数日ぶりに、またカメラを手に取ってみる。今日は一日フリーだから、ちょっとカメラを持って出かけてみようか、なんて考えた。急にカメラなんてとも思うが、思い立ったが吉日というし、せっかくカメラを思い出すきっかけだってあったのだから、別に不思議じゃあない。
先日充電しなおしたバッテリーをはめて、取り出したカメラのスイッチを入れてみる。
「……あれ」
充電したばかりなのに、バッテリーが既に残り少ない表示になってしまっている。電池マークが赤く点滅しているから、このままだと数時間もつかどうか、というところだろうか。
なるほど、カメラ本体が動いても、これはバッテリーがダメになっているパターンだ。むしろもう何年もたっているのに、バッテリーがギリギリ生きていたことが奇跡ともいえなくもない。
しかし、このままだといずれ起動できなくなる。以前のように毎日使っているわけではないけれど、使えなくなるのは、少し寂しかった。
そういえば、この間、道に迷った人——舞衣さんを連れて行った近所のカメラショップを思い出す。このカメラと近い機種が、店頭に並んでいたかもしれない。もしかすると、バッテリーの替えが売っている可能性もある。同型の機械なら、バッテリーだって使いまわしが効く。
せっかくの休みに、という気持ちはなかったわけではない。しかし、思いついてしまえば、やりたくなるのが人間の性というもので。カメラと財布などなどを持って、オレは早々にとカメラショップへ向かうことにした。
結果、賭けには勝ったというか、買ったというか。カメラショップには一つだけ、奇跡的に替えのバッテリーが売られていた。公園のベンチに座りながら、カチカチとカメラのボタンを押す。フル充電を示す電池マークを見て、少し嬉しくなる。これでまた色々と撮ることが出来る。何を撮ろうかと周囲をきょろきょろと見回して——驚いた。びっくりして目を丸くしている、見覚えのある顔があったからだ。
「あれ、和兎さん……ですか?」
「舞衣さん?」
一度しか会ったことはないけど、カメラの話で盛り上がったから、よく覚えている。そこに立っていたのは、少し前にカメラショップを探して迷っていた人——舞衣さんだった。
オレの姿を認めて公園に入ってきた舞衣さんは、にこっと笑って手を振ってくれた。
「お久しぶりです、和兎さん」
「うん、こないだぶり。どうかした?」
カメラショップに行く道で迷っていたところからするに、ここの地元住民でないことは明らかだ。首を傾げつつ尋ねると、舞衣さんは苦笑しながら、自身の鞄を開いた。
「実は……先日、このカメラを買ったんです。和兎さんに案内された、あのカメラショップで」
舞衣さんの鞄の中から取り出されたのは、黒く四角いフォルムのカメラ。見た感じは一眼レフというよりも、ミラーレス、つまり小型カメラのように思える。これなら持ち運びもしやすいし、女の人でも重さで疲れにくいだろう。なるほどいいなあ、なんて感心していたら、舞衣さんはそのカメラのバッテリー部分を指さした。
「せっかくだからと思って、替えのバッテリーも買ったんです。でも、私、うっかりで。バッテリー、間違ったの買っちゃったんですよ。だから、今から交換出来ないか、聞きに行くところで」
「あちゃあ。でも、店員さんは教えてくれなかったんだ?」
「色々、買う時に質問しちゃったんです。メモリーカードのこととか、このカメラの使い方のこととか。そのついでに買ったものだから、ちょっとバタついちゃったんですよね」
なるほど、それなら仕方ない。あのカメラショップでいつも店番をしている高齢の店主を思い出す。たまに外の道の掃き掃除をしているから、挨拶をすることがある。とても人のいいおじいさんだが、ちょっとぼんやりとしてしまっているところがあるから、バタバタしている中では商品を取り違えることもあるだろう。もしかすると、若い女の人のお客さんが来て、舞い上がってしまったのかもしれない……なんて、勝手に想像してしまった。
「和兎さんは、どんな写真を撮るんです?」
「オレ?」
突然自分の話になって、うーんと考え込んだ。どんな、と言われても表現する言葉が思いつかない。自分の語彙力の低さに情けなくなりつつ、手の中にあるデジカメを差し出した。
「写真、見てみる? っていっても、昔の写真しか残ってないんだけど」
「わあ、いいんですか?」
昔の写真が表示されたカメラを受け取った舞衣さんは、カチカチとボタンを押して写真を流し見ていく。自分の昔の写真がこうして誰かの目に入っているのが、なんだかこっぱずかしくてたまらなかった。
「恥ずかしいな、これ高校の時に撮った写真のカードいれっぱなしなんだよ」
「いいじゃないですか、思い出、って感じで。前に言ってましたが、確かに人の写真が多いんですね」
「うん。みんなが楽しそうにしてるのが好きでさ」
サクや、愁や、両親。色んな人の写真が流れていく。ああ、よくこれだけ撮ったもんだと自分で思う。
ふと、舞衣さんがボタンを押す手が止まった。液晶画面に表示されていたのは——あの、桜の景色だった。
「……この写真は? 凄く綺麗で、素敵ですね」
「ああ、これは」
人の写真が多い中でたった一枚、風景だけの写真。確かに珍しいだろう、舞衣さんがきょとんとして尋ねてきた。なぜ、どうしてこの写真があるのか。説明するのは、難しかった。
「……大事な友達からのプレゼント、かな」
ハルキが、オレにだけ教えてくれた、特別な景色。プレゼント、と言っても間違いではないだろう。ハルキの写真は全て消えても、この桜の景色だけは残った。運命というか、皮肉というか。
「お友達、ですか。その方の写真はないんですか?」
「あー、ない、というか、消したというか、消されたというか……」
苦笑いしつつ、視線を上にさ迷わせる。嘘は言ってない。自分で消したものもあるが、半分以上はサクが強制的に消したのだ。友達の写真を自分で全部消した、なんて言ったらあまりにも不自然が過ぎる。若干の誤魔化しを入れはしたけど、やはり気まずさは隠しきれていなかったようで。舞衣さんはおずおずと、でも直球で尋ねてきた。
「……その人と何か、あったんですか?」
ああ、女の人って鋭い、と思う。いや、自分が隠すのが下手なだけか。
「ええと、喧嘩別れ……というか、オレの方から一方的に切ったんだ。色々あって、海外留学する形で連絡とれなくした」
自分で言って、自分で情けなくなってしまう。オレ一人で熱くなって、オレ一人で勝手にしょぼくれて。バカみたいだなあ、なんて思うけれど、当時はそれだけしんどかったんだから仕方ない。
「そしたら今年、偶然仕事の場所で会っちゃってさあ。また……元に戻りたい、って言われて。どうしたもんか、ちょっと悩んでるんだ」
まさか相手が男で交際相手だった、なんて話を言うのはちょっと憚られて、どうにか言葉を濁しつつコトの顛末を伝えた。たかだかそんなこと、と言われるだろうなあと思って、苦笑いする。
ところが、予想に反して飛んできたのは、もっと別の言葉だった。
「和兎さん、結構ガンコなタイプですか?」
「えっ」
——頑固。言われたことがないワケではないけど、一応こっちだって社会人なわけで、面と向かって言われることはそう多くない。
絶句するオレを覗き込む舞衣さんは、三つも年下のはずなのに、まるで母か姉かというくらい大人っぽく微笑んでいた。
「それって、偶に見かける『振り上げたこぶしをどうしていいか分からない』っていう人と同じな気がします」
「……コドモ、ってこと?」
「いいえ。大人にだっていますよ。ただガンコで融通が利かないだけ」
きっぱり言い切られてしまって苦笑した。それは褒められているのだろうか。どちらかというと貶されているような気がする。反応に困って、笑えばいいのか怒ればいいのかも分からない。だが、舞衣さん側として悪意があるわけではないのだろう。その表情は穏やかなままだ。
「どうしたらいいのか。どうすればいいのか。一回こうしたし、ああしたし。そう思うこともあるでしょうけど。——でもきっと、大事なのってそこじゃないんです。
大事なのは、今なんじゃないかって。移り変わる環境の中で、揺れ動く気持ちの中で、今自分がどうありたいか——そこ、なんじゃないかなって、思うんです」
まるで何かを願うような、何かを後悔するように微笑む舞衣さんの言葉は、どこか重い。彼女も、何か迷うことがあったのだろうか。
「凄くさっくり言えば、切り替え、なんですかね。まあ、そんな上手いこと気持ちが切り替えられたら、人生苦労することないでしょうけど。ただ、私も、そう思うことがあって」
「舞衣さんも?」
やはり、彼女も何か悩むことがあったらしい。これだけ達観した考えを持った彼女でも、そんな後悔をすることがあるとはあまり思えなかった。何か大きなことが、と思っていたら、存外可愛らしい答えが返ってきた。
「……お兄ちゃんと、大げんかしちゃって」
「……ほう、お兄さん」
変な方向に驚いたせいで、ちょっとすっとぼけたような声が出てしまった。ヤバいかと思って冷や汗をかきかけたけれど、舞衣さんは特に気を悪くすることなく、そのまま言葉を続けた。
「ずっとお兄ちゃんと、喧嘩したままなんです。お兄ちゃんは家を出てるから、会うこともあんまりなくて。たまに会っても、気まずいままで。早く、前みたいに話したいのに。
……だから、気持ち、わかるなあって。和兎さんには、私みたいな後悔を長引かせてほしくないなあって、思ったんです」
そこまで話して、舞衣さんは大きく伸びをする。話しきって満足したのかもしれない。初めて会った時や、先ほどの懺悔するような表情とは打って変わって、晴れやかな笑みを浮かべていた。
舞衣さんはこちらを振り返って、にこりと笑う。
「じゃあ、私はこれで。和兎さん。——お互い、後悔しないようにしましょうね」
「後悔、か……」
カメラを持ちながら、ぼうっと晴れた空を見上げる。
彼女の去り際の言葉は、きっと自分自身にも言っていたのだろう。カメラ趣味で出会ったとも言える彼女だが、別の点でも似ていた、ということか。
空にカメラを向けて、構える。被写体らしい被写体のない真っ青な空が、液晶画面に映った。
なんとなくシャッターをきると、パシャリ、という可愛らしい音が鳴る。ああ、久しぶりに聞いた。この音が鳴る瞬間が、いつも楽しかった。好きな光景を切り取るこの瞬間が、堪らなかった。
カメラを下ろして液晶画面を見れば、見上げたままの青い空が写っている。上手く撮れた——かどうかはよく分からない。結局は、ただの空の写真である。
どうせ練習だし、と消そうとして、その手を止めた。
いいな、と思った。キレイだと思った。空を見上げて、青くて、撮った。その気持ちを、すぐになかったことにはしたくなかった。
——お互いに、後悔しないようにしましょうね。
先ほどの言葉が、脳内で再び再生される。ああ、そうか。こういうことなのかもしれない。
今、感じた気持ち。思ったこと。
それを大事にしたい、ってことなんだ。
それが正解なのかは、分からないけれど。
気持ちを大事にする、という意味は、少しわかった気がする。
青い空の映った液晶を、するりと撫でる。
真っ青なそれは、やっぱり、清々しいほどにうつくしかった。