頭上には、連日続く寒空。
街はきらびやかな装飾でいろどられ、手をつないだ恋人たちが数多く行き交っている。
そんなとある日曜日。
しかし、待っても返答なし。仕方がないので、ここまでオートロックを解除してきたカードキーをトートバッグから取り出し、腹を決めて玄関ドアを開け放った。
「おひさしぶりです、
リビングへ直行すると、いた。しおれた雑草のようにソファーにもたれかかった星夜が。
「……花梨……? なんできみが……あぁそうか、ここは天国か……」
「
世間ではいわゆるクリスマスシーズンというやつで、花梨も冬季休暇に入ったところだ。が、ここのところ星夜が多忙で、ほとんど顔を合わせていなかった。
聞けば星夜は会社の近くにあるマンションに缶詰めになり、昼夜問わずテレワークに没頭しているというものだから、花梨も我慢ならなくなって乗り込みに来た次第だ。
「たまにはいい仕事するじゃないか、七海のやつ……後で特別休暇をやろう」
「星夜さん、きのこ! きのこが生えそうなほどじめっとしてます! 冬なのに! 換気しておくのでシャワーを浴びてきてください!」
隈をつくり、なにやら薄ら笑いを浮かべながら親指を立てている星夜をソファーから起こした花梨は、そのままバスルームへ押しやった。
「まったくもう……」
花梨はため息まじりにダイニングへ移動すると、持参したトートバッグをカウンターキッチンへ置き、腕まくりをする。
「それじゃあ、やりますか!」
* * *
いまとなっては知れたことだが、星夜はプライベートだと、すこしおっちょこちょいだ。
今日もほら。ちゃんと乾かしたと主張している髪は生乾きだし、着替えもボタンをひとつずつかけ間違えている。
そして花梨がドライヤーを持ってきたりボタンをかけ直していると、何を思ったかぎゅっとハグをしてくるまでがいつもの流れ。
「星夜さん、苦しいです」
「充電中だ」
「あ、お湯が沸いたみたいです。お茶を淹れますね」
ピピ、という電子音を聞いて花梨が笑いかければ、むっとした星夜が渋々腕を離す。
それからしかめっ面で腕組みをするものだから、無言の圧力がものすごい。
「はい、座って。いいものを見せてあげます」
「ふぅん?」
なら見せてみろと言わんばかりに、星夜が腕組みをしたままソファーへ腰を下ろす。
花梨は星夜の前に、球体の茶葉が入った透明なティーポットを置く。そこへ、熱湯を注いでみせた。
「これは……」
目を丸くさせる星夜。年のわりに物知りな彼も、『これ』は知らなかったようだ。
「中国の花茶です。お湯を注ぐと茶葉がひらいて、お花が咲くんですよ。きれいでしょう? お花の種類もいっぱいありますし、大のお気に入りなんです」
「いただこう。……味はジャスミンティーに似ているな。疲れているときにちょうどいい」
星夜も気に入ったようだ。リラックスした様子で、花梨が手渡したティーカップに口をつけている。
「花梨は、茶を淹れるのが上手いな」
「そうですか? お母さまには、よく淹れてさしあげていますが」
「上手い。きみが淹れた茶を飲むと、ほっとする……それにどこか、懐かしい」
ツキン……
ふいに、花梨のこめかみが痛む。
──きみの茶は、一流だな。
──俺はきみの…………の茶が、いっとう好きだ。
昔、こうやって星夜に笑いかけられた気がする。
不思議なことだ。星夜に腕をふるったのは、今日がはじめてなのに。
「花梨? どうした、ぼうっとして」
「お花がきれいだなって見惚れてただけです、お花がね! それより星夜さんも、部下のみなさんに心配はかけないでくださいね。そろそろ七海さんも胃に穴があきそうだって嘆いてましたよ」
「あいつの胃の事情なんぞ知らん」
「パワハラですからね!?」
ふてくされたように不満をこぼした星夜が、ティーカップをテーブルへ置く。
「ここなら、被害も最小限ですむしな」
「あの、突拍子もなさすぎて……いったいなんのお話をされてます?」
「万が一このマンションで立てこもり事件があっても、迷惑を被るのは俺ひとりだけだという意味だ」
「なにかのドラマのお話ですか……?」
花梨を前にすると表情筋がユルユルになるだけで、鷹月星夜という男は基本的に真顔だ。冗談と本当の判別がつきづらい。
いぶかしげな視線を送る花梨へ、星夜が告げたことは、驚くべきものだった。
「幼少のころから、俺をねらう物好きなやからが一定数いた。たいていは身代金目的だ」
「なっ……」
「情報誌の一面を飾る前に父がにぎりつぶしていたが、いまでもその物好きなやからはいる。目的は金ではなく、俺の命に変わったがな」
絶句する花梨をよそに、星夜は淡々と続ける。
「このマンションは、もともと俺が所有していた不動産だ。住民も俺しかいない。仕事が立て込むときは、オフィスには行かないようにしている。仮に俺が隙をつかれるヘマをしたとき、俺ひとりならどうとでもなるが、あいつらを人質にとられたらどうにもできないからな」
「なんでそんなこと……なんでもないように言うんですか」
「なぜだろうな……きみの前だと、俺もおしゃべりになるらしい」
星夜はなんでもひとりでこなそうとするし、実際にそれができる器用さがある。
だが親しくしている部下相手にも、そっけなく突き放すような言動が多い。対人関係では、不器用なのだ。
(前の私みたいね。他人を警戒していて、親しいひとが相手でも、素直になれないんだわ)
不用意に近づけたら、自分のせいで傷つけてしまうかもしれないから。
「だが、ここにきみが来るようになったから、その持論はもう通用しないな」
「星夜さん……」
「なにが起きてもだいじなひとを守れるように、俺自身がもっと強くなるさ。これでも腕っぷしには自信があるんだ。七海には『仕事を奪わないでくれ』と泣きつかれた」
「ふふっ……星夜さんらしいですね」
ふとした拍子に冗談を言う星夜のとなりが、心地いい。
(昨日よりずっと、彼のそばにいたいと思うわ)
花梨はこれを、まんまとほだされた、ということにする。
くすりと笑みをもらした花梨を、星夜がじっと見つめていて。
「星夜さん? 私がなにか……きゃあっ!?」
不意討ちもいいところだった。星夜が抱き込んできたかと思うと、ちゅ、ちゅと花梨のほほやひたいにキスを落とす。
「毎回毎回、突然すぎません!?」
「さっきおあずけをしたのはきみのほうだ」
「だからって、スキンシップが唐突すぎるんです! やめて、くすぐった……ひゃっ!」
「……なんか変な気分になってきた」
「星夜さんのばかーっ!」
じたばたと抵抗しても、無駄な悪あがきだった。
好き勝手にキスをしてきた星夜が、花梨の唇にふれる寸前で、ぴたりと動きを止めた。
「この際だから、白状するが」
「な、何をですか」
「俺の初恋の相手のことだ」
「初恋……」
「その子は命がけで野良猫を助けるくらい、やさしくて行動力のある子だった」
「……え」
「だから生まれ変わった後も、持病で倒れてしまった女性へ真っ先に駆け寄って、一生懸命介抱していた。そのすがたを間近で見て、なんて心やさしい子なんだと、感動したよ」
さすがの花梨も、星夜が何を言おうとしているのか気づく。
気づいてしまったら、視界がにじむのを止められなかった。
「もしかして、星夜さん……あのとき、あそこに、いました?」
「そういうことになるな」
そういえば、と花梨は思い出す。
病の発作を起こして倒れた
その青年は、必死な花梨にかわって救急車を呼んでくれたり、冷静に対処してくれた。
必死すぎて、当時のことをあまり覚えていないのだけれど、その青年はブレザーすがただった。つまりどこかの学生だったということは、ぼんやり思い出せる。
「花梨、あのときに俺は、二度目の一目惚れをした。今度こそきみを手に入れると、そう胸に誓った」
そうか……そうだったのか。
それが、初対面にも関わらず、星夜の好感度が異様に高かった理由。
(お母さまは、知っていたのね)
だから、星夜とのお見合いをあんなに喜んでくれたのだ。
星夜が花梨を幸せにしてくれると、櫻子は信じていたのだ。
「そういうだいじなことを……いまさら言うのは、ずるいです」
「そうだな。もっと早く言っていれば、きみを不安がらせずにすんだかもしれない」
星夜はそう言って、花梨の背に腕を回す。
「だからこれからは、俺の気持ちを積極的につたえていくことにする」
腰を引き寄せられ、顔を近づけられたなら、なにをされるかわからない花梨ではない。
「んっ……」
やわく、唇を食まれる。
ついばむようだったふれあいが、角度を変え、しだいに深くなる。
やがて、ぬるりとした熱いものが、花梨の口内に侵入する。
「んんっ……」
花梨は星夜の首に腕を回し、かさねられた唇のあまさに酔いしれる。
「花梨……っは」
「あっ……」
首すじに星夜の熱い吐息がかかったかと思うと、肌を強く吸われる。
「……俺も存外、まてがきかないようだ」
そうして花梨は、いつの間にか星夜に抱き上げられていたことを理解した。
「花梨、きみを愛している。──最初くらいはやさしくしたかったが、手加減できそうにないことを、先に謝っておく」
あぁ、いま逃げないと大変なことになるなぁと他人事のように思いながら、花梨はふたたび星夜の首へ腕を回す。
今一度キスを落とした星夜のすがたは、抱き直した花梨とともに、寝室へ消えていった。
季節が移ろうように、すこしずつ、いろんなことが変化していく。
『1度目』のようにはならない。大切なひとと歩んでいけるのだと、花梨は信じていた。
──何が待ち受けているのか、知るよしもなく。
* * *
「……そんな、まさか……」
月明かりが射し込む、薄暗い寝室。
ベッドに座り込んだ星夜は、頭をかかえていた。
寝息を立てる花梨を見つめるまなざしが、戸惑いに揺れている。
「思い出した、俺は…………花梨、きみは……」
月が、満ちたのだ。
少女の知らぬ間に動き出した運命の歯車は、もう止まらない。