ねずみ色の空が、頭上を覆い尽くしている。
「……ひと雨きそうだな」
このところ晴天が続いていたが、雲行きがあやしくなってきた。
「愛弟子のせっかくの門出だというのに」
曇天から視線をもどし、
波乱の騒動をへて、西派での合同稽古期間は終了した。
これから各門派の師弟たちは、師のもとへ帰っていくだろう。
時を同じくして、
とはいえ、遠征とはただの口実だ。実際は
その意味を、蘭は正しく理解している。
(未来ある若者たちの幸せを、ねがうべきなのだろう)
それが、師としてあるべき姿。
そうと頭ではわかっていても、蘭は複雑な心境に見舞われていた。
思案にふける蘭は、ふとひとの気配を感じ、意識をもどす。
場所は練武場にある稽古場の裏手。
人目につかぬひっそりとした場所で、剣をふるう青年の姿があった。
「おや……おはようございます、師匠」
「
すぐに蘭の気配に気づいたらしい燐は、手を止め、蘭へ一礼した。
燐が朝早くから自主的に稽古をおこなうことは、めずらしくない。
蘭も、感心したはずだ。燐が昨晩「おやすみなさいませ」と声をかけてきた位置から、ほとんど動いていなかったなんてことがなければ。
「よもや、夜どおし剣をふるっていたのではあるまいな」
「いつ何時も初心を忘れず、鍛錬に精を出すのは、よいことではありませんか」
「何事も、度合いというものがある」
蘭は確信した。
昨晩遅くまで居残って鍛錬をおこなっていた燐は、一睡もせずに剣をふり続けていたのだ。
こうしたことがたびたび続けば、蘭も苦言を呈さずにはいられない。
「燐、らしくないぞ。いまのそなたは、ただ闇雲に剣をふるっているだけのように思える」
「僕らしくない……ね。では師匠は、なにが僕をそうさせているか、おわかりですか?」
燐の物言いは、原因を自覚している者のそれだ。
知った上で、あえて蘭に問うているのだ。
それが抗議の一種であることを、蘭は理解した。
「愛花を東派へ送り出す。これは決定事項だ。すでに
「兄弟子である僕の意見も聞かずに……」
「燐。いくらそなたといえど、愛花自身が望んだことに口出しをする権利はなく、すべきではない」
「愛花が望んだこと? 師匠は本当にそうお思いなのですか? ちがいます、愛花はそそのかされたんです。そうでなければ、あんなに僕のあとをついて回っていた可愛い子が、僕を置いていくわけがない」
「……燐」
むかしから、聞き分けのよい子だった。
長老たちの言葉によく従い、稽古にはげむ、素直な子だった。
そんな燐が、うまれてはじめて望んだもの。
それが、愛花だった。
──僕がちゃんとお世話をします。
──だから師匠、おねがいします。
師妹にしたい。しきりにそう訴えていた姿が、蘭の脳裏にも焼きついている。
(いま思えば、この子はさびしかったのかもしれない)
しかし蘭は、燐の肉親だ。それを理由に贔屓をしていると、周囲に思われたくはなかった。
ゆえにほかの門下生と分けへだてなく、平等な態度で燐と接した。
筆頭弟子の座は、正真正銘、燐自身が血のにじむ努力の末に勝ち取ったものだ。
(だが私は、親としてなにかをしてやったことがあったか?)
蘭は自問し、かぶりをふる。
答えなど、とうにわかりきっていた。
蘭は燐の師であったが、母親らしいことはなにひとつしてやれなかった。
燐はきっと、孤独を感じていたはずだ。
その心のすきまを埋めたのが、愛花の存在。
生きる糧ともいえる愛花がいなくなる不安と恐怖に、燐はさいなまれている。
(あぁ、どうして気づいてやれなかったのだろう……)
たったひとりの息子さえ思いやれずに、筆頭長老などと、滑稽な。
「……私のことは、好きなだけ恨んでいい。だから燐、愛花を、自由にしてやってほしい」
「なんですか、それは……まるで僕が、愛花の枷みたいじゃないですか……」
燐は唇を噛みしめ、美しい顔をゆがませる。
「ちがう……僕には愛花しかいなかった。愛花だって、僕を慕って、愛してくれている……それなのに、ぽっと出のよそ者にあの子を奪われるなんてことが、あっていいはずがない……」
「……燐?」
「星藍……あの男が現れてから、愛花はおかしくなってしまった。あの子は騙されている。助けなければ」
「待ちなさい、燐……!」
蘭の呼びかけに、燐は答えない。
なにも聞こえていないかのように、独り言を口走るだけで。
「渡さない……愛花は、僕だけのものだ……!」
「──!」
虚空を見つめていた燐が、カッと瞳を見ひらいた刹那、蘭は信じられない光景を目の当たりにする。
……ズズ……
燐の背後で、『なにか』の影がうごめく光景だ。
「あれは──燐ッ!」
絶叫にも似た蘭の呼び声を、見る間に膨張した影の塊が、呑み込んだ。