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第19話 わかりました

「なるほど、わかりました。あなたが……きみが、愚かなほどに学習しないということが」

螢斗けいとさ……きゃっ!」


 どさりと音を立て、花梨かりんの通学鞄が落下する。

 一瞬のことだった。一歩踏み込んできた螢斗に、手首をさらわれたのだ。


「本当に、変わらないなぁ……きみのそういう無知で無垢なところが、いじらしくもあるのだけれどね」

「なにを、言っているのですか、螢斗さん……」


 螢斗はほほ笑んでいる。ふだんの明朗な彼とは似ても似つかない、妖しく、魅惑的な笑みだ。

 花梨はその表情に、見覚えがあった。

 あれはそう、記者会見の日、夕暮れの教室で──


「そんなに怖がることはないだろう。もっと近くにおいで」


 ぐっと腰を引き寄せられ、からだが密着した。

 突然の出来事に言葉を失う花梨のほほを、螢斗がするりとなでる。


「あの男などにうつつを抜かさず、僕を選んでいれば、こんな過酷な運命にさいなまれずにすんだのにね……可哀想な阿妹アーメイ

「だから……さっきから、なにを」


 螢斗は答えない。面白そうに瞳を細めるだけだ。

 どこからともなく嫌な予感が背すじにせり上がってくるのを、花梨は感じた。

 もう一度螢斗が花梨のほほをなでた直後に、『それ』は起きた。


「なっ!」


 整った顔を、ふいに螢斗が近づけてきたのだ。

 とっさに顔を逸らした花梨だが、やわらかい唇の感触が、ほほにふれる。


「ん……惜しかったな」

「なにをするんですか、螢斗さんッ!」


 とっさに胸を突き飛ばす花梨。

 だが螢斗は余裕の笑みで見下ろすのみで、花梨の腰を絡めとった腕は、依然としてそのまま。


「無理やりこんな、ひどいですっ……鷹月たかつきさまになんて説明すればいいのか……!」

「ひどいのはきみのほうだ。僕のことを兄だと慕っていたくせに、あいつに溺れ、くだらない色事にかまけた。挙げ句の果てに犬死にをするなんて……本当にがっかりしたよ」

「ですから、おっしゃっている意味がわかりませんと申し上げております!」

「ちがうだろう? わからないんじゃなくて、忘れているだけ。その魂が、覚えている」


 目の前にいるのは、本当に螢斗なのか。

 誰だ、いったい誰なんだ、この男は。

 混乱をきわめる花梨へ、美しい笑みを浮かべた青年が吐息を寄せる。


「もう疲れただろう。大丈夫だ、僕に身をまかせて……そうすれば、僕がきみを助けてあげる。きみは僕の可愛い妹だからね」

「やめて、離して……!」

双修道侶そうしゅうどうりょに情愛は必要ない。そんなものなくたって、僕ときみがたがいに高め合える仲だということを証明してみせるよ、阿妹──愛花アイファ

「やっ……!」


 がむしゃらに抵抗するが、無駄だった。

 いともたやすく花梨を押さえ込んだ螢斗が、唇をふさいできたのだ。


「んぅっ!?」


 深い口づけ。片手で花梨の腰を絡めとり、片手で頭をなでる螢斗だが、無慈悲と慈愛の落差が、花梨を恐怖にふるえさせた。


(このひとは、私が好きだからキスしてるんじゃない……いやだ……いや、いやぁっ!)


 涙があふれ、視界がにじむ。

 ショックとパニックで花梨の意識が遠のきそうになった、そのとき。


 どんっ──


 鈍い打撃音とともに、突然の解放感に見舞われる。


「……っえ……?」


 ひざからくずれ落ちる花梨の腕を、ぐっとつかむ大きな手がある。

 おかげで地面へ転倒することは避けられた花梨は、ぱちりとまばたきをした。


 目の前で、よろめいた体勢を立て直す螢斗がいた。

 そして螢斗を突き飛ばしたであろう人影が、花梨を背にかばうようにそびえ立っており。

 鮮烈な茜色の光をあびる彼の名が、花梨の口からこぼれる。


「……鷹月、さま?」


 間違えようがない。星夜せいやだった。


「……怖いですねぇ」


 ぴりぴりと痛みを感じるほど緊迫した静けさを破ったのは、螢斗だ。


「誰に手を出したのか、わかっているのか」


 うなるように発された星夜の声は、低い。

 星夜は激怒している。からだの芯へひびく怒声に、花梨は戦慄した。


「ただの婚約者、でしょう? そんな不確かな契約、どうとでもなります。そもそも、僕と彼女のあいだに割り込んできたのは、あなたなのですが?」

「小僧の戯れ言に付き合う義理はない。失せろ」

「やれやれ……」


 螢斗はわざとらしく肩をすくめた後、うつむく花梨へ視線をよこす。


「それじゃあまた。気をつけてお帰りくださいね、花梨さん」


 そして何事もなかったかのように爽やかな笑みを浮かべ、背を向けるのだった。

 螢斗が去ってしばらく、沈黙が流れる。


「……あの」

「きみは、ばかなのか?」


 おずおずと口をひらいた花梨の頭上へ、容赦ない星夜の言葉がふりそそいだ。


「あいつには気をつけろと言ったはずだ。それなのに、学園の敷地内とはいえ、こんなところに連れ込まれて。警戒心が足りなさすぎる」


 そこでようやく、花梨は自分の失態を悟った。

 学園が誇る薔薇園は、迷路のように複雑に入り組んだ箇所がある。生け垣の背も高く、まわりから様子をうかがえない死角が存在するのだ。


(螢斗さんは、はじめから『そのつもり』で、私を……)


 周到な螢斗の思惑を知り、花梨は身震いをした。


「螢斗さんは、仲良くしていただいている友人でしたので……」

「それでこの有様か? ふざけるな……きみには俺という婚約者がいる自覚が足りない!」


 めったに声を荒らげない星夜が、語気を乱した。

 そのとき、彼の胸もとに浮かぶ『好感度ゲージ』に、著明な変化が見られた。

 MAX寸前だった『好感度ゲージ』がどくんと脈打ち、赤から青色に変化したのだ。


「え……」


 何が起きたのか、花梨はすぐには理解できなかった。


「……くそっ!」


 苛立たしげに髪をかき乱した星夜が、背を向けて大股で歩き出す。

 みる間に遠ざかっていくそのすがたに、花梨は全身から血の気が引く思いだった。


 好感度は、青色が最低値ではない。

 それよりも下──マイナスの『色』が存在する。 


「待って……待ってください、鷹月さま!」


 花梨は夢中で追いかけ、星夜の腕をつかまえようとするも、その寸前でふり払われてしまう。


「さわるな」


 明確な、拒絶の言葉だった。


(だめ……好感度がこのままマイナスになったら、大変なことになる……!)


 また、『あのとき』の二の舞になりかねない。

 だからみっともなくても、花梨は星夜にすがるほかなかった。


「さわるな」

「鷹月さま……!」

「……たのむから。いまの俺は、きみに乱暴をしてしまうかもしれない」


 だが次に聞こえてきたのは、花梨が思いもしなかった言葉だった。


「防げるはずだった。守れるはずだったのに……あんなやつに好き勝手をされて、腹の虫がおさまらない。おとなげないと笑いたいなら好きにしろ。俺は……きみにちょっかいをかけられて平常心でいられるほど、心がひろくはない」


 矢継ぎ早に言い放つ星夜のこぶしは、ふるえている。

 その光景から感じ取れるのは、どうしようもない怒りと、悔しさだ。


(あ……『好感度ゲージ』が……)


 ゼロになる寸前で、『好感度ゲージ』がぴたりと下げ止まる。

 ハートが青から緑、黄色へと、ぶるぶるとふるえながら、めまぐるしく色を変えている。


(こんな状況で、浮気されたと思われても仕方ないのに……鷹月さまは、私を見限らないでいてくれるのね)


 それどころか、怒りにふるえながらも、花梨を傷つけてしまわないように葛藤しているのだ。


(私……なにを悩んでいたのかしら。私たちの想いと想いは、とっくに向かい合っていたのに)


 急にばからしくなった。花梨はたまらなくなって、星夜の背に身を寄せた。


「ごめんなさい……私が間違っていました。怖かったんです……恋をすることが。また傷つくことが」

「……花梨さん?」


 星夜も、花梨のただならぬ様子に気づいたのだろう。

 ゆっくりとふり返った星夜へ、花梨は意を決して告げた。


「すべて、お話しします……5年前、私が経験した事件のことを」


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