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第16.5話 優しさの音色と青い空

 真っ暗になって、重くて、痛くて、苦しくて。

 強く手を引かれて、やっと光のある世界に出た時、見えたのは雨に濡れた兄の顔だった。

 そこから、記憶は途切れてしまっていて。気付いた時には、病院のベッドの上だった。

 ここがどこなのか。何があったのか。何も分からないまま——分からないことが分からないまま、暫く経った。今思えば、まだ意識がはっきりしていなかった頃だろう。

 最初は、検査がどうとか、薬がどうとか、病院の人がバタバタしてて。自分自身の意識もふわふわしていたこともあって、誰にも何も聞けなかった。

 やっと話せるようになった時に、周りに「とうさんとかあさんは」って聞いたけれど。

 その質問に答えてくれたのは、病院にいた大人の誰でもなく、たった一人の半身だった。

「とうさんと、かあさんは、もういないんだ」

「なんで」

「しんだんだよ」

「……そっか」

 双子の兄は、変な嘘はつかないことをよく知っているから。だから、兄の言葉を疑うことなんてしなかった。

それくらい、とてつもない恐怖だったのだ。押し寄せる水の感覚も。押し潰してきた土の重さも。今までにないほど怖くて、忘れられなくて、よく覚えていた。

 だから両親は助からなかったんだと、理解してしまっていた。


 そこからは、色んな場所をたらいまわしにされた。それぞれ施設には名前があったみたいだけど、長ったらしくてひとつひとつはよく覚えてない。でも、言われたことは、覚えてる。


 可哀想に。大変だ。これからどうするの。


 大人に、沢山のことを聞かれたし、言われた。そういった質問にオレたちは何も答えられなかったし、どうでもよかった。

 よく分からなかった、というのもある。

——『分かろうとする』ことを、本能で拒否していたこともまた、大きかったのかもしれない。


 最終的に、子どもが何人もいるところに押し込められた。孤児院、というところらしい。

 施設の大人たちは、優しかったように思う。

 サクがいればよかった。二人で手をとりあって、全てのシャットアウトしていた。あの頃だけは、毎日窓からのぞく空が灰色に見えていた気がする。


 ある日。サクと二人、何をするでもなくぼんやりと過ごしていた時。ふと、別の部屋のひとつからピアノが聞こえてきた。

 全然知らない曲。でも、とても綺麗な曲。サクと顔を見合わせて、音の聞こえる方へと駆け寄っていった。いつものオレたちなら、何が聞こえようと放っておいたかもしれない。珍しく音楽に惹かれて二人が歩き出したのは、その旋律があまりに優しく、温かかったからもしれない。

 扉の開いている一室から、綺麗な音が流れ出している。音の出どころは、ここに間違いないだろう。勢いよく、二人で中を覗き込んだ。

「……あ? なんだ。……同じ顔してんな。双子か」

 部屋の中には、大きなピアノが一台と、男の人が一人。うっすらと髭を生やした男が、ピアノの鍵盤に触れていた。この人が、あの音色を奏でていたのだろうか。それにしては。

「……似合わね」

「うん」

「んだと……」

 ひくりと口の端を震わせる男に、やばいと苦笑する。もっさりした髪に、だぼだぼの服。別に汚いわけではないけど、綺麗、という印象も持てない、そんな人。

 怒らせてしまったし、関わったらまずいかもしれない、と冷静な頭の部分で考える。しかし、彼の指はまだ鍵盤に置かれたままで、好奇心から身体は動かないままだった。

 まだ何か曲が弾かれるのかと、思わずじっと見つめてしまう。オレとサクの視線を見て、男は尋ねてきた。

「ピアノ、好きなのか?」

「ううん」

 オレがそう言って首を振り、サクも同じようにする。幼稚園で音楽を聞いたことはあるけれど、別に好きかと言われるとそうでもない。幼稚園以外で音楽をものすごく聞いていた、というわけでもない。

 二人の返事は想定していたのか、そうか、とあまり気にしない様子で男の人は呟いた。

「俺はここの副院長……みたいなもんだよ。気になるなら、何か弾いてやろうか」

「それなら、さっきの曲がいい」

「……あれは、残念ながら有料だ」

 オレのリクエストは却下して、でもその人——副院長はまたピアノの鍵盤をたたき始めた。

 流れだしたのは、さっき聞いたものとは別の、初めて聞く曲。厳かで、それでいて軽快で、美しい曲だった。聞いたことはあまりないように思う。

 すると突然、途中でメロディが一部変わった。今度は少しおどろおどろしいような曲調だ。雰囲気は怖いが、音自体はとても綺麗で聞き入ってしまう。目の前で聞く音楽って凄いんだなあと、目を輝かせた。隣にいるサクも、どこか嬉しそうな表情をしている気がする。

 じっと聞き入っているうちに曲は終わってしまったようで、副院長は鍵盤から手を離した。

「最初に弾いたのは、イタリアンコンチェルト。今のは、メフィストワルツ、って曲だ。作ったのは、バッハとリストだな」

「ばは? リス?」

「知らね」

「……ま、そうかもな」

 少し落胆した様子の副院長に、申し訳ないと思いつつも、聞きたかったことを重ねて尋ねる。

「なあ、オレたちがおっさんから初めて聞いた曲は?」

「あれは……クラシックじゃねえんだよなあ。有料だからダメだ。つうか、おっさん言うな」

「なんて曲? ここでしか聞いたことねーけど」

 おっさん呼びしつつ謝りもしないサクに眉を顰めつつ、副院長は視線をさまよわせる。どういったものか、考えているようだった。辛抱強く答えを待ったけれど、結局、副院長は大きく溜息を吐いただけだった。

「……知らん。忘れた」

「ええ」

「嘘つけ」

「うるせえ。」

 オレとサクからの反応に、副院長は雑に返す。今まで見た施設の職員の中でも、こういった人は珍しい気がした。

 こんこん、と、既に空いているドアを叩かれる。扉のところに立っていた施設の職員の一人が、副院長に声をかけた。

「霧生さん、院長が呼んでますよ」

「ああ、そろそろ時間か」

 よいしょ、と腰を上げる副院長は、今から何か用事らしい。でも、聞きたかった曲の名前を聞いていない。あわてて聞き直そうとして、副院長の名前らしき単語を呼んだ。

「きりさん、ねえさっきの曲は?」

「きり、じゃねえ。キリュー、だ。覚えとけ。じゃあな、双子」

——霧生、と名乗った職員はそう言ってオレとサクの頭を一人ずつ雑に撫でて去っていった。


 サクはふうんと見送っていたけれど、オレは納得がいかなくて、ピアノのある部屋の中でむくれていた。

 結局、あの曲はなんだったのだろうか。何度聞いても教えてくれなかったのが、余計に腹が立つ。

「曲の名前、聞けなかったなあ」

「追いかけて聞いちまえよ、カズト」

「うん」

 適当に返したサクの手を引いて、霧生、と呼ばれた副院長が歩いて行った先へと向かう。この施設はそこそこ広い。どこに行ったか一瞬分からなかったけれど、話し声のする部屋がひとつあったので、ここじゃあないかとあたりをつけた。

「あのキリューってひとがはいったの、このへやかなあ」

「たぶんな」

 扉が少し空いている。耳を澄ますと、あの人以外にも大人たちがいて、何か大声で話し合っているのが聞こえる。いっそ口論しているとも思える勢いで、オレとサクは目を合わせた。

 聞いてはいけないことなのかもしれない。でも、好奇心には勝てなくて、もう一度耳を澄ませる。

「——山の管理者は、なんて?」

「あの時、管理者がすぐに対応していれば、二人は……いや、そもそも管理者が工事を徹底していれば、あんな土砂崩れ自体は起きなかったんです」

 何の話をしているのか、あまりよくは分からない。自分達に関係はないのかな、なんて考えた後に聞こえた言葉が、オレたちのことを指しているのだと表していた。

「起きてしまったことを悔やんでも仕方ありません。今は、遺された双子の子供たちの方です」

——双子。この施設で双子と言ったら、オレとサクしかいない。オレたちのことを話しているんだとやっとわかってサクをちらりと見たら、サクは真っ青な顔で茫然としていた。

「サク? だいじょうぶ?」

 話しかけても動かないサクの肩を揺らそうとしたら、寄りかかっていたドアがガタリを音をたててしまった。

まずい、と思うと同時に、目の前のドアが開いてしまう。顔を出した職員の一人は、オレとサクを見て目を丸くしたけれど、すぐにニッコリと笑って言った。

「あら、来ていたの。おいで。二人のお父さんとお母さんの、お友達が来てますよ」

——おともだち。その言葉にびっくりして顔を上げる。まだ両親と居た頃、友達と言えるような子は幼稚園に数人居るくらいだった。そのうちの誰かが来てくれたのだろうか。

 そう思って部屋の中をのぞいたけれど——そこに居たのは子どもなどではなく、全く知らない大人二人だった。

「初めまして、かな、二人とも! 私は月島佳世子かよこっていいます」

「月島道哉みちやだ」

 軽く会釈した二人は、ツキシマ、と名乗った。同じ苗字。おそらく夫婦だろう。男の人の方はすらりと背が高くて、しかも美人なもんだから、ちょっとキツい感じがする。女の人の方はシャツとズボン、という服装のせいか、少し子供っぽい感じがした。でも嫌な感じはしなくて、なんだか冬でも半袖半ズボンで走り回ってそうな、元気っ子、って感じの人だ。

男の人はオレたちをじっと見て、小さく頷いた。

「なるほど。ひろじゅんの子たちだな。そっくりだ」

 ひろ、じゅん。男の人が言った名前はあまりピンとはこないけれど、オレたちの父さんと母さんの名前だってことくらいは分かる。

「おじさん、オレたちのこと知ってるの?」

「おじさん言うな。……お前たちのことは知っている」

「実は生まれたばかりの時に、二人に会ったことあるのよ。覚えてないでしょうけど」

 女の人が言った言葉に、オレとサクは顔を見合わせる。この夫婦はオレ達に会ったことがあるというけれど、覚えてはいない。オレは首を振ったし、サクも首を振った。きょとんとするオレ達に、男の人は小さく溜息を吐いた。

「覚えてるわけないだろう。だが、お前たちの両親とは、仲良くさせてもらってたんだ。……なあ、二人とも」

 男の人はオレたちと視線を合わせるように床に腰を下ろした。二つの瞳からの視線が、オレたちとぴったり重なる。ああ、綺麗な目だなあ——なんて考えていると、男の人はオレたちに聞こえるようゆっくりと言った。


「俺たちのところに来ないか」


「……え?」

 俺たちの、ところ。その意味が理解できずに、思わず聞き返してしまう。困惑するオレにもう一言、女の人が付け足した。

「新しい家族にならないか、ってことよ」

「まだ父親と母親のことが辛いのはわかる。だから、無理はしなくていい」

 オレが思ったことを、男の人が代弁してくれた。

新しい、家族。今はあまり、考えられなかった。でも、今いるこの施設が安心できる場所かと言われたら、それは否だ。

目の前のこの二人は、居場所になってくれるのだろうか。新しい居場所、家族に——


「……やだ」


「サク」

「やだ。オレ、新しい家族なんていらない。カズトだけいればいい」

 ここにきて珍しく、サクが思い切り拒否の姿勢を示した。

 サクの答えに男の人は綺麗な眉をしっかり顰めて、言った。

「本当に、二人だけで生きられると思っているのか」

 強い語気の言葉に、サクはびくりと身体を震わせる。

「ここの施設だって、18歳で追い出される。それまでの生活だって、この人数の子供でやりくりしなきゃいけない。お前は兄弟だけでいいとはいうが、周りがそれを許さないぞ」

 男の人の言葉は真理で、オレとサクがここに入ってから危惧していたことでもある。

 サクは俯いたまま、黙ってしまった。どうしよう、と、内心慌てた時だ。

「道哉、いい加減にちょっと黙んな」

 ゴン、と怖い音がして、目の前で男の人の頭が机に沈んだ。女の人の拳が、男の人の頭をぶん殴ったのだ。

 そこそこな音がしたけれど、大丈夫なんだろうか。逆に心配するくらい静かになってしまった男の人を凝視しているうちに、女の人はカラリと笑った。

「ごめんね、この人子供と会話するの下手くそだから!」

「ええ……」

 男の人をぶん殴った手をヒラヒラと振って笑う女の人は、なんだか物理的に強そうな感じがした。びっくりした、というかちょっと引いてしまったオレたちに、女の人はやさしく微笑んで言った。

「別にいいのよ、無理して家族になろう、なんて。

でも、よかったら考えてほしいの。二番目の家族として、私たちと一緒に過ごすこと」

——二番目の家族。

 それは初めて言われたことだった。父さんと母さんを、忘れなくてもいいんだと。

自分のままでいいんだと、言われた気がした。

 そのタイミングで、ぐう、と声を上げて、男の人がゆっくりと起き上がった。強烈なパンチのダメージからやっと復活したらしい。

「お前、容赦なく殴りやがって」

「あれくらいで音を上げるなんて男らしくない。しゃきっとしな! ほら、いったん帰るよ! 面会時間おしまい!」

「どんな人間でもあれだけ全力で殴られたら死ぬぞゴリラ女!」

「あんたが貧弱なのが悪いのよ、このもやし男。さっさとしな! もう一回殴るよ!」

 やいのやいの、という言葉がこれほど似合う瞬間もないだろう。まるでコントのようなやりとりをして、二人は部屋を去っていった。他の職員も、さっきピアノを弾いてくれた人も、一緒に出て行ってしまう。オレ達双子だけが、部屋に残された。

「なんか、すごい二人だったねえ」

「……」

 あの『月島』と名乗った二人が帰っていった後ろ姿を思い出す。にぎやかだった先ほどに対して、今隣にいるサクは一言も話さなくなってしまった。自分の中で、気持ちを整理しきれていないような、溢れる思いに自分で押しつぶされてしまいかけているような、そんな感じの表情をしている。

「……サクは、あの二人のところに行くの、嫌?」

「嫌だ」

 そこは即答するんだ。ちょっとびっくりした。

 サクの気持ちも、分からなくはない。オレ達にとって、父さんと母さんは変わらない。新しくなることはない。生まれ育った家はあの山のふもとだ。何も変わらない。変えたくない。オレ達は、オレ達のままがよかった。

「俺も、よくはわかんないけどさ」

 それでも。あの二人は、それを許してくれると思った。

 オレ達がオレ達のままで、一緒に居てくれるんじゃないか。そう直観した。

「行くなら、サクと一緒に行きたい」

 これは、オレも迷わなかった。どこに行かないにしても。行くにしても。隣にいるのは、この半身がいい。

 ぎゅう、とサクの手を握る。サクは少し戸惑って、悩んで——そして、頷いた。

「……分かった」

 握った手を、ぎゅう、と握り返される。

「カズトと一緒なら、いい」

 大丈夫だよ。

 一緒に居るから。一緒に行こう。

 たった一人の家族と一緒なら。そして、あの二人の元なら。



 オレ達が、月島の家に行くことを決めて。

 あの夫婦を、父さん、母さんと呼ぶようになったのは。それからもう少し後の話。


 つないだ手は、あたたかくて。

 窓からのぞく灰色の空が、青く見えた。

 ずっと降っていた雨が、やっと止んだようで。

 ようやく、二人で前に進めたような気がした。



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