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第27話 話にならない

 それから数日、雨の降りしきる日々が続いた。

 仙界にしてはめずらしいことだ。


 ようやく雨の上がった朝。

 星藍シンランは尋常でない様子で、石造りの庭院にわを疾走していた。


(どういうことだ……!)


 顔に血の気がないのは、宿舎の裏山にこもり、三日三晩滝行に明け暮れていたからではない。

 増水した滝の勢いすらものともしなかった星藍を動揺させているもの、それは、宿舎へ戻ったときに耳にした話。


愛花アイファが、謹慎処分だって……!?)


 なんらかの違反行為によって、愛花が謹慎処分を受けている。

 西派の門下生たちが、輪を作ってひそひそと言葉を交わしていた。

 断片的な情報では、状況が理解できない。

 星藍はすぐさまリンの私室へ向かい、扉を開け放った。


「燐! 愛花が戒律違反だと? 何かの間違いじゃないのか!」


 すると、何事か書き物をしていたのだろう。文机に向かっていた燐はため息まじりに筆を硯へ寝かせ、星藍をふり返った。


「間違いじゃない。愛花は私闘を禁ずる戒律をやぶった。きみと同じように西派うちで合同稽古をおこなっていた央派の弟子に、平手を打ったんだ。ゆえにひと月の謹慎処分が下された」

「愛花がいたずらに暴力をふるうわけがない。燐、そのことはきみもよくわかっているだろう!」

「もちろんだ。だがね、感情論で解決できるほど、甘くはないんだよ。被害を受けた央派からは、すでに抗議の書面が届いている」


 なるほど。兄弟子である燐は、愛花の不始末に対する謝罪文をしたためていたというところか。

 やっとの思いで状況を飲み込むことができた星藍は、ついで腹の底からふつふつとこみ上げるものを感じた。


「愛花を一方的に加害者あつかいするなど……もういい、俺が愛花と直接話をしてくる!」

「面会は禁止だ。そんなに興奮しているきみなら、なおさらね」

「燐!」


 星藍は詰め寄りたい衝動に駆られたが、ぐっと唇を噛む。


「星藍。怒りも『五悩』のうちだ」


 感情を乱してはならない。つねに己を律すべし。

 そうした思想が根強い仙界において、燐に苛立ちをぶつけたところで、何の解決にもならない。

 それどころか、星藍も謹慎処分を受けてしまう可能性があるのだ。


(……落ち着け。冷静になるんだ)


 ぎりぎりと奥歯を噛みしめる星藍を一瞥し、燐は淡々と告げる。


「星藍、いまのは見なかったことにする。今日の稽古はなしだ。部屋に戻っておとなしくしていなさい」


 あぁ、だめだ。

 これ以上何を言っても、話にならない。


 そう理解した星藍は、無言で燐の部屋を飛び出した。



  *  *  *



 当然だと思っていたことがそうではないのだと知ったとき、気分が沈んだことを、愛花は覚えている。


「はじめまして、愛花。僕は燐。今日から僕がきみの師兄だよ」


 すべてのはじまりは、愛花が七つのとき。

 親に捨てられ、人買いに連れて行かれそうになっていた愛花は、颯爽と現れた青年に救われたのだ。

 同じ境遇のこどもは、みなさびしくてつらい思いをしているのに。

 これは単なる、神の気まぐれだったのかもしれない。


 愛花を助けた青年は燐という名で、仙人だという。

 仙人は老いることなく、とても長生きをするらしい。

 燐も十代後半の見た目をしているが、すでに数十年の時を生きていると聞いた。

 まばゆい白銀の髪で、柔和な顔立ちの美青年。

 燐の美しさは、たしかに浮世離れしたものだった。


「燐にいさまは、なんで愛花をたすけてくれたの?」


 手を引かれ、仙界へ迎え入れられて間もなかったころ、愛花はそう問いかけたことがある。

 燐はやさしくほほ笑んで、愛花の頭をなでた。


「それはね、きみがとてもきれいな心を持っているからだよ。僕はね、きみを僕の道侶にしたいと思ったんだ」

「どうりょ?」

「お嫁さん、と言ったらわかるかい? きみが大きくなったら、僕と結婚してほしいんだ」

「けっこん……」

「ふふ、つまり僕は、きみのことをたいせつにするってことだよ」


 幼い愛花は、結婚がどういうものか、よく理解はしていなかった。

 ただ、身寄りのない自分をたいせつにしてくれるなら、燐はいいひとなのだと思った。

 だから愛花も、燐の言うことを素直に聞くことにした。


 燐のうしろをついて回るうちは、愛花も平穏な日々を送ることができた。

 その平穏とやらは、あっけなく崩れさってしまうけれど。


「聞いたか? 西派に新しく弟子入りした──」

「筆頭弟子がやけに気にかけているこどものことだろう? また面妖なこどもを連れてきたものだ……」


 じつは愛花には、生まれつき特別な力があった。

 誰かと話すとき、さまざまな『色』が見えるのだ。

『色』が赤に近づくほど、相手は好意を持ってくれている。相手が本心とは違う態度をとっていても、『色』を見れば簡単に見抜くことができた。


 だが、ふつうのひとには『色』など見えない。それが当然だという。

 自分に向けられた奇異のまなざしに、愛花はやっと気がついた。

 愛花にとっての当然が、当然ではなかったことを思い知らされた。


「わたし、へんなこなの……?」


 あまりにびっくりして、悲しくて、泣いてしまった幼い愛花を抱きしめて、燐はこう言った。


「ほかのひとの目には、変に映るのかもしれないね。でも、僕がいるから大丈夫。いいかい愛花、きみの不思議な力のことは、ほかの誰にも教えてはいけないよ。いいこにしていれば、何も悲しいことはないからね」


 自分は仙界でも異質な存在なのだと、愛花は幼心に悟った。

 ならば、燐の言うとおりにすべきなのだろう。

 口をすべらせて失敗したのだから、もうむやみに他人と口は聞かない。


 燐の言うことだけを聞き、彼の望むようにふるまう。

 そして道侶とやらになれば、燐はもっと自分のことをたいせつにしてくれる。

 愛花は、そう信じた。

 何も持たない愛花が、助けてくれた燐に恩を返すためには、そうするしかなかった。


 やがて愛花は、自分の意見を言うことも、何かをしたいと考えることも、やめた。

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