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第17話 やっぱり君だった

 最近、仕事もプライベートもバタバタしていたから、ちょっと色々と――主に自分の体調管理に関することについて、蔑ろにしていた自覚はある。

 もしかすると、そういったものが一気に祟ってしまったのかもしれない。

 気付けばちょっと喉が痛くて。身体がポカポカするような気がして。

 それでも面倒だからと放っておいていたら、今度は強烈な眠気と怠さに襲われて。

 流石に様子がおかしいと気づいたころには、脇に挟んだ体温計が39度という数字を叩きだしていた。



 布団にくるまってぐったりするオレを見下ろしながら、サクは体温計を片手に溜め息を吐いた。

「何度見てもひっでえ数字だな」

「オレもそう思う……」

「確かにオレは仕事しろとは言ったが、風邪の症状を放置しろとは言ってねーぞ」

「わかってる……」

「バカは風邪ひかないとは言うけど、あれ嘘だな。カズトが風邪ひくんだから」

「サク、お前風邪治ったらおぼえとけよ……」

「言い返す元気はあるんだな。いいんじゃねえの」

 ちっともよくない。こっちはしんどいんだ。そう投げようとした言葉はゲホゲホという咳に飲み込まれた。

 布団の中でせき込んでいると、サクは一応申し訳程度に背中をさすってくれつつ、また呆れたような溜め息を吐いた。

「そういえば聞いたことあったな、逆に夏風邪はバカがひくんだ、って。お前の風邪で夏がわかるってことか」

「うっせ……」

「言われたくないなら体調管理くらいちゃんとしろ、成人男子」

「うえい……」

「日本語喋れよ」

「……」

 何を言っても黙らされる気しかしなくて、もう諦めて自分から黙った。病人と健康体――というより、この双子の兄に言葉で勝とうという方が間違いである。知ってた。熱で浮かされてちょっと忘れてただけだ。

 熱のせいか、息苦しさのせいか、意識がぼうっとしてくる。額に当てられた半身の手が、ほんのり冷たくて気持ちよかった。

「ちょっと出かけてくるから、カズト、お前ちゃんと寝てろよ」

「どこいくんだよ」

「今日は取引先と会議だったろうが。熱でぶっ倒れてる誰かさんの代わりに、オレが行くんだよ」

「あー……」

 そういえばそんな予定があった気がする。熱で麻痺した思考回路では記憶が薄かった。サクはオレの額を撫でながら、あれは、これはと指示を出す。その口調がいつもよりちょっと柔らかくて優しく聞こえるのは、現実なのか幻聴なのか、今は判断がつかなかった。

「風邪薬はテーブルに置いとく。飲み物は冷蔵庫の好きに使え。食欲は?」

「……あんまし」

「おー、じゃあ寝とけ。……あ」

 にゃおん、という鳴き声を久々に近くで聞いた気がした。もしかして、と思ってドアの部分——の下を見ると、白と黒のフォルムがにゅるんとこちらに向かってくるのが見える。——飼い猫のモモがこの部屋に入ってくるのは本当に珍しくて、思わず布団から身体を起こしてしまった。

「モモ、お前……いつもはサクの部屋からほとんど出てこないくせに……」

 普段はどれだけ触りたいとか、吸いたいとか思っても、それを察知しているのかこの猫はサクの部屋からほぼ出てこない。サクはモモに構いすぎることがないから、サクの部屋はモモにとって居心地が良いのだろう。

 メシの時には出てくるけど、メシの最中に触るのは猫にとってはご法度だ。そして食べ終わってすぐに去っていくこの猫を、オレは何度うらめしく見つめたことか。そんなモモが、今こうしてオレの部屋に入ってきていることが信じられない。そんな考えなど知ったこっちゃない、とばかりに、我が物顔のモモはオレの布団の足元でくるりと丸まった。マイペース。流石、猫。

 驚きすぎていっそ困惑するオレにサクは笑いつつ、もう一度オレを布団に押し戻した。

「さすがに家主の体調不良には、来てくれるってこったろ。じゃあモモと一緒に寝てな」

 部屋のドアを閉める音は、やっぱりほんの少し優しい気がして。そういう気遣いをこっそりしてくるところが兄の面白いところだよなあ、なんて、ぼうっとする頭で考えた。


 足元の温い感覚を味わいつつウトウトしているうちに、遠くで、玄関扉がバタンとしまった音がした。きっとサクが出掛けたのだろう。本当は自分が行くべきだった予定を丸投げすることになったのは、素直に申し訳なく思った。

 扉の音以降、時計の針の音しかしない部屋の空気が、いやに気持ち悪かった。部屋どころか、家の中で一人になったがゆえの、静けさ。双子で二人暮らしをしていると、買い出し以外ではこういうタイミングはあまりない。若干の新鮮味さえ感じた。

――いや、新鮮、でもない。昔、高熱を出して家の中で一人、寝ていた日があったはずだと思い出した。

 あの日も、こんな感じで一人でぶっ倒れて。家族はみんな用事で外に出て行った。

「一人で平気」と家族を送り出したはずなのに、一人になった途端に静かさが耳についたのを、身体はよく覚えている。今この瞬間の静けさと重なって、まるで幼い頃に戻ったかのようにさえ感じた。そんな自分自身が、情けない。

――成人してるってのに、病気でさみしんぼになってる場合かよ。

 自分で自分を叱咤して、布団の中でもぞもぞとしていると、足元の感覚がのっそりと動いた。

「おあん」

 まったり鳴いたモモは、足元の方から、オレの顔の付近までのそのそと歩いてくる。四本の足がのっしのっしと布団の上を歩くのがなんだか面白い。不思議に思って見ていると、そのままオレの布団の内側にのっそりと入ってきた。

「なんだよ、病人への今だけのサービスってか」

 若干の嫌味を込めてしまったその言葉への返事は、当たり前だけど飛んでくることはなく。ふわふわとした塊は、オレの腹のあたりでくるりと丸くなった。ああ、分かった。多分これはサービスというよりも、熱でホカホカしたオレの体温を求めているんだろう。このやろう、と思いつつも、ちょっと嬉しい。今は何でもいいから、誰か居て欲しい気分だったから。

 そう、あの日も、こんな気持ちだった。あの時はモモもいなくて、本当に一人で、寂しくて。あの時は結局、どうしたんだっけ――

頭まで布団をかぶり、目を閉じる。高い体温で温まった布団の中は、寒気を覚える体にはちょうどよかった。



 元々熱があるからか、そこから入眠するのは早かった。5分か10分ほど、眠っただろうか。若干うつらうつらした時に、何か音が聞こえた気がして瞼を持ち上げた。

 それは枕元に置いておいた、自分のスマホの着信音だった。もぞもぞと布団から顔と腕を出して、いまだうるさく鳴り続けているスマホを手に取る。これだけ着信音を大きくしたのは、オレが何度もサクの連絡に気付かなかったからなのだが、こんなにうるさいなら切っておけばよかったかと今は少し後悔した。

 もしかすると、サクが「生きてるか」なんて生存確認で電話をかけてきたのかもしれない。寝てたところだから大丈夫と、言ってやらなくては——そう思って画面を見たのに、予想外の名前が表示されていて思わずがばりと起き上がった。布団の中から、モモの腹立たしそうな「にゃあん」という低い鳴き声がきこえる。モモ、起こしてごめん。でもそれどころじゃない。

 液晶に映っていたのは『星空ハルキ』の文字。この間電話に出てしまったときに、そのままアドレス帳に登録した名前だった。なんとなく言いづらくて、サクには伝えていなかった。後ろめたさから、当の本人が出掛けているのを忘れて、思わずサクの足音がしないか耳をそばだててしまう。もちろん、外出しているサクの物音なんてするわけがなかった。

 再び画面に視線を戻し『星空ハルキ』からの着信を告げるスマホを握る。出るべきか、出ないべきか。一瞬悩んで——迷いながらも、緑の通話ボタンを押した。

「……はい、もしもし」

『カズトか。電話、大丈夫か』

 聞こえてきたのは、予想通りのハルキの声だった。電話が大丈夫か、というのは、前に電話が途中で切れてしまったことを言っているのだろう。充電不足だったことを詫びた方がいいかなと思いつつ、とりあえず返事をする。

「うん。この間はごめん。突然、なに、けほっ」

 ただ会話するだけでも、体調不良は隠しきれなくて。喉の痛みに耐えられず咳き込むと、通話の向こうのハルキが戸惑って声をあげた。

『調子、悪いのか』

「ちょっと風邪ひいただけ。へーきだよ」

『朔はどうした。カズト一人なのか』

「サクは仕事で、げほっ、取引先のところに会議、行ってる。オレのかわり」

 元々は(名目上の)社長として、オレが行くべき会議だった。サクが代わりに行ってくれたのはいいけれど、そういえばあれは「社長は風邪で」という意味の代理だったのだろうか。それとも、もしかしてサクはオレにすり替わって会議をしているんだろうか。何それちょっと見たかった。オレのふりしてにこやかに笑っているサクをつい想像して一人でニヤついていると、電話の向こうでハルキがぽつりと呟いた。

『……迷惑でなければ、見舞いに、行きたいんだが』

――言葉が出なかった。ここで、「やったあ」「ありがとう」と即答できる関係だったら、どれほど良かっただろうか。

 一度手を離した間柄のオレとハルキの関係性に、今、どう名前をつけていいか分からない。そしてこの状態で、容易に会う約束をつけていいものか。そもそも、ハルキと会わないためにと留学し、引っ越したわけで。今住んでいるこの家の住所は、ハルキは知らないはずなのだ。住所を教える、という大きな行動に出るには、流石に抵抗があった。

 正直何よりも、同居人であるサクが知ったらどうなるか。

「……わかんない。サクが、嫌がるかも」

 サクが帰ってくる時間は特に聞いていない。突然家に帰ってきて、見舞いに来たハルキと鉢合わせでもしたら、サクは烈火のごとく怒り狂うに違いない。熱に浮かされた頭でも、それくらいの予想はついた。

『……朔には、後で俺から謝る』

「ハルキが謝ったって焼け石に水だよ」

 約十年、ここ三人は一緒だったのだ。自分がいかにサクに嫌われていたか分かっているくせに、ハルキはたまにそういうことを言う。変なところで諦めが悪いというか、根性があるというか。ハルキがスマホの向こうで必死になっている姿を想像して、フッと笑い声を零してしまった。

『カズト?』

「なんでもない。……分かった、あとでサクに謝っといて」

 本当なら、そうするべきではないことくらい、ちゃんと分かっている。それでも「いいか」と思うくらいには、オレも――ハルキに会いたかった。

 先日、舞衣さんに言われたことを思い出す。

――振り上げた拳の落としどころがわからないみたいだ、と。

今なら、少しでも歩み寄れると思った。風邪にかこつけて、身体の力を抜いても、許されるような気がした。

 高熱でふわふわしているだけだと、内心言い訳をして。双子で住んでいる家の場所を、ハルキに伝えた。


 そわそわ、とはこういう気持ちのことを言うのだろう。

 これが万全の状態の時だったのであれば、ソワソワし続けてしまってどうしようもなかったかもしれない。そこに関しては、今、高熱を出している自分の身体に感謝した。おかげで、どんなに気持ちが焦ろうが、身体は勝手に休もうとぐったりしてくれる。ある意味助かった。

 しかし、問題は眠気である。先ほど、眠くなるタイプの風邪薬を飲んでしまったものだから、非常に眠い。体の重さと眠さに、布団の温かさが拍車をかける。更にはモモの温かさとふわふわした感触まで加わってしまえば、ソワソワした気持ちなんて眠りの向こうに飛んでいってしまった。

 眠気と格闘していたはずが、気付けば眠ってしまっていたらしい。ぴんぽん、と軽い機械音がした気がして、ゆっくりと意識を浮上させた。サクかな、と最初は思ったけれど、サクなら家の鍵を持っているはずだからインターホンなんて鳴らすわけがない。熱でぼんやりとした頭で「ああ、ハルキか」とやっと気づいて、だるい身体を持ち上げた。

「はー、い……」

 酷い眠気や怠さと戦いながら、どうにか玄関まで歩いて、扉を開ける。服や髪を整える余裕なんてあるわけもない。こんなに弱った姿を見せるのも恥ずかしい、なんてちょっと考えていたのだけれど。

「ごめん、待たせた……あれ」

 開けた玄関扉の先に、ハルキの姿はなかった。

 そう言えばさっき、インターホンの液晶画面を特に確認しなかった。てっきりハルキかと思ったが、近所の子どものピンポンダッシュか何かだったんだろうか。このご時世になんとも古臭い。

 無駄に体力を消費したなあと思いながらドアをしめようとして、後ろからモモがやってきていることに気づいた。ドアの向こうを気にして、鼻先をのぞかせている。

「こら、モモ。ドアの向こうに出んな」

「ぉあん」

 不満そうにこっちを見るモモに、オレも眉を寄せる。伝えたいことがあるのだろうか。モモが気にしている扉の向こう側を見ようとして、ドアをもう少しだけ開けた。そこで、玄関扉自体に何か引っかかっていることにようやく気付く。

 扉の外側に回ってみてみると、ドアノブにビニール袋がかかっている。白い面をよく見ると、近所のスーパーの名前が書かれていた。

――ああ、これハルキだ。

 名前が書いてあるわけでもないけど、オレにはわかる。昔とやってることがそっくりだからだ。

 お見舞いに行きたいとは思うくせに、最終的には無理は言わず、遠慮がちになる。前から、そんなやつだった。

 部屋に戻ってビニール袋の中身を見てみると、随分と色々入っている。冷却シート、ゼリー、ジュース、経口補水液、栄養剤、などなど。

 ふとゼリーを手に取ってみると、見慣れた『みかんゼリー』の表記があるもので、つい笑ってしまった。

 昔と全然変わらない。オレがこれが好きなのを、そして以前もこれを買ってきてくれたのを、アイツは覚えていてくれたらしい。

 このパッケージも、このパッケージのゼリーをお見舞いに選んだハルキも、変わらない。それがなんだか、嬉しかった。



「なあ、カズト」

「はい」

「オレのいない間に、誰が来た。なんだこの荷物」

「…………」

「……熱下がったら、ちょっと顔貸せ」

「オレとサク、同じ顔じゃん……」

「殴るぞ」

「ごめん」




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