──ギシャアアア!
夜の静寂を引き裂く叫び。
人によるものではない。あれは、荒ぶる獣の咆哮だ。
「何が起きている」
「あちらです、星藍」
「練武場の方角か。愛花、きみは」
「部屋にもどれというお話なら、お断りします。そのほうが危険ですもの」
「それもそうだな」
何せ、異変が起きている練武場は宿舎のとなり、目と鼻の先にあるのだ。
「私も行きます、星藍」
謹慎中の身であるが、いまは緊急事態だ。そのことを逆手に取った愛花の提案に、星藍もうなずく。
「俺が先に行く。ついてきてくれ、愛花」
星藍と愛花は目配せをし、同時に駆け出した。
* * *
静寂の夜が、突如として揺るがされる。
「なんということだ……」
いち早く練武場の野外稽古場に駆けつけた
「ガルゥッ!」
「こ、こっちに来るな! ひッ……助けてくれ、師兄!」
声を裏返し、這いずりまわっていたのは、黄の道服をまとった男。央派の弟子だ。
それも、先日の騒動の当事者であり、愛花の兄弟子である燐に謝罪の要求をしていた男。
そして男を襲っていたのは、剛健な翼を生やした白虎だった。
いうまでもなく、ただの虎ではない。
「
騶虞。仁徳を示す瑞獣。その性質は穏やかで、獣を捕食しない。
「草木すらふみ荒らすことをよしとしない騶虞が、なぜこんなにも荒ぶっているんだ」
まさに、尋常ではない。
「グルァッ!」
「来るな……うわっ!」
逃げまどうさなか、足をもつれさせた男が転倒する。
そこへ、鋭い牙と爪を剥き出して襲いかかる騶虞。
「失礼」
いままさに男が切り裂かれるというとき、とっ……と燐がひと跳びであいだに割り入る。
その両手に、シュルシュルと『気』を集束させて。
「はっ!」
瞬時に解き放たれた気弾が、騶虞の腹を直撃する。
「グガァッ!」
吹き飛ばされる騶虞。その大きな体躯は、石造りの柱に叩きつけられた。
「乱暴は好きではないのだけれどね……」
燐は嘆息したのち、厳しいまなざしでもって、腰を抜かした男をふり返った。
「こんなところで何をしていたのか、師弟」
「そ、それは、明日の稽古の準備をだな」
「こんな時分に?」
門限はとうに過ぎている。稽古の準備ができていないのであれば、明日の早朝に起き出してやればよいだけのこと。
にも関わらず、誰もが寝静まったこの夜更けにこそこそと宿舎を抜け出していたということは、何かよからぬことでも企てていたのか。
「そういえば、近ごろよく稽古場の備品がなくなっていたな」
「誤解だ! 俺はただ、剣の点検をしていただけで!」
「そうか。なくなっていた備品が剣だと、僕はひと言も言っていないが?」
「あっ……」
いまさら気づいたとて、もう遅い。
しまった、と口をつぐむ男へ、燐は容赦なく言い放つ。
「稽古で使用する武器類の窃盗、ならびに破損。よもや、この僕が気づいていなかったとでも?」
──稽古場の倉庫に保管されている剣が、少ない。
はじまりは、そんな違和感だった。
翌日確認してみると、帳簿に記された数と一致していたものの、明らかに傷や汚れの目立つ剣が増えていた。
そういったことがたびたび起こり、燐は確信した。何者かが夜な夜な剣を持ち出し、『細工』をしていると。
燐は日々の稽古のかたわら、不審な人物はいないか、つねに目を光らせていた。
そして気づく。誰もが破損した剣を辛抱して使っているなか、男の持つ剣だけ、新品のごとく傷ひとつないことを。
「剣に細工をして、不正に稽古の評価を得ようとしたんだろう。涙ぐましい努力だ」
燐が男を疑うのには、ほかにも理由があった。
男は比武大会準優勝の経歴がある。しかしこの大会では、燐を含む西派の門下生は出場していなかった。
つまり準優勝者の肩書きがあれど、
実際、打倒星藍をかかげて今回の合同稽古に参加した男だが、ふたを開けてみれば星藍は燐との稽古ばかり。燐しか星藍の相手にならなかったのだ。
対して男は、西派の師弟に苦戦を強いられる日々。星藍にいどむどころではない。
日に日にたまりゆく不満。それがついにたまりかね、愛花相手に騒動を起こしたというのが、例の件の経緯だ。
小細工をする時間があるのなら、修行にいそしめばいいものを。
「師弟、いまのきみは、はっきり言って見苦しい。これは西派の門下生としての意見だ」
「そして」と続ける燐。恐る恐る見上げた男は、震え上がった。
浮き世離れした美しさを誇る燐が、一切の感情を削ぎ落とし、見下ろしていたためだ。
「愛花の師兄としては、あの子に対する無礼で下品なふるまいをしたきみの愚行を、遺憾に思う」
「あ……う……」
とたん、男は息苦しさに見舞われる。
燐に、気圧されてしまったのだ。
「愚かな……星藍に対する嫉妬や、楽をして強さを得ようとする欲が、よくないモノを引き寄せたんだ」
燐は地面にうずくまる騶虞を見やった。
騶虞は善なる獣だ。そして瑞獣のなかではとくに心やさしく、ひとの感情に敏感だという。
おそらく騶虞は男の醜い感情にあてられ、凶暴化してしまったのだろう。
「『五悩』を滅すべし。仙界の掟をやぶった対価は、やすいものではないぞ」
ひときわ低くうなった燐は、直後、白の袖を振り上げる。
「グ、ゥアッ!」
よろよろと起き上がった騶虞が、ふたたび飛びかかる。
パァンッ!
かん高い破裂音がひびき渡る。
手のひらに内功を込めた燐が、騶虞の攻撃をはじき返したのだ。
「グ……ガ、グルァアッ!」
しかし、なおも騶虞は襲いかかってくる。
「完全に我を忘れている。気は進まないが……」
防戦一方では埒が明かない。そう判断した燐は、腰に提げた剣の柄へ手をかける。
「せめて、楽にしてさしあげよう」
ぐ、とふみ込んだ刹那、剣を振り抜く燐。
──ガキィッ!
激しい衝突音が鳴りひびく。
すぐに、燐は顔をしかめた。
剣がはじいたのは、騶虞の爪ではなかったのだ。
「そう早まるな、燐」
青年だ。夜空のような黒髪をなびかせた青年が、手にした剣で、燐の一撃を防いだらしかった。
「星藍……」
間違えようもない。燐の一撃を止められる者は、そうそういないのだから。