「なるほど、わかりました。あなたが……きみが、愚かなほどに学習しないということが」
「
どさりと音を立て、
一瞬のことだった。一歩踏み込んできた螢斗に、手首をさらわれたのだ。
「本当に、変わらないなぁ……きみのそういう無知で無垢なところが、いじらしくもあるのだけれどね」
「なにを、言っているのですか、螢斗さん……」
螢斗はほほ笑んでいる。ふだんの明朗な彼とは似ても似つかない、妖しく、魅惑的な笑みだ。
花梨はその表情に、見覚えがあった。
あれはそう、記者会見の日、夕暮れの教室で──
「そんなに怖がることはないだろう。もっと近くにおいで」
ぐっと腰を引き寄せられ、からだが密着した。
突然の出来事に言葉を失う花梨のほほを、螢斗がするりとなでる。
「あの男などにうつつを抜かさず、僕を選んでいれば、こんな過酷な運命にさいなまれずにすんだのにね……可哀想な
「だから……さっきから、なにを」
螢斗は答えない。面白そうに瞳を細めるだけだ。
どこからともなく嫌な予感が背すじにせり上がってくるのを、花梨は感じた。
もう一度螢斗が花梨のほほをなでた直後に、『それ』は起きた。
「なっ!」
整った顔を、ふいに螢斗が近づけてきたのだ。
とっさに顔を逸らした花梨だが、やわらかい唇の感触が、ほほにふれる。
「ん……惜しかったな」
「なにをするんですか、螢斗さんッ!」
とっさに胸を突き飛ばす花梨。
だが螢斗は余裕の笑みで見下ろすのみで、花梨の腰を絡めとった腕は、依然としてそのまま。
「無理やりこんな、ひどいですっ……
「ひどいのはきみのほうだ。僕のことを兄だと慕っていたくせに、あいつに溺れ、くだらない色事にかまけた。挙げ句の果てに犬死にをするなんて……本当にがっかりしたよ」
「ですから、おっしゃっている意味がわかりませんと申し上げております!」
「ちがうだろう? わからないんじゃなくて、忘れているだけ。その魂が、覚えている」
目の前にいるのは、本当に螢斗なのか。
誰だ、いったい誰なんだ、この男は。
混乱をきわめる花梨へ、美しい笑みを浮かべた青年が吐息を寄せる。
「もう疲れただろう。大丈夫だ、僕に身をまかせて……そうすれば、僕がきみを助けてあげる。きみは僕の可愛い妹だからね」
「やめて、離して……!」
「
「やっ……!」
がむしゃらに抵抗するが、無駄だった。
いともたやすく花梨を押さえ込んだ螢斗が、唇をふさいできたのだ。
「んぅっ!?」
深い口づけ。片手で花梨の腰を絡めとり、片手で頭をなでる螢斗だが、無慈悲と慈愛の落差が、花梨を恐怖にふるえさせた。
(このひとは、私が好きだからキスしてるんじゃない……いやだ……いや、いやぁっ!)
涙があふれ、視界がにじむ。
ショックとパニックで花梨の意識が遠のきそうになった、そのとき。
どんっ──
鈍い打撃音とともに、突然の解放感に見舞われる。
「……っえ……?」
ひざからくずれ落ちる花梨の腕を、ぐっとつかむ大きな手がある。
おかげで地面へ転倒することは避けられた花梨は、ぱちりとまばたきをした。
目の前で、よろめいた体勢を立て直す螢斗がいた。
そして螢斗を突き飛ばしたであろう人影が、花梨を背にかばうようにそびえ立っており。
鮮烈な茜色の光をあびる彼の名が、花梨の口からこぼれる。
「……鷹月、さま?」
間違えようがない。
「……怖いですねぇ」
ぴりぴりと痛みを感じるほど緊迫した静けさを破ったのは、螢斗だ。
「誰に手を出したのか、わかっているのか」
うなるように発された星夜の声は、低い。
星夜は激怒している。からだの芯へひびく怒声に、花梨は戦慄した。
「ただの婚約者、でしょう? そんな不確かな契約、どうとでもなります。そもそも、僕と彼女のあいだに割り込んできたのは、あなたなのですが?」
「小僧の戯れ言に付き合う義理はない。失せろ」
「やれやれ……」
螢斗はわざとらしく肩をすくめた後、うつむく花梨へ視線をよこす。
「それじゃあまた。気をつけてお帰りくださいね、花梨さん」
そして何事もなかったかのように爽やかな笑みを浮かべ、背を向けるのだった。
螢斗が去ってしばらく、沈黙が流れる。
「……あの」
「きみは、ばかなのか?」
おずおずと口をひらいた花梨の頭上へ、容赦ない星夜の言葉がふりそそいだ。
「あいつには気をつけろと言ったはずだ。それなのに、学園の敷地内とはいえ、こんなところに連れ込まれて。警戒心が足りなさすぎる」
そこでようやく、花梨は自分の失態を悟った。
学園が誇る薔薇園は、迷路のように複雑に入り組んだ箇所がある。生け垣の背も高く、まわりから様子をうかがえない死角が存在するのだ。
(螢斗さんは、はじめから『そのつもり』で、私を……)
周到な螢斗の思惑を知り、花梨は身震いをした。
「螢斗さんは、仲良くしていただいている友人でしたので……」
「それでこの有様か? ふざけるな……きみには俺という婚約者がいる自覚が足りない!」
めったに声を荒らげない星夜が、語気を乱した。
そのとき、彼の胸もとに浮かぶ『好感度ゲージ』に、著明な変化が見られた。
MAX寸前だった『好感度ゲージ』がどくんと脈打ち、赤から青色に変化したのだ。
「え……」
何が起きたのか、花梨はすぐには理解できなかった。
「……くそっ!」
苛立たしげに髪をかき乱した星夜が、背を向けて大股で歩き出す。
みる間に遠ざかっていくそのすがたに、花梨は全身から血の気が引く思いだった。
好感度は、青色が最低値ではない。
それよりも下──マイナスの『色』が存在する。
「待って……待ってください、鷹月さま!」
花梨は夢中で追いかけ、星夜の腕をつかまえようとするも、その寸前でふり払われてしまう。
「さわるな」
明確な、拒絶の言葉だった。
(だめ……好感度がこのままマイナスになったら、大変なことになる……!)
また、『あのとき』の二の舞になりかねない。
だからみっともなくても、花梨は星夜にすがるほかなかった。
「さわるな」
「鷹月さま……!」
「……たのむから。いまの俺は、きみに乱暴をしてしまうかもしれない」
だが次に聞こえてきたのは、花梨が思いもしなかった言葉だった。
「防げるはずだった。守れるはずだったのに……あんなやつに好き勝手をされて、腹の虫がおさまらない。おとなげないと笑いたいなら好きにしろ。俺は……きみにちょっかいをかけられて平常心でいられるほど、心がひろくはない」
矢継ぎ早に言い放つ星夜のこぶしは、ふるえている。
その光景から感じ取れるのは、どうしようもない怒りと、悔しさだ。
(あ……『好感度ゲージ』が……)
ゼロになる寸前で、『好感度ゲージ』がぴたりと下げ止まる。
ハートが青から緑、黄色へと、ぶるぶるとふるえながら、めまぐるしく色を変えている。
(こんな状況で、浮気されたと思われても仕方ないのに……鷹月さまは、私を見限らないでいてくれるのね)
それどころか、怒りにふるえながらも、花梨を傷つけてしまわないように葛藤しているのだ。
(私……なにを悩んでいたのかしら。私たちの想いと想いは、とっくに向かい合っていたのに)
急にばからしくなった。花梨はたまらなくなって、星夜の背に身を寄せた。
「ごめんなさい……私が間違っていました。怖かったんです……恋をすることが。また傷つくことが」
「……花梨さん?」
星夜も、花梨のただならぬ様子に気づいたのだろう。
ゆっくりとふり返った星夜へ、花梨は意を決して告げた。
「すべて、お話しします……5年前、私が経験した事件のことを」