小さい時から、風邪をひきやすいのはオレの方だった。
双子で同じDNAなのだから、体質だって同じはずだけど、体調不良を爆発させる回数は二人に明確な差があった。サクはきっと「あ、そろそろ風邪かな」って気づくのが早くて、そこから無理せずに直ぐに休むことが多い。自己管理、というのがよく出来ているわけだ。
対して、オレは悪化するまで全然気づかずに遊び続けて、ある日突然ぶっ倒れる。そういう感じのことが多かった。
そして、あの時も例にもれず、そういう感じだったような気がする。
「あーあ、お前、いい加減学習しろよ」
「無理……」
鼻を詰まらせ、ゴホゴホをせき込みながら言った言葉は声になっていただろうか。喋っても苦しいし息をするだけでも苦しい。熱で体は怠いし眠いし思考はまとまらない。
ズビーッ、と鼻をかんだ余韻でぼうっとしていると、扉の向こうから養父が顔を出した。
「サク、カズトは大丈夫か」
「残念、アウト」
ほら、とサクが父さんに見せた体温計には、39、という数字が映っている。どうしたって高熱を示しているその値を見て、父さんは溜め息を吐いた。
「全く、布団かぶって寝ないからじゃないのか」
「うん……そうかも……」
父さんの言葉は真実で、オレは中学生になった今でも寝相が悪く、布団を蹴っ飛ばして寝てしまうことが多い。今回もきっとそのせいかもしれない。そう思うと、反論する元気もなかった。
オレの頭に手を置いた父さんは、いつもよりも数段、やさしく撫でてくれた。
「サクは学校があるし、オレと母さんも今日は仕事が休めない。出来るだけ早く帰ってくるが……一人で寝てられるか?」
「……へーき。寝てるだけだし。オレ、もう小学生じゃないんだよ」
絞りだした言葉は、本心だった。ただ眠るだけだ。誰かに居てもらう必要はない。何より、三人にいらない心配をかけたくなくて、オレはその場で笑って答えた。オレの内心を知ってか知らずか、父さんは「そうか」と呟いて、またオレの頭を撫でた。
「一応軽いメシは作ってキッチンに置いてあるが、どうせ食欲ないだろ。残していい。飲み物は冷蔵庫にあるもの、好きに飲め。ジュースもある」
「うん、ありがと……」
まさに至れり尽くせり、だ。普段だったらこんなに世話を焼いてくれることなんてない。
これなら病気もありかな、なんてちょっとだけ思うけれど、残念ながら体のダルさと鼻づまりと咳は消えるわけもなく。自分が絶賛体調不良真っただ中なのだと思い知らされる。
心配そうにこちらを見る養父母と兄を見送りつつ、身体の重さに負け、気づけばふわふわと夢の世界へと入っていった。
「……?」
あつい、という感覚で目が覚める。汗でパジャマが少し湿っていた。
窓からは、まだ太陽の光が射しこんでいる。そこそこ寝たような気はしたが、丸一日寝ていたわけではないらしい。ゆっくりと視線を動かして見つけた時計も、昼過ぎを指し示していた。
そういえば、養父が昼食を用意したと話をしていた気がする。あまり食欲はないけれど、手をつけないのも失礼かもしれない。それに、どっちにしても水分くらいはとりたい。そう思って、重い腰を上げてキッチンへと向かった。
双子の部屋は一戸建ての中の二階を宛がわれていた。熱と寝起きが相まって足元がふらついている自覚はあったので、手すりをしっかりと握って一階へと降りる。一段一段、階段をおりる足に力が入らなくて、変な感じだった。
皆勤賞というわけではないけど、学校を休むことも殆どないので、この時間にオレが家にいるのは凄く珍しい。養父母は仕事でサクは学校。家に他に誰かがいるはずもなく、がらんとしている。ただひたすらに、静かだった。
「……誰もいない、って、こんなに寂しかったっけなあ」
まるで、世界に自分しか居ないような感覚に陥る。
――いや、逆だ。
世界に自分だけが置いていかれたような、感覚だ。
だから、こんなにも寂しくて。胸が締め付けられるように思うのだ。
自分は大丈夫だと思っていた。実の両親を亡くした時も、どうにか耐えることが出来ていた。自分はそういうことに強いんじゃないかと、勝手に思っていた。
でも、きっとそうじゃなかった。オレが耐えられたのは、ただサクと一緒だったからだ。手をつないだ先の温もりが、誰かがいるという感覚が、心強かった。
今、自分の手の中には、何もない。手の先に誰もいないということが、ここまで心細いとは。初めての感覚に、揺らいでしまいそうになる。
こんなにも、自分が『一人』に弱いなんて、思ってもみなかった。
――ピンポーン
「……へ?」
自分以外無人の家に、インターホンが響いた。完全に予想外で、つい呆けた声が出てしまった。
両親かサクならインターホンなど押すわけがない。となると、宅配便か、何かの勧誘か。何度か遭遇したことがある、お隣さんからの回覧板かもしれない。
変なセールスなら出なくてもいいが、宅配便か回覧版ならそうはいかない。最悪、汗ばんだシャツに寝ぐせのまま『ザ・風邪っぴきです』という姿で応対することになるのかと、ちょっとげんなりした。
ありがたいことに、最近のインターホンにはカメラ機能がついている。これのおかげで、訪問してきた相手を見て応対を決められるわけで。
さあ誰だ、と液晶画面を見て――更に想定外の姿が映っていて、目を丸くした。
「……あれ」
幻覚だろうか。ハルキが見える気がする。一度視線を斜め上に逸らして、もう一度見る。やっぱり、映っているのはハルキだった。
当たり前だが、ハルキを呼んだ記憶はない。慌てて玄関に行って扉を開けると、インターホンの画面で見たままのハルキがそこに立っていた。
「……ハル、キ?」
「……風邪をひいて休んだと、聞いたんだが」
聞いた、というのはおそらくサクからだろう。ハルキが学校でオレの情報を得るには、サクから聞くしかない。サクが嫌そうに伝えている様子が目に浮かんだ。
ふと、ハルキの手元にビニール袋が見える。そこのスーパーで買ってきました、という感じだ。
……ハルキが、スーパーで……? あまり想像できない光景である。
オレが目線をやったことに気付いたのか、ハルキはビニール袋を持ち上げていった。
「こういう時に何がいいか、あまり思い浮かばなかったんだが……折原さんに電話で聞いて、色々買ってきた」
「……ハルキが?」
「……どういう意味だ?」
何も考えずにスッと出てしまった言葉に、ハルキは微妙な顔をした。確かに随分失礼なことを言った気がする。熱でぼんやりした頭では、修正する元気もないけど。
お互いに沈黙して、その沈黙さえもおかしくて、ついに噴き出してしまった。
「っはは、へんなの」
「変、と言われても」
「何でもねーよ、ゲホッ」
つい声を上げて笑っていたら、喉が悲鳴をあげてせき込んでしまった。目を丸くしたハルキは、手元のビニール袋を慌てて差し出してきた。
「これ、渡しておく」
「サンキュ。助かる」
白い袋を受け取りながら、ふと、どうしたものか悩んだ。本当なら家の中にあげてお茶くらい出さなきゃいけないとは思うけれど、いかんせんこちらは風邪真っただ中だ。万が一、移してしまってはまずい。
貰うだけもらって何も出来ないなんて失礼かな、と思ったけれど、それはハルキにちゃんと伝わっていたらしい。首を横に振っていた。
「俺はここでいい。勝手に家に入ったなんて知ったら、まず朔がキレるだろう。そもそも、病人に気を遣わせるわけにもいかない。それに……」
「?」
気まずそうに言いよどんだハルキに、首を傾げた。
「……学校を抜け出してきたんだ。戻らないと」
「ははははっ、そっか、そうだよな、まだ授業中だもんな」
確かに、オレは学校を休んでいるわけだから、他のみんなはしっかり授業中の筈だ。そういえば今のハルキは制服のくせにカバンを持っていない。なんとなく感じていた違和感はこれだったか。
「授業はもう間に合わないかもしれない。でも、カバンは取りに戻らないといけないから」
「ハルキお前、財布とスマホだけ持ってお見舞いしにきたのかよ」
きっとハルキなりに真剣に考えたのだろう。お見舞いに行きたいが、学校にもいなきゃいけない。その結果がカバンだけ置き去りにしたという奇行なわけで。不器用すぎて面白くなってしまって、笑いが止まらなかった。
あまりにもオレが笑いすぎたものだから、流石のハルキも少し不機嫌そうに眉を顰めた。
「笑いすぎだ。いいから、早く部屋に戻って寝ていろ」
「うん、そうする」
はー、と呼吸を整えるために息を大きく吐くと、途端にドッと疲れが出てきてしまう。つい楽しくなって、無理をしてしまったかもしれない。そう思って顔を上げたオレの額に、少しひんやりとしたものが触れた。
「……ハルキ?」
額に当てられたのは、熱を測ろうとするハルキの手のひらだった。
「……熱いな」
「そりゃあ、熱出してるからな。ハルキの手、冷たくて気持ちいいや」
寝る前まで、体温計が39度を叩き出すほどの高熱だった。今もそう下がってはいないだろう。ハルキの体温は人並みのはずだが、その手のひらを冷たいと感じる程度には、オレの身体はまだ熱かった。
正直、歩くのもやっとなのだ。こうやって立ち話をするもの少し厳しい。早く部屋に戻らなければ、と思うのに、誰も居ない家の中に戻ろうとしても、身体がいうことを聞かなかった。せっかく、ハルキがいるのに。来てくれたのに。また、一人の空間に戻らなければならないのか。両親も、兄もいない。手の先に何もない。隣に、誰もいない。寂しくて、心細い。空気を掴むように、手のひらを握って、開いた。そこには、何もなかった。
――何もない、はずだった。
「……大丈夫だ」
オレの手を、一周り大きな手が、ぎゅっと握った。少しだけひんやりとして、でも、なんだか温かい。ああ、ハルキの手だなって高熱の頭でやっと気づいたのは、手を握られて数秒たった後だった。
「ちゃんと寝て、早く良くなってくれ。ちゃんと、学校で待ってる」
まるで祈るように、オレの手を握る。
――変なの。別に、家族でもなんでもないのに。なんでこんなに、必死になってくれるんだろう。
疑問に思いながらも、手を握ってくれる温かさには、ひどく安心した。
待っていてくれる。ちゃんと、居てくれる。手を握ってくれるのが、そう言ってくれるのが、嬉しかった。心強かった。
もう一度オレの手を強く握ったあとで、ハルキの手が離れる。名残惜しいのだと目で訴えながらも、ハルキは言った。
「じゃあ、また。早く寝ろよ」
「あ、うん。じゃあ、また」
言葉はそっけないけれど、視線は雄弁だ。ハルキが無表情だとか言うやつは、もっとよく見て見ればいいと思う。ただ不器用で口数が少ないだけなのだと、すぐ分かるのに。
小さく手を振って、玄関扉を閉める。もう繋がれてないはずの手が、まだ温かいような気がした。
「……熱のせいで、幻覚でも見えたかなあ」
風邪による熱以外の要素で、なんだか熱さを感じてしまっている気がする。首を傾げつつ、まあいいかと貰ったビニール袋を持ってリビングまで戻った。
ソファに腰掛け、ハルキが買ってきたというビニール袋の中を覗く。あの星空家のお坊ちゃんであるハルキが、一人でスーパーで買ってきたというのだから、内心かなり心配はしていた。しかしそこは折原さんが適切な指示を出したのだろう。割とちゃんとしたものが入っていた。
冷却シート、経口補水液、ジュース、それから……
「……あ、これ」
可愛らしく『みかんゼリー』と書かれたパッケージ。近所のスーパーやコンビニで売られている、オーソドックスなゼリーだ。
それでも、カズトはこれが一等お気に入りだった。たまにハルキが家に遊びに来た時、そういえば「これが美味しい」なんて話をしたかもしれない。
キッチンに戻り、一番にゼリーを開ける。付属のスプーンで掬って口元に運べば、優しい甘酸っぱさが口の中いっぱいに広がった。
「……おいしい」
すっと、口から零れ出た言葉に、自分でびっくりした。口元から感じる『おいしい』という感覚が、酷く久しぶりな気がしたのだ。
今なら昼食少し食べれるかも、なんて思い、養父の残してくれた2個の小さなおにぎりを見る。中身は塩昆布とおかからしい。
塩昆布の方を手に取って、一口だけ齧ってみる。独特のしょっぱさとうまみがおいしかった。
きっとあのままだったら、このおいしいおにぎりを食べることは出来なかっただろう。
あのゼリーは、おいしい、という感覚を思い出させてくれたわけだ。あの不器用なハルキがしてくれた小さな気遣いに、心から感謝した。
「入るぞ。カズト、具合はどうだ」
「あ、父さん。おかえり」
小さなノック音と同時に入ってきた父さんは、起きてるオレを見て目を丸くした。すっかり寝入っていると思っていたらしい。それを言うなら、父さんの帰ってきた時間だって早い。更にもう少し早かったら、ハルキとばったり会っていたかもしれないくらいだ。
「今日は早かったね」
「お前が心配で早上がりしたんだよ」
「あー、ごめん」
「子どもがそこで遠慮するな。これは親の仕事だ。それで、熱は?」
「あ、わかんない。ちょっと測ってみる」
慌てて体温計をワキで挟む。大人しく三十秒ほど待てば、軽いピピピという電子音と共に、朝よりもだいぶマシな体温が表示されていた。
「37.9か。少し下がったな。」
「うん。しっかり水分とって、ごはん食べたからかも」
「お前、昼ご飯食えたのか」
父さんはまた驚いて、目を瞬かせた。食べれるとは思ってなかったのだろう。
「うん。ハルキがさ。学校サボって、ゼリー届けにきてくれて。それ食べたら、ちょっとすっきりして、ごはんも食べれた」
「サボッ……」
頭を抱えてしまった父さんに、少し余計なことを言ってしまったかなと苦笑する。どんな理由であれ、友人に学校をサボらせてしまったのだ。良いことではない。
怒られたらどうしようかな、なんて考えたけど。はああ、と溜め息を吐いた父さんは、オレの頭を優しく撫でて、笑ってくれた。
「サボりがいいか悪いかはおいといて。……いい友達を持ったな」
「……うん」
「ただいま! おいカズト!」
「お、おかえり、サクどうしたの」
「ハルキ来たか?!追い返したか?!」
「いや、ゼリー貰った」
「くっそあいついつか絶対殴る」
「ええ……」