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第38話 僕のものだ

 ねずみ色の空が、頭上を覆い尽くしている。


「……ひと雨きそうだな」


 このところ晴天が続いていたが、雲行きがあやしくなってきた。


「愛弟子のせっかくの門出だというのに」


 曇天から視線をもどし、ランは嘆息する。


 波乱の騒動をへて、西派での合同稽古期間は終了した。

 これから各門派の師弟たちは、師のもとへ帰っていくだろう。

 時を同じくして、愛花アイファの遠征が決定した。修行先は長老が曲者で有名な、あの東派。

 とはいえ、遠征とはただの口実だ。実際は星藍シンランの里帰りに愛花が同行するかたちとなる。

 その意味を、蘭は正しく理解している。


(未来ある若者たちの幸せを、ねがうべきなのだろう)


 それが、師としてあるべき姿。

 そうと頭ではわかっていても、蘭は複雑な心境に見舞われていた。


 思案にふける蘭は、ふとひとの気配を感じ、意識をもどす。

 場所は練武場にある稽古場の裏手。

 人目につかぬひっそりとした場所で、剣をふるう青年の姿があった。


「おや……おはようございます、師匠」

リン


 すぐに蘭の気配に気づいたらしい燐は、手を止め、蘭へ一礼した。

 燐が朝早くから自主的に稽古をおこなうことは、めずらしくない。

 蘭も、感心したはずだ。燐が昨晩「おやすみなさいませ」と声をかけてきた位置から、ほとんど動いていなかったなんてことがなければ。


「よもや、夜どおし剣をふるっていたのではあるまいな」

「いつ何時も初心を忘れず、鍛錬に精を出すのは、よいことではありませんか」

「何事も、度合いというものがある」


 蘭は確信した。

 昨晩遅くまで居残って鍛錬をおこなっていた燐は、一睡もせずに剣をふり続けていたのだ。

 こうしたことがたびたび続けば、蘭も苦言を呈さずにはいられない。


「燐、らしくないぞ。いまのそなたは、ただ闇雲に剣をふるっているだけのように思える」

「僕らしくない……ね。では師匠は、なにが僕をそうさせているか、おわかりですか?」


 燐の物言いは、原因を自覚している者のそれだ。

 知った上で、あえて蘭に問うているのだ。

 それが抗議の一種であることを、蘭は理解した。


「愛花を東派へ送り出す。これは決定事項だ。すでにリー長老へ文も送ってある」

「兄弟子である僕の意見も聞かずに……」

「燐。いくらそなたといえど、愛花自身が望んだことに口出しをする権利はなく、すべきではない」

「愛花が望んだこと? 師匠は本当にそうお思いなのですか? ちがいます、愛花はそそのかされたんです。そうでなければ、あんなに僕のあとをついて回っていた可愛い子が、僕を置いていくわけがない」

「……燐」


 むかしから、聞き分けのよい子だった。

 長老たちの言葉によく従い、稽古にはげむ、素直な子だった。

 そんな燐が、うまれてはじめて望んだもの。

 それが、愛花だった。


 ──僕がちゃんとお世話をします。

 ──だから師匠、おねがいします。


 師妹にしたい。しきりにそう訴えていた姿が、蘭の脳裏にも焼きついている。


(いま思えば、この子はさびしかったのかもしれない)


 しかし蘭は、燐の肉親だ。それを理由に贔屓をしていると、周囲に思われたくはなかった。

 ゆえにほかの門下生と分けへだてなく、平等な態度で燐と接した。

 筆頭弟子の座は、正真正銘、燐自身が血のにじむ努力の末に勝ち取ったものだ。


(だが私は、親としてなにかをしてやったことがあったか?)


 蘭は自問し、かぶりをふる。

 答えなど、とうにわかりきっていた。

 蘭は燐の師であったが、母親らしいことはなにひとつしてやれなかった。

 燐はきっと、孤独を感じていたはずだ。


 その心のすきまを埋めたのが、愛花の存在。

 生きる糧ともいえる愛花がいなくなる不安と恐怖に、燐はさいなまれている。


(あぁ、どうして気づいてやれなかったのだろう……)


 たったひとりの息子さえ思いやれずに、筆頭長老などと、滑稽な。


「……私のことは、好きなだけ恨んでいい。だから燐、愛花を、自由にしてやってほしい」

「なんですか、それは……まるで僕が、愛花の枷みたいじゃないですか……」


 燐は唇を噛みしめ、美しい顔をゆがませる。


「ちがう……僕には愛花しかいなかった。愛花だって、僕を慕って、愛してくれている……それなのに、ぽっと出のよそ者にあの子を奪われるなんてことが、あっていいはずがない……」

「……燐?」

「星藍……あの男が現れてから、愛花はおかしくなってしまった。あの子は騙されている。助けなければ」

「待ちなさい、燐……!」


 蘭の呼びかけに、燐は答えない。

 なにも聞こえていないかのように、独り言を口走るだけで。


「渡さない……愛花は、僕だけのものだ……!」

「──!」


 虚空を見つめていた燐が、カッと瞳を見ひらいた刹那、蘭は信じられない光景を目の当たりにする。


 ……ズズ……


 燐の背後で、『なにか』の影がうごめく光景だ。


「あれは──燐ッ!」


 絶叫にも似た蘭の呼び声を、見る間に膨張した影の塊が、呑み込んだ。

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