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第15話 レンズを通した世界の記録

「カズト」

「はい」

「集中しろ。今は仕事の時間だ」

「わかってらい……」

「分かってんなら手動かせ、この給料ドロボウ」

「…………」

 サクの言うことはもっともである。仕事中なんだから仕事に集中しなければならない。当たり前でしかないんだけれど、気がそぞろになってしまうことも許してほしい——とも思ってしまう。

 ふとした瞬間、心ここにあらず、になってしまう。きっかけは、数日前の出来事にあることは分かっていた。

 突然告げられた龍太郎の言葉が発端ではあるのだが、これを『龍太郎のせい』とするのはまた違うだろう。

 四年は、長い。それだけ共に過ごせば、龍太郎の性格だってそれなりに把握してくる。

 龍太郎は、ただ自分のわがままで交際相手に別れを切り出すような男じゃない。

 結局、交際相手だった月島カズトという——つまりオレを慮ってのことなのだ。

 少し手を動かしては、小さく溜息を吐く。ずっとこの繰り返し。

 気を遣わせてしまったことへの罪悪感と自己嫌悪で思考は鈍るわ仕事は手につかないわ、あまりにグダグダである。

 向こうの机から、サクが大きく深く溜息を吐くのが聞こえた。

「……カズト」

「なんだよ、うわっ」

 顔面に思い切り何かが飛んできて、激突寸前で慌てて受け取る。細長いそれは、二人の生活費をまとめている財布だった。

「なんだよいきなり!」

「なんも仕事が手につかないなら、せめて雑用してくれよ社長。今日の晩飯買ってこい」

「買い物は今日はサクが当番じゃん!」

「一応聞くぞ、カズト。この働きぶりの差で文句あんの?」

「……ないです」

 両手を上げて降参のポーズをすると、フン、と鼻を鳴らしてまたサクはパソコンに向き直ってしまった。

 今日、まったく仕事が出来ていない自覚はある。この状況で仕事量を引き合いに出されたら、こちらに勝つ術はない。早々に勝つことを諦めて——そもそも勝てたことはほとんどないのだけれど——投げつけられた財布を持って、近所のスーパーへと向かった。



 両手に白いビニール袋をぶら下げて、とぼとぼと道を歩いていく。

 二つの袋には、とんでもない量の食糧や日用品が入っている。まだそれなりに食べる男二人暮らし、買っても買っても食料は足りない。ほぼ毎日買い物をしているはずなのに、手の中の重みは減らないままだ。

「えーと、野菜買った、肉買った、それから……サクのやつ、米と味噌は別の日に買えっての。重いんだよ」

 歩きながらも、買わなくてはならなかったものを思い出しながら、買い逃しがないかどうか確認していく。

 前方不注意になったせいだろうか。袋を持っていた左手側が、誰かとドンとぶつかった感覚がした。

「きゃっ」

「す、すみません!」

 顔を上げると、目の前で尻もちをついたのは小柄な女性だった。慌てて駆けよって覗き込めば、少し幼い顔立ちが目に入る。もしかすると学生くらいの歳なのかもしれない。

「大丈夫ですか?! 怪我、してませんか!」

「だ、だいじょうぶです……」

 ちらりと彼女の全身を見てみるが、確かに大きな怪我は見当たらなかった。出血している様子もない。ホッと安堵して手を差し伸べると、おずおずとその手をとってくれる。立ち上がった彼女は軽く自身の服を払ってみせてくれた。特に汚れたり破れたりしている感じもなさそうで、こちらも安心する。

「怪我、本当に大丈夫ですか?」

「ええ、尻もちをついただけです。それにもともと、お声をかけようと思って近づいた私が悪いので……」

「声を? オレに?」

「はい」

 おっと……? と内心身構える。雲行きが怪しくなってきた、と思ってしまったことは許してほしい。少し前に、似た状況を経験してしまっているのだから。これでもしオレの名前を知っていたりしたら、あの朝日子さんの再来だと思っただろう。

 しかし、彼女は手元から小さく折りたたまれた地図のコピーを取り出した。赤い丸がつけられているそれは、明らかのこの近所のものだ。

「こちらのお店に行きたくて……場所、分かりますか?」

「これは……もしかして、カメラの?」

 赤い丸で囲まれた地図のポイントには、覚えがある。このあたりにある、カメラを取り扱う店だ。カメラの、という言葉を出した途端に、彼女は目に見えて安心したように口元を綻ばせた。

「ええ、そうですカメラの。私、写真が趣味で。ここのカメラショップに、最近どうしても欲しい機種が入荷されたと聞いたので……」

「へえ、いいなあ! オレも昔写真撮るのが好きでさ。カメラショップとか見るとつい目が行っちゃう……ンデスヨ」

慌ててとってつけたような敬語を話すと、女性は軽く吹き出して笑った。その笑い方も、どことなく上品というか、可愛らしい。

「無理に敬語で話さなくていいですよ。私の方が年下でしょうし」

「そうかな? オレ、結構童顔でさ。年下に見られるんだ。今、23」

「私、丁度ハタチです。やっぱり私の方が年下ですね」

 そういって微笑む姿は、小柄で可愛らしい容姿とはうってかわって、むしろお姉さん、という感じだ。学生さんくらいかな、という年齢の予測は当たったけれど、その印象はだいぶ違う。話し方がしっかりしていて、年相応というか、よくできた子だなって感じがした。

「それで、ええと、ここのカメラショップまでの道を伺ってもいいですか?」

「うーん、ここなあ……」

 地図を片手に、オレがつい言い淀んだのには理由がある。ここに数年住んでいればいいけれど、そうでない人にとってここに行くまでの裏路地は正直分かりづらい。入り組んだ道だけでなく、途中にある五差路あたりなんてどう説明したものか。

「スマートフォンのマップで行こうとしたんですけど、道が入り組んでいて、今自分がどこにいるか上手く表示されないんですよね……」

「あー、わかる。しかもここ住宅街で、目印の建物ってほぼないもんなあ」

 腕に引っ掛けた白いビニール袋を見て、うーんと考え込む。味噌と米はかなり重いが、これでも男だ。道案内する間くらいは、なんてことない。それに帰り道からはあまり離れてはいないから、ついでだ。

地図を返して、置いていたビニール袋を手に取る。そのまま、今から帰る道を指さして行った。

「良かったら、オレ案内するよ。こっちこっち」

「えっ、いやいいですよ!申し訳ないので…!」

「家までの帰り道のついでだから大丈夫。オレも久々にカメラ見てみたいし」

 そこまで喋った後に、ふと我に返る。これではまるで質の悪いナンパみたいじゃなかろうか。引かれたらどうしよう。内心冷や汗をダラダラとかきはじめたところで、彼女はふふっと吹きだした。

「分かりました。では、すみません、ぜひよろしくお願いします」



 そこから十分ほど歩いてたどり着いたカメラショップのショーウィンドウで、彼女は目を輝かせた。

「わあ! 色々ありますね…!」

「ここ、辺鄙な場所にあるくせに品ぞろえはいいんだよなあ。最近は写真撮りにいけないからオレは買えないけど、やっぱりたまにチラッと見ちゃうんだよなあ」

「写真はずっと趣味だったんですか?」

「うん。中学から高校までずっと写真部。つっても、オレはあんまり才能なくて。撮りたいものを撮る、って感じだったなあ」

 貰ったカメラと、それを持って色んなものを撮った日々は忘れない。オレは人間多め、サクは風景多めに撮影していた。好きだなって思ったものを、それぞれたくさん撮っていった。そういえば、まだメモリーカードは捨てていないはずだ。懐かしいものをしまいこんでいる、家の中の引き出しの中をふと思い出した。

「そうなんですね。私も、そんな感じかもしれません。撮りたい景色を、残しておきたいなあと思ったから」

ショーウィンドウを眺める彼女の口調はなんだか悲しげで、その表情もなんだか少し切なそうに見える。

 残したい景色。その気持ちは分からなくもない。

 中学と高校のあの日々の光景は、残したい、と思えるほどに美しいものだった。

「いいんじゃないかな、好きな景色のために道具をそろえるの、楽しいし。オレは写真部でもずっとデジカメだったんだよ。しかも双子の兄貴とおんなじやつ」

「双子?」

「オレ、双子の兄貴がいるんだ。オレと顔も身長も同じなのに、性格と頭の良さは全然ちげーの」

 朝、そもそも自分が仕事に集中出来なかったせいで、その兄に家を追い出されたことを思い出した。仲が悪いか、と言われたら、そういうわけではない。けれど、色々と正反対なのは確かだ。

「オレ達がまだ小学生の時に、父さんのおさがりのカメラで写真を撮り始めてさ。二人でちょっとハマって。そしたら、父さんが二人のために、って、それぞれのためのデジカメを買ってくれたんだ」

 中学に上がった後、貰った誕生日プレゼント。赤と青のストラップがつけられたソレを見た時の感動ったらなかった。今でも、よく覚えている。

 そりゃあ、一眼レフやらミラーレスやらが幅をきかせる写真界隈で、デジカメは性能で劣ることが多い。

 それでも、一台のカメラを一緒に使っていた二人からすれば、違う色のストラップがついた二台のデジカメは、なによりも嬉しいプレゼントだった。

「それから、二人でいっぱい写真とったよ。オレは人の写真が多くて、双子の兄貴は風景写真が多くてさ。色んな景色を撮るのがたのしかったなあ。そういえばええと……おねーさんは、どんな写真とるの? それによって選ぶカメラも変わるよな」

 懐かしくなって、思わずたくさん喋ってしまい、慌てて彼女にも話しをふる。名前を知らないものだから、おねーさん、と雑な呼び方をしてしまってちょっと焦る。失礼かなと思ったけれど、彼女は笑みを零しながら答えてくれた。

「舞衣、っていいます。私は、身の回りにあるものとかが多いですね。ふとした瞬間の景色を撮るのが好きで。だから、あんまり高性能なものを選ぶんじゃなくて、普段使いしやすいものがいいなあと思ってます」

——あれ?と思ったけれど、その言葉に覚えた違和感に、オレは名前をつけられなかった。

 カメラ仲間と知り合えて、ちょっと嬉しくなる。、またカメラを触るのもいいな、なんて思いつつ、今更ながらオレも名乗っておいた。

「オレ、月島和兎。せっかくこの店まで来たんだし、いいカメラ見つかるといいな」




「遅い!!!」

「ごめんって!ちょっと道案内してたんだよ!」

「またそういう理由か、このお人よし!!」

「いいことしたんだからいーじゃん! 第一、サクが米と味噌を同時にメモに書くもんだからすげー重かったんだからな!!」

「仕事に集中してねーのが悪いんだろうがよ社長!」

「それはぐうの音も出ない!ごめん!」

 自分に非がある部分を責められてはそこは弁解のしようもない。大人しく降参した。

 この片付けが終わったら、また仕事に戻らなくてはならない。今度こそ集中しなきゃなあ、なんて考えながらビニール袋の中身を片付け始めたオレを見て、サクは溜め息を吐きながらPCに向き直った。

「ったく、本当に油断も隙もねえな……」

「たまにはこういうこともあるって。ああそうだ、サク。あのデジカメ、覚えてるか?」

 あの、という言葉をつけたが、そんな単語をつけなくたってサクには通じる。怪訝な顔をして聞き返してきた。

「忘れるわけねーじゃん。なんだよ、壊したのか?」

「いや、そういうんじゃなくて。今日道に迷ってた女の人、カメラショップを探しててさ。ほら、あの裏手にあるやつ」

「あー……そういう。そういえばオレも、しばらく使ってねえなあ」

 色々と忙しくなり、カメラを触れなくなったのはオレだけじゃない。ぼんやりとカメラのことを思い出すサクの目は、ちょっと輝いているように見える。サクもやっぱり、写真を撮るのは好きなのだ。

 オレとサクの撮った写真は、月島の家に何枚か飾ってある。色々飾ってもらったなあと、今まで撮った写真の数々を思い出した。そういえば、サクはずっと同じ写真を机の上に飾っていたことがあった。

「サク、あの時の写真、好きだったよな。ススキ野原で撮ったやつ。今も飾ってんの?」

「風景の方が撮るの楽なんだよ。あの写真は引っ越しでどっかやった。つーか、カズトこそ人ばっかで……あー、いいや、なんでもねえ」

「なんでそこで黙るんだよ?!」

「うっせえ」

 お互いに懐かしくなって、あれを撮った、これを撮った、なんて話をした。あんまりにも熱が入ってしまって、結局「分かったから早く仕事しろ!」ってサクに怒られてしまった。話が盛り上がった原因はサクにもあるはずなのに、なんだか解せない。



 そんなバタバタの一日も、気づけば終わって。

 ベッドに倒れこむ寸前で、ふとカメラの存在を思い出した。すぐにでも寝たいけど、思い立ってしまったものだから忘れることも出来ず。

 よいしょと重い腰を上げて、普段はあまり使っていない引き出しを開けると、見慣れた四角いフォルムが顔を出した。

 サクとおそろいで持っていて、ずっと大切に使っていたデジタルカメラ。丸いボタンを押して電源を入れれば、予想に反して画面に光が灯った。とっくに充電は切れたと思っていたけれど、意外ともつものだ。

 しかし、画面右下の充電マークは赤く点滅している。流石に充電はほとんど残ってないらしい。

 最後に撮ったのはいつで、どんなものを撮っていただろうか。一緒にとっておいたSDカードのうち一枚を差し込み、出てきた画像をカチカチとボタンを押して見ていく。たまたま選んだSDカードの中身は、高校生の時に撮ったものだった。

 高校の校舎、愁、サク、先生……懐かしいものが色々と飛び出してくる。

 少し探してしまいがちになるアイツの姿は、ここには映っていない。アメリカに渡った時に、ほとんどの画像は処分してしまったからだ。アイツの映っていないものとはいえ、このSDカードが残っていたことが奇跡かもしれない。

「……あ」

 ふと見えた一枚に、手が止まる。

 住宅街の、家の隙間から見えた、美しい桜の樹。高いところから撮って、向こう側の桜と川が綺麗に映っている。

 人を撮りたがるオレにとって、風景だけの写真は珍しい。でもこの写真は、人が写っていないというのに、人の姿がしっかりと脳裏に浮かんでしまった。

——これは、ハルキに教えてもらった場所の写真だ。

 高校一年生、入学してすぐの時。

 ハルキが教えてくれた、秘密の場所。オレ以外の人に教えようとしたら、アイツはちょっと嫌そうに顔を顰めたことを覚えている。

 オレ以外に知られたらいやなんだ、なんて、当時は笑ってしまったけれど。

——今ならわかる。あの時にはもう、ハルキはオレのことを見ていてくれたんだ。


 ハルキの隣に並ぶ勇気は、まだない。そもそも、そんな権利は自分にはないと思っている。

 生まれた世界が違う。生きる世界が違う。隣に並んで、ハルキのためになるとは到底思えない。

あいつの幸せのために、そしてオレ自身のために、オレはあの手を振り払った。

しかし、龍太郎の言葉を、思い出す。

『お前がお前らしく笑っていられるように、したいんだ』

 あの桜を撮った時は。きっと、心から笑っていた。

 オレがいて。愁がいて。サクがいて。——ハルキがいて。

 心から笑っていられた、その大きなピース《要因》の一つは、間違いなくハルキだった。


「……会っても、いいのかな」


 桜の写真に指で触れる。その時、ぴぴ、と軽い音をたててカメラの液晶画面の光が消えた。つまり、充電切れだ。

 見えなくなった桜の風景。

 もう一度、手を伸ばしても、許されるんだろうか。

 もう一度、ちゃんと話をするくらい、望んだっていいのだろうか。


 そう思って、息をのんで。

 カメラの電池を、充電アダプタに差し込んだ。



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