、騶虞の加護は本当にすごい。きみもよくやってくれた」
「ふふ、朝飯前です」
「たしかに、朝飯がまだだった」
白い裾をはためかせながら駆け寄ってきた愛花と、冗談まじりに言葉を交わす。
が、すぐに表情を引きしめた星藍は、ちらりと邪龍を見下ろした。
「愛花、悪いが蘭師匠を連れて、先にもどっていてくれないか」
「星藍はここに残るのですね」
「邪龍を放置するわけにもいかんしな。長老たちが駆けつけるまで、念のため俺がこいつを見張っておく。これだけさわぎになれば、じきに燐たちも駆けつけるだろう」
「そうですね……本当に燐師兄さまったら、この一大事にどこをほっつき歩いてるのかしら!」
「まぁまぁ」
ぷりぷりと腹を立てる愛花を、なだめる星藍。
ざっ、ざっと、落ち葉を踏みしめる音に気づいたのは、そのときだ。
「……なんだ?」
邪龍をへだてた向こう側の木陰に、人影を見た。
怪訝に思った星藍が目をこらすと、そこにたたずんでいたのは、白銀の髪の美青年。
「…………燐?」
無意識のうちに、彼の名を呼んでおり。
──ザシュッ!
そんな星藍の視界に、鮮血が飛び散る。
遅れて胸のあたりが、カッと熱を宿した。
「なっ……星藍!」
血の気を失った愛花が、駆け寄ってくる。
そのさまを、星藍はひどくぼんやりとながめていた。
無意識のうちに、胸へ手を当てる星藍。
べっとりとしたものが、胸のあたりにまとわりついている。
自身の手が真っ赤に染まったさまを目にし、ようやく、胸を裂かれていることを理解した。
「あ、くぅ……」
「星藍! そんなっ……星藍っ!」
愛花の呼び声が、くぐもって聞こえる。
遠のく意識を、星藍は、どうすることもできなかった。
* * *
──平和が崩れ去るときは、一瞬だ。
星藍が意識を取り戻したとき、あたりは漆黒の闇夜につつまれていた。
「俺はいったい……うぐっ!」
強烈な頭痛、そして胸の痛みに、星藍はうずくまる。
「邪龍は、倒れたのでは、なかったのか……!」
鋭い爪のようなモノで裂かれた胸の傷。
そこへまとわりつく禍々しい瘴気は、邪龍の放っていたものだ。
どれだけ気を失っていた?
邪龍はどうなった?
「愛花……どこだ、愛花……!」
こうしてはいられない。愛花をさがさねば。
星藍は歯を食いしばり、激痛に耐えながら地面をずりずりと這う。
「愛花……!」
やがて、愛花の姿を見つけた。
漆黒の闇夜を突き抜ける紅蓮の火柱が、煌々と照らす場所に、愛花はいた。
ぼろぼろになって、邪龍と対峙している。
愛花の背後は断崖絶壁。逃げ場はない。
「愛花! 待っていろ、すぐに……!」
「いけません。あなたは深手を負っているでしょう。立ち上がる気力も残っていないはずです」
邪龍から視線を外さないまま、愛花は星藍へ告げる。
「ならば私が、成し遂げてみせます」
そのとき、星藍は悟った。
愛花は、己が命を賭して邪龍を滅するつもりなのだと。
「よせ、愛花……愛花ッ!」
燃え上がる炎が、星藍の叫びを阻む。
──ギシャアアアア!!
邪龍が咆哮をとどろかせる。
羽扇を手にした愛花が、地を蹴って高く跳躍した。
目を刺すようなまばゆい光が、漆黒の闇夜を照らす。
「愛花ぁあああッ!!」
──半狂乱になって絶叫したあとのことを、星藍はよく覚えていない。
「──おまえが悪いんだよ。僕から、あの子を奪おうとするから」
ただ、抑揚のないだれかの声が、星藍の脳裏に、おぼろげに残っている。