忘れもしない、あのアメリカでの出会い。今にも泣き出してしまいそうな顔に、胸が痛んだ。
にかりと笑った顔が、晴れ渡った空のように清々しい子だった。人のことを思いやれる、優しい子だと知った。
危うくて、儚いような気さえした彼を、放っておけなくて。
笑ってほしくて。支えてやりたくて。——隣に居たいと、思った。
その結果の交際だった。和兎がだんだんと自然な笑顔を取り戻していくのが、嬉しかった。
和兎が、かつて付き合った男を忘れられていないのは、とうに気づいていた。だからこの形になる未来を、予想していなかったわけではない。覚悟をしていなかったわけではない。
しかし、やはり少し——胸が苦しかった。
自身のスマートフォンを取り出して、ある番号へと電話をかける。あまり使った連絡先ではないが、アメリカに居たころから登録だけはしてあった。少しだけ迷って、発信ボタンをタップする。
3コールほどで通話に出た声は、つい先ほどまで会話していた声とほとんど一緒だった。
『なんだよ、龍太郎。お前からコッチに電話してくるの、珍しいな』
「ああ。朔に用があったもんで、ちょっとな」
電話の向こうにいる朔は、不満そうな声を遠慮なく投げかけてくる。その声ですら、和兎の声を思い出してしまう自分に、思わず苦笑した。
『……龍太郎?』
「お前には、伝えておこうと思って」
『……』
俺がそう言うと、朔は不自然に静かになった。もっと色々言ってきそうなはずの朔が黙りこくるのは、何か雰囲気を察しているのかもしれない。
次の言葉を待ってくれている朔に、本題を告げるため。重い口を開いた。
「別れることにしたんだ。俺と、和兎」
『……あのなあ』
大きなため息の後に、通話の向こうから不満そうな声が飛んでくる。朔の声色からは、隠そうともしない呆れと怒りが半々に滲んでいた。
『粘ってくれって言っただろうが。諦めんのはええよ』
「諦めたわけじゃないさ。かっこつけだよ。」
『同じだバカ!』
バカとは失礼な、と言いかけて、あまり否定できないことに気づいて、言葉を飲み込む。
もう少し粘っても良かったのかもしれない。もっと自分を見てくれと。アイツなんて見なくていいんだと。そういう態度をとってもよかったのかもしれない。
だが、出来なかった。それが和兎のためにならないと、分かってしまっていたからだ。
『このお人よし』
「……いいや、違う。臆病なだけさ」
はあーー、と大きなため息が、また通話の向こうから聞こえた。
ここで全力で詰りにいったりしないあたりが、朔の人柄を表している。普段は口が悪ければ性格も悪い、と思われるような行動ばかりをとるが、この双子の片割れはきちんと状況を見ているし、人の感情の機微にも敏い。今はそういうタイミングではないと、分かっている。逆に言えば気を遣われている、ということなのだけれど。今はその気遣いを素直に受け入れたい気持ちだった。
「それを言うなら朔、君もお人よしだな」
『うるせえよ。突然褒めんな、きもちわりい』
「はいはい」
褒めた途端に一転して暴言が飛び出す。そういうところが、朔らしい。
通話の向こうで、なあ、と朔が声を上げた。
『一応聞かせろよ』
「何をだ」
『お前、カズトのどこに惚れてたわけ。そんな簡単に気持ちの整理が出来る程度のもんじゃねーだろ』
その質問に、そういえば聞かれたことが今までなかったことに気づいた。付き合っていた双子の兄に聞かれる話としては、まあなくもないだろう。
あの日、アメリカで和兎と会った時のことを思い出す。泣きそうな顔と、一転して笑った顔。
コロコロと変わる表情に、惹かれてしまった時のこと。
支えたいと、願ってしまった時のこと。
「……なんだろうな。元カレと別れたばかりだったから、か。なんだか、その姿が危ういというか、儚く見えたんだ
会ったばかりの俺に、あれだけ好意的に接してくれて。その笑顔の眩しさと、和兎自身の儚さが、どうも脆そうに見えて。支えてやりたいと、思ったんだ。
……そのカズトが、俺と一緒に居るよりも、いい顔をするようになった気がしてな」
陽輝と再会した後の、和兎の表情を思い出す。
本人は「あいつとはもう何もない」なんて言っていたが、あの表情を見てそれを願うやつはいないだろう。
もっと笑っていてほしい。幸せでいてほしい。その結果が、これだった。
「俺がその顔をさせてやりたいのはやまやまだったけど。あいつが、あんな良い顔が出来るなら、その方がいいと思ったんだ」
『やっぱり結局お人よしなんじゃねえか』
「そうかもな」
否定するのも面倒になって、そう言って笑ってしまった。
はあ、と朔が溜め息を吐くのが聞こえる。
『一気に連絡断ったりなんかしたら、カズトのやつ泣くだろうからな。ちゃんとトモダチとして仲良くしてやってくれよ』
「ああ。朔、お前も同じだよ」
『は?』
「お前とも、今後ちゃんと関係は続けていくつもりだからな。立派な友人の一人だろう?」
電話の向こうから、少しだけ困惑している様子が伝わってきた。誰にでも一歩引いて俯瞰で見ているような朔が本気で戸惑う様子は珍しく、してやったり、と思う。通話越しなのが勿体ない。今度はぜひ対面で見てみたいものだ。
『……好きにしろよ。俺は家庭菜園のおぼっちゃんって感じで思っとくから』
「随分偏ってないか?」
『事実だろ。じゃあな』
挨拶をすることもなく、途端に通話が切れる。スマホの向こうから聞こえる音が、ツー、ツー、という機械音に切り替わった。
問答無用で切られた通話に、腹が立つことはなかった。
四年は、長い。胸の中にぽっかりと穴があいたような気持ちがあるのは、確かだ。
しかし、どこか『あるべき形に戻った』ような気もした。
今までが、歪だったのかもしれない。
歪でも、いいのだろう。お互いが手をとって、幸せでいられるなら、それで。
しかし、和兎が心から笑える居場所があるのならば。
この手は放すべきだと、思った。
喪失感と、少しの満足感。
相反する気持ちが胸の中でふわりと動いた。
——まあ、あっちが上手くいかないのであれば、話は変わってくるわけだが。
帰り道、雲がちらつく青空を見上げながら。
そんな、ほんの少しだけひねくれたことを考えた。