「……はい?」
なにが起きたのか、
(え?
完全に思考停止した花梨をよそに、
星夜の胸もとに浮かぶハートは、変わらぬ赤色。この期に及んでもなお、花梨への好感度が揺るぎないあかしだった。
「あぁ、いいな。学園で評判の『優等生な
「学園での私の評判を、ごぞんじなんですか」
「婚約者のことだ。関心があって当然だろう」
「こんっ……!? まだ婚約はしてませんっ!」
「わかったわかった、ははっ」
ムキになって言い返しても、星夜はおかしげに笑いながら、なだめてくるだけ。
「からかわれてる……ひどい!」
軽くあしらわれているのが悔しくて、花梨の目じりがじわりとにじむ。
「ばかにしていたわけじゃないんだ。気を悪くしたなら、すまない」
ふと星夜が漆黒の瞳を細めたかと思えば、その指先が伸ばされる。
「俺はずっと、きみに嫌われているものとばかり思っていた。嫌われていなくて、よかった……心の底から、ほっとしたよ」
星夜の言葉に、からかいの色はない。
「ほっとしたら、胸がいっぱいになって、どうにもたまらなくなったんだ。だから俺がきみにふれることを、すこしでいい、許してくれるか」
星夜はそういって、涙のにじむ花梨の目もとをぬぐう。
(……やさしい手つき……)
星夜にふれられている場所から、ぬくもりが広がる。
慈しみの心をもってふれていることが、伝わる。
(彼が相手だと、拒めない……どうして?)
星夜にふれられるたび、花梨はひどく安堵してしまう。
かたくなな意思とは裏腹に、無意識に身をゆだねてしまうのだ。
その安心感は、懐かしさにも似ている。
「花梨さん、どうしてきみが俺に嫌われようとしていたのか、訊いてもいいか?」
「──っ!」
そんなとき、ふとした星夜の問いに、花梨の血の気が引く。
「それは、ですね……その…………」
どもる花梨。心臓がどくりと嫌な音を立て、じわりとこめかみに汗がふき出る。
(鷹月さまに、『あのこと』を話すの……? でも、そんなことをしたら……)
言葉を見つけられずにいると、花梨の頭に、ぽんと手が乗せられた。
「話したくないなら、それでいい」
花梨は瞳を丸くする。
おろおろと目を泳がせ、落ち着きのない花梨の異変を、星夜は悟ったのだ。
「きみにとって、俺はまだ信用に足る男ではない。早い話がそういうことだろう。ぶしつけに追及する権利など、俺にはない」
「鷹月さま……」
「だが、ひとつだけ。
花梨の頭をなでていた星夜の視線が、おもむろに落とされる。
花梨の首もとへ伸ばされた星夜の手は、ブラウスのボタンを留めていただろうか。
「っ、きゃあああっ!」
「おっと」
星夜を突き飛ばした花梨は、恥ずかしさあまり、頭をかかえてしゃがみ込んだ。
「やらかしたわ人生最大の汚点だわっ! もういや〜っ!」
「そこまで嫌がられると、さすがに傷つくんだが」
「鷹月さまも鷹月さまです! なんで私みたいなのに迫られてまんざらでもなさそうなんですか! 善良な市民を守るお仕事はどうしたんですか!?」
星夜に詰め寄った花梨は、バン! と彼のデスクを引っぱたく。自分から押しかけて邪魔をしたことは棚に上げている。
それでもやはり、星夜は腹を立てるそぶりを見せない。
「そうだな、花梨さんには礼を言わないと。ありがとう」
「どこの文脈でそうなります!?」
「じつはここ最近、仕事が詰まっていてな。気も詰まっていたところだったんだ」
星夜は椅子の背にもたれ、ふぅ……と息を吐きながら眉間を揉む。
花梨がはっと視線をやると、デスク上には犯罪防止の啓発ポスターのサンプルであったり、その他会議の資料だと思われる書類が山積みになっていた。
「きみをここへつれてきたのも、七海のやつが変な気をきかせたんだろう」
「あ……」
そう、七海は星夜の秘書。
星夜をからかいたかったという個人的な思いつきもあるだろうが、それ以前に、星夜のスケジュール管理を一任されている。
「きみと話したら、いい気分転換になった。ありがとう」
ふつうはセキュリティーの厳重な社長室に、ほいほい部外者を入れるわけがない。すこし考えればわかることだろうに。
(鷹月さまは、私とのやり取りを心地いいと感じてくださっている。七海さんもそれを知っていて、私をここに通してくれたのね)
それだけ、星夜と七海は、花梨を信頼してくれているのだ。
(そんなの……反則だわ)
花梨は無性に、胸がむずかゆくなったが……
(そうだわ……鷹月さまはセキュリティーシステム開発のほかにも、系列の警備会社の管理や、防犯関連の講演で毎日忙しくされているはず)
そのことに気づいたとたん、花梨の気持ちが重く沈む。
(私の幼稚なわがままで鷹月さまをふり回すことは、彼に守られるたくさんのひとたちの安全を、妨害してるってことだわ……)
唇を噛む花梨。おのれの軽率な行動に、にぎりしめたこぶしがふるえた。
「……もう帰ります。本日はお時間を取らせてしまい、申し訳ございませんでした」
星夜の顔を見ることができなかった。
しかし逃げるように背を向ける花梨を、星夜が黙って見送るわけがない。
「待ってくれ。自宅まで送る」
星夜は力強い腕で、ぐ、と花梨の肩を引きとめる。
うつむく花梨には、星夜がどんな表情をしているのかはわからなかったが。
「そんな顔のきみを、放っておけるわけがないだろう」
鷹月星夜という人物は、どこまでもまっすぐな青年だと、花梨は思い知らされた。
* * *
──その帰り道。
いたたまれない気持ちで頭がいっぱいの花梨は、知るよしもなかった。
「花梨さん…………花梨ッ!」
まさか、『あんなこと』が起きるなんて。