それが、不思議と
西派の宿舎からほど近い裏山。
湖が澄みわたり、桃の木の力に満ちた秘密の場所──
「きゃっ! や、やめてください!」
星藍がたどり着くと、たしかに愛花のすがたはあった。
翼の生えた白虎に、追い回されているというかたちで。
「な、愛花……!」
「もうわかった、わかりましたから! 私の負けです、やめっ……うふっ、あはははっ!」
「……は?」
端から見れば、小柄な少女が獰猛な獣に押し倒され、のしかかられている状態。
だがしかし、血相を変えて駆け出そうとした星藍とは裏腹に、当の愛花が楽しそうな笑い声をあげている。
そこでようやく、星藍は早とちりをしてしまったことに気づく。
「……すっかり仲良くなったんだな、きみたち」
「あ、星藍! そうなんです。ほら見てください、
星藍が苦笑まじりに話しかけると、草むらにひっくり返ったまま愛花が声をあげる。ここまではつらつとしているのはめずらしい。
「そうだ、ワタシの毛並みはもふもふなのだ。存分に堪能するがよい」
そんなとき、愛花にじゃれついていた騶虞が起き上がり、前足をそろえて行儀よくおすわりをしてみせた。
ひげをぴんと張り、得意げな騶虞を目にした星藍は、あっけにとられた。
「騶虞が……しゃべった!?」
「なにをいう。ワタシは瑞獣だぞ。そこらの犬猫とは格がちがう」
「そうですよ。あの騶虞なんですから、しゃべりもします」
「俺が間違っていたのか……? そうか……」
当たり前に受け入れている愛花にさとされ、星藍は無理やり納得することにした。
──例の事件後。
邪気にあてられ暴走した騶虞は、愛花の癒やしの力により、無事浄化された。
それからも愛花がつきっきりで診ていたおかげで、後遺症もなく回復したと聞く。
そのあいだ、星藍は事後処理や出世のあいさつ回りに行ったり多忙な日々を送っていた。だがすこし見ないうちに、愛花と騶虞はすっかり打ちとけたようだ。
先ほどのように追いかけっこをしていたかと思えば、騶虞が愛花にじゃれついてぺろぺろとほほをなめたり。
さらには仰向けにひっくり返った無防備な騶虞の腹を、愛花が満面の笑みでわしゃわしゃなで回していたり。
「伝説の瑞獣が、へそ天だと……」
「あーいいです、このもふもふ。さいっこうの手ざわり!」
「苦しゅうない、苦しゅうない」
すっかり愛花に手懐けられている。騶虞にはもはや瑞獣たる尊厳のその字もない。見た目は大きな白猫のようだが、ぶんぶんとしっぽをふっているさまは犬だ。
「きゃああ……! ねぇ待って、これやばいです。星藍! この肉球、見てください!」
そのうちに、瞳をきらめかせた愛花が騶虞の前足を星藍のほうへ向けてくる。
つやつやと桃色にかがやく健康的な肉球を目にしたとたん、星藍の中のなにかがぷつりと切れた。
「待て、俺にもさわらせろ」
「ぷにぷにです……!」
もとより、星藍も小動物を可愛がる質だ。
そういうわけで、愛くるしい白猫と化した騶虞に魅了され、愛花同様草むらに座り込んで肉球をぷにぷにする星藍なのであった。
「ふ……ワタシの虜になってしまったな。これでもう、ふつうの猫の肉球では満足できまい」
「なんてやつだ……」
「騶虞、ほら、よしよーし」
「ぐるぐる…………にぁああ」
愛花にのどをなでられ、ご満悦な騶虞。猫だ。完全に猫になってしまっている。
「もしかして、愛花は最強なのかもしれない」とひとしきり騶虞の肉球をぷにぷにしたところで、星藍は我に返る。
「いかん、本来の目的を忘れるところだった。こほん……俺のほうは、あらかた用事が片付いたぞ。きみたちはこれからどうするんだ?」
すると、そろって瞳をぱちくりさせた愛花と騶虞が、起き上がって居住まいをただす。
「ふむ、
「なら、私はお役御免ですね。さびしいものです」
「こら、なんの礼もせずにさっさと去ってしまうほど、ワタシは薄情ではないぞ。そうだな……よし、これをやろう」
すこし考えるそぶりを見せた騶虞は、そういっておもむろに右の前足を持ち上げた。
……ボロン。
星藍の目の前に、象牙のように立派な爪が落ちてきた。そしておどろくべきことに、その爪は淡い光を放って、短剣へとかたちを変えるではないか。
「つ、爪がすっぽ抜けたかと思えば、なんだ!?」
「なに、すぐに生えてくる。金剛石よりも硬いワタシの爪でつくった短剣だ。そちにやろう」
騶虞はついで愛花を見やり、ばさりと翼をはためかせた。
「わ……!」
一陣の風が吹く。思わず目をつむった愛花がおそるおそるまぶたを持ち上げると、手のなかに真白い
「これはワタシの羽をあつめた扇。悪いモノを『はらう』そちの力とは、相性がよかろう」
星藍へ短剣、愛花へ羽扇を贈った騶虞は、あらたまった様子で頭を垂れた。
「そちらには世話になった。すこしばかりの礼だが、受け取るといい」
「そんな……騶虞の加護を宿した法具なんて、貴重なんてものじゃありませんよ」
純白の羽扇を凝視し、感嘆してみせる愛花へ、騶虞は自嘲してみせた。
「西方をつかさどる四神、
騶虞が言っているのは、嫉妬と欲に駆られた央派の弟子に影響を受け、我を忘れて暴れてしまったことだろう。
「でも、騶虞のせいではありません」
「そちはやさしい娘よの」
即座に愛花が断言してみせると、騶虞の表情がやわらぐ。くぅん、と鳴いて、愛花へ鼻先をこすりつけていた。
「たしかに、ここ数千年は何事もなかったゆえ、平和ぼけをしていた。そう、あれは近年まれに見る、恐ろしい出来事であった。なにか、よからぬことの前ぶれのような……」
「たとえば……邪龍がやってくる、だとか?」
声をひそめた星藍の発言に、騶虞はまばたきをする。
「邪龍? なぜ急にそんなものが出て──」
とここで言葉を切る騶虞。
やけに真剣な面持ちの星藍に気づき、納得したようにうなずく。
「心当たりがある、という顔だな。それはそちらが、恋仲だからか?」
「──!」
ほかには
「知っていたのか」
「あれだけ愛おしげにたがいを見つめておいて、よく言うわ」
こわばりを見せる星藍や愛花をよそに、騶虞はからからと笑い飛ばす。