木々のすきまから、茜の光が射すころ。
「さて。なにか、私にお話があったのではないですか?」
「わかるか?」
「いつもなら暗くなる前に帰ろうと言ってくるあなたが、今日に限っては渋っているんですもの」
「きみはなんでもお見通しだな」
愛花の言うとおりだ。
話をするだけなら宿舎に帰ってもできるが、話題を考えれば、ふたりきりのほうが好都合だった。
「愛花、きみも謹慎処分がとけたろう」
「まぁ……それに関しては、
ぽつりとつぶやく愛花の表情は、複雑そうだ。
「燐師兄さまったら、稽古場の備品の件で央派の師兄をわざと泳がせていたなら、私にもそう言ってくれたらよかったんです」
あとからわかったことだが。
愛花に非がないにも関わらず、謹慎処分に対して燐が抗議しなかったのは、あえてのことだったらしい。
巧妙に武具へ細工をしていた師兄も、邪魔な愛花がいなくなったことで気が大きくなっている。
油断したそのすきをついて決定的な証拠をつかみ、一網打尽にするつもりだったと。
ただ、騶虞を巻き込んでしまうなど、予想外に事が大きくなってしまったのが現状だ。
「いつもそう。燐師兄さまは言葉が足りないわ……きっと私は、まだなにもできない幼子だと思われているんですね」
愛花の言うように、燐はひとりでなにもかもを解決するつもりだったのだろう。
『
すべては央派の師兄に的をしぼったおとり捜査だったと、のちの聴取で燐は話したそうだ。
そして燐の訴えもあり、愛花の謹慎処分は取り消された。
(俺がああだこうだ言わずとも、愛花を助ける算段はあったんだな、燐)
たしかに、結果として愛花は不名誉な謹慎を免れた。
だが、これまでに愛花が感じた孤独や苦痛を思い返すと、燐のやり方が正しいものだと、星藍は思えなかった。
「燐は案外、不器用なのかもな」
「……そうかもしれないですね」
星藍が素直な感想を口にすると、愛花が薄くほほ笑む。
自然とこぼれた笑み。思わず、星藍は魅入られる。彼女の笑顔をいつまでも見つめていたいと、そんな思いに駆られる。
「なぁ、愛花」
だからこそ星藍は、告げる。
ずっと胸にとどめていた想いを。
「今度はきみが、東派に来てくれないか。師匠にきみのことを紹介したい」
「星藍、それって……」
「あぁ──結婚しよう、愛花」
硝子玉のような瞳が見ひらかれる。
突然のことで、愛花は言葉を失っている。
星藍は駄目押しのように一歩をふみ込み、愛花の手を取った。
「俺の妻となって、生涯をともにしてほしい」
きゅっと唇を引き結んだ愛花が、うなだれる。
その華奢な肩は、小刻みにふるえていた。
「……うぬぼれて、いいんですね。夢じゃないって……信じていいんですよね……?」
「当たり前だ。愛花、きみを愛している。俺の手を取ってくれ」
「星藍……っ!」
もはや、言葉は必要なかった。
胸に飛び込む愛花を抱きとめ、星藍は唇をかさねた。
「んん……ふ」
「愛花……はっ……」
角度を変え、深さを変え、幾度となく口づけをくり返す。
(愛おしい気持ちが、あふれて止まらない……)
まるで花の香に酔っているみたいだと、ぼんやりとした頭で星藍は思う。
(……めちゃくちゃにしたい)
じりじりとくすぶるような欲が、星藍に芽生える。
しかし、それはいけない。然るべきときまで待つと決めたのだから。
(その代わり、師匠に俺たちの仲を認めてもらったら、俺も遠慮しないからな)
そんなことを星藍が考えていると、愛花が不安げに眉を下げる。
「あれ、なんだか身の危険を感じます……」
「気のせいだ」
食い気味に返答した星藍の目がやけに据わっていたため、愛花のほほが引きつった。
極めつけにがしりと腕で囲われてしまった愛花は、こわごわと星藍を見上げる。
「あの、離してもらえますか……?」
「さて、日が暮れる前に帰るとするか」
「無視ですか……?」
「今日も疲れたな。今夜はいっしょに添い寝でもどうだ」
「添い寝って、添い寝のことですよね……?」
「ほかになにがあるというんだ。言葉どおり添い寝をするだけだ。……たぶん」
「そこは自信もちましょう!? ちょっと、もう、星藍のばかーっ!」
じたばたと愛花が抵抗しても、星藍は動じない。それどころか愛花をひょいと抱き上げて、すたすたと山を下り始めるという。
「もう好きにして……」
しまいには愛花も羞恥に染まった顔を両手で覆うことしかできずにいた。あきらめたともいう。
茜に紫色の宵がにじむ。
星の輝く夜は、すぐそこだ。
* * *
だれもいなくなった湖の岸辺で、木陰に身をひそめた人物がいた。
「……まさか」
極限まで気配を殺した青年──燐。
つねに笑みを崩さない彼が、瞳孔をひらき、わなわなと唇をふるわせる。
燐を動揺させているのは、湖をへだてた向こう側に見た光景。
星藍と愛花、そして騶虞のやりとりだった。
「こんなことが……あってよいものか」
くしゃりと白銀の髪を掻き回した燐は、そのままずるずると、木の幹を背に座り込んでしまった。
「色恋が罪でないなら、僕のこれまでの辛抱は、いったい……!」
──愛は罪などではない。
そうと断言した騶虞の言葉が、祝福のように、呪いのように、燐を貫く。
「…………る、さない」
よろよろと、立ち上がる燐。
「ゆる、さない……許さない……僕のそばを離れるなんて、許さないよ、愛花……」
うわごとのようにくり返す燐の瞳からは、一切の光が消え失せ──
「おまえなんかに、愛花は奪わせない……」
……ヒュオウ。
「愛花は、僕のものだ……!」
どこからともなく吹きおろした冷たい風が、黒い煙のようなものをまとい、燐の真白い衣へとけて消えた。