(そういえば、夢に見ることはあっても、今の人生に転生してから一度も白猫を見かけたことがないわ)
しゃらん、しゃらん。
首輪はしていない。それなのに、白猫が地面を蹴るたび、不思議な鈴の音がひびく。
あの白猫を追いかけていたときも、そうだった。
(あのときの白猫なの……!?)
だが、前世とは状況がちがう。
白猫は歩道を駆け抜けるばかりで、車道へ飛び出す様子はない。
大通りを疾走し、階段を駆け下りる。そうして、
「ねぇ、待って──!」
ビュオウ!
どこからともなく突風が吹き抜け、花梨は目をつむった。
「……あれ……どこに、行っちゃったの?」
そろそろとまぶたをひらいた目の前に、白猫のすがたはもうなかった。多くのひとが行き交う地下鉄の構内に、花梨はぽつんと取り残されていたのだ。
「まずい、思わず飛び出してきちゃった……
さすがの
──とん。
なにかが肩にぶつかった。
「あっ、ごめんなさい……」
とっさに頭を下げる花梨。そして、はたと気づいた。
花梨にぶつかったのは、こどもだったのだ。
そのこどもは、中年くらいの男に手を引かれていた。
「あぁ、すみません。ほら、ちゃんと前を見て歩くんだぞ」
「…………」
男が人のいい笑みを浮かべた後、ため息まじりにこどもを小突く。
こどもはうつむき、終始無言だった。
「短い髪、戦隊ヒーローのTシャツにズボン……」
遠ざかっていくこどもは、星夜から聞いた特徴と合致している。この年のこどもなら、同じような格好をしていてもおかしくはないが。
(……あれは!)
そのとき、花梨は目にした。
男に連れられたこどもが、つないでいないほうの右手を背中側に回していて──
グー、パー、グー、パー……
親指を折り込んだ右手を、しきりに閉じたり開いたりしていた。
次の瞬間、花梨は駆け出していた。
「ゆうちゃん!」
「んなっ!」
こどもの腕をつかみ、渾身の力でぐっと引き寄せる。
ふいをつかれた男の腕から小柄なからだが離れ、花梨のもとへ飛び込んでくる。
「これ、落としてたよ。お友だちと、星夜お兄ちゃんが心配してたから、帰りましょう?」
花梨がほほ笑みかけながらハンドタオルをにぎらせると、顔をあげたこどもの瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれはじめる。
「おねえちゃん……うぅ、わぁああん!」
わっと泣き出すこども──ゆうちゃん。
わんわんとひびき渡る泣き声に、道行くひとびとの視線が集まった。
ぽんぽんとゆうちゃんの背を叩く花梨は、左側のほほが赤く腫れていることに気づき、唇を噛む。
「いきなりなんなんだ!」
「それはこちらの台詞です」
興奮した様子でつばをまき散らす男を、花梨はにらみつける。
「こどもを誘拐して、ただですむと思ってるんですか?」
「なにを根拠に……っ!」
「ゆうちゃんはSOSのハンドサインを出していました」
──元々は家庭内暴力に苦しむ女性を救うために海外で考案されたもので、連れ去り事件が多発する近年は、児童向けの防犯教室でも教えている──これは、花梨が星夜の口から聞いたことだ。
星夜は児童向けの防犯対策の啓発に、力を入れている。関連資料の積まれた星夜のデスクを一目見れば、わかることだった。
「顔を殴って、抵抗できないようにしたんですね……酷い。非力なこどもをさらうなんて正気じゃないわ、恥を知りなさい!」
花梨はわざと声を張り上げ、男を追及する。
「なに……誘拐?」
「うわぁ……やばくね?」
周囲に人だかりができはじめ、さわぎを聞きつけた駅員がやってくるのが見える。
(よかった、どうにか解決できそう……)
花梨は安堵していた。それが油断であったことも知らずに。
「ちくしょう……このクソ女がぁああッ!!」
もう言い逃れはできないと悟ったのか。男が発狂したようにこぶしをふりあげる。
一瞬のことだった。
逃げなければいけない、それなのに。
(……あ……)
襲いくる男の胸もとに浮かぶハートを、花梨は見てしまった。どす黒いハートだ。
──嘘つき……嘘つき嘘つき嘘つき!!
遠いむかしに封じこめた記憶が、フラッシュバックする。そのせいで花梨の手足は硬直し、言うことを聞かない。
(私……こんなところで、死んじゃうの……?)
『あのとき』のように、絶望は突然やってきた。
(いや……っ!)
なすすべがなかった。花梨は幼子に覆いかぶさったまま、ぎゅっと目を閉じる。
「花梨さん…………花梨ッ!」
その直後だった。聞き慣れた声がしたのは。
ドゴォ、とにぶい音がして、「ぐふぅ!」と男のうめき声を聞く。花梨がおそるおそる顔をあげると……
「──彼女がだれか、わかっての仕業か」
尋常ではない怒気をまとった星夜が、花梨の目前にいた。そのこぶしは血管が浮き出るほど、硬くにぎりしめられている。
襲いかかる男を、星夜が殴り飛ばしたのだ。
「その女がだれかなんか知るかよ! 勝手に割りこんできたんだよ!」
「そうか、ならば教えてやる。貴様が手を出そうとしていたのは、俺の婚約者だ」
「だからっ……!」
「言い訳は聞かん──地獄送りにしてやる」
いまだかつて耳にしたことのない低音で星夜がうなったかと思えば、
「うぐぁっ!」
星夜につかみかかろうとしていた男の体躯がぐるりと一回転し、床に叩きつけられるところだった。
「あーもー! なにやってんすか社長! やりすぎですって!」
そこへ慌てたように駆けつけたスーツすがたの男性は、もしかしなくとも
豪快に男へ巴投げを決めた星夜は、七海をふり返ってふんと鼻を鳴らした。
「不審者を目撃して、黙っていろと? 無理な話だな」
「気持ちはわかりますけど、こらえてくださいよ」
「くそ……どいつもこいつも……!」
よろよろと起き上がった男が、鼻血を垂れ流しながら吐き捨てる。
「ふざけんなよぉおッ!!」
そして血走った目で、七海に殴りかかるが。
「こういう感じで逆恨み買ったら、どうするんすか」
「がふぅッ!」
ガッと、七海の肘鉄が男の顔面を直撃する。
「危ないんで、こういうのは俺に任せてくださいってば〜」
七海の口調は間の抜けたものだが、どさりと崩れ落ちた男が、衝撃のすさまじさを物語っていた。
「あ……あの、七海さん……?」
「こいつは俺の専属秘書兼、ボディーガードだ」
「うそ……」
「あ、花梨さん疑ってますね? これでもデキる男ですよ、俺は。は〜いそこで伸びてるおっさん、通行の邪魔になるんであっち行きましょうねぇ」
にぱにぱと笑いながら、放心状態の男を引きずっていく七海。一連の出来事があまりに衝撃的すぎて、花梨は絶句していた。
「警察は呼んでおいた。あとは七海がうまくやるだろう」
そこまで言った星夜は、「さて」と花梨へ向き直る。
「俺になにか言うことは?」
「えっと……その」
勝手に飛び出して、危険なことにみずから首を突っ込んだのだ。なにも弁明などできるはずがない。
「──ちなみに俺は、きみに言いたいことが、山ほどある」
星夜の目が、据わっている。
「……ひゃい」
花梨は、ただただ、観念するしかなかった。