「ほら、呼び出し代だ」
「ああ、ありがと。それはいいけど、どうしたんだよ、龍太郎」
公園のベンチに座るオレに、龍太郎は冷えたカフェオレの入ったカップを渡してくる。すぐ近くのコンビニで売っているそれは、オレの好物だ。少し暑さが目立ってきたこの時期、冷たい飲み物はありがたい。両手で受け取れば、龍太郎はにこりと笑って自分用の缶コーヒーを開けた。近所の公園とはいえ、晴れた空の下だし、ちょっとしたデートみたいだ。
久しぶりの仕事休み。突然オレたち双子の家、兼事務所にやってきた龍太郎は、オレに話があるということで外に連れ出してきた。そのまま公園までやってきたけど、龍太郎はまだ呼び出した理由を言わない。
オレだけを連れ出した、ということはサクに聞かれたくない話、なのだろうか。
そのくらいの予想はつくけれど、心あたりはさっぱりない。怪訝に思いながらカフェオレに口をつけていると、近くの家からピアノの音が聞こえてきた。この公園は住宅地の一角なので、周りには団地もアパートも一軒家もたくさんある。どこか近くの家で誰かがピアノの練習をしているのだろう。子供が弾いているのか、時々間違える音色がなんだか可愛らしかった。
「そういえば、こんな日だったな」
「え?」
「俺とお前が初めて会った時だ。」
「ああ、セントラルパークの」
色々あって、アメリカに留学した時。セントラルパークのコンサート会場前で、龍太郎に声をかけられたのが出会いのきっかけだった。
あの時はハルキと別れた——というか、こちらから一方的に逃げた直後で、メンタルが安定していなかった自覚がある。龍太郎と知り合えたことで、どれだけ救われたか。今でも頭が上がらない。
当時のことを思い出して、懐かしさでつい頬が緩む。
「びっくりしたなあ。突然声をかけられてさ」
「日本語で話しかけたのに、つたない英語で返してきたときは笑ったよ」
「忘れろよ!!頼むから!!」
掘り返された黒歴史に声を荒げたら、龍太郎は声を上げて笑った。人の必死の行動を笑うとはなんてヤツだ。まあ、オレでも多分笑うと思うけど。
龍太郎も当時のことを思い出しているのか、懐かしそうに眼を細めて言った。
「あの時は、お前があんまりにも辛そうな顔をしていたからな」
「……そんなにオレ、酷い顔してた?」
「そんなに、だ」
視線を合わせて真面目にそう言われると、色んな意味で恥ずかしさと申し訳なさがぽわぽわと湧いてくる。
それだけ気を遣わせてしまっていたことに、今更ながら『ごめん』と言いたくなってしまいそうだった。
戸惑ったままのオレの頬に、龍太郎が触れる。労わるような指先は、酷く優しかった。
「今は、ちゃんと笑えるようになって。本当によかったよ」
「変なの。それは龍太郎が居てくれたからじゃん」
「……そうか」
龍太郎は少し息を詰めて、嬉しそうに微笑んだ。
吐き出される言葉にいつもよりも覇気がない気がする。少し震えているような気さえするのは、気のせいだろうか。
下ろされた龍太郎の手は、コーヒー缶をするりと撫でる。そういえばアメリカでも、龍太郎はコーヒー缶を飲んでいたっけ。色々と懐かしい気持ちになった。今日は、なんだか懐かしんでばっかりだ。
青い空を見上げて、龍太郎は呟いた。
「それが聞けたから、十分だ」
「……何が?」
その発言の意図が分からず、思わず首を傾げる。龍太郎は、オレの問いに返事をしなかった。
ふいに立ち上がった龍太郎は、もう一口だけコーヒーを流し込んで、すぐそばのゴミ箱に丁寧に缶を放り投げた。そんな姿でも絵になるなあ、なんて眺めているオレに。龍太郎は、いつもの笑顔で告げた。
「別れよう、和兎」
「……は?」
「もう、俺たちはこういう関係じゃない方がいい」
「な、んで」
あまりに突然の話で、茫然としてしまった。だって唐突すぎるだろ。
言いたいことも聞きたいことも山ほどある。急にどうして、とか、きっかけとか、色々。
しかし、次の龍太郎の言葉で、全部吹っ飛んでしまった。
「和兎。……わかってるだろう?」
そう言って笑う龍太郎に、オレは、何も言えなかった。
——分かっているだろう。龍太郎のその言葉が何を指しているのか分からないほど、オレだって鈍感じゃない。
ハルキとの再会。それが、オレと龍太郎にとってどんな影響をもたらしたのか。もたらして、しまったのか。
ハルキと再会したパーティの夜。公園での告白。偶然、龍太郎がハルキと鉢合わせした日。婚約自体がほとんど誤解なのだと知らされた日。
今まで適当に積み重ねて、それっぽくしていただけのパズルの面を、片っ端から崩されていく感覚だった。
ここが違うんですよ、ここに新しいピースがあるんですよ、置いておきますね——そういう感じ。
正しい絵柄は、そうなのかもしれない。それはそれでいいと思う。
——でも、それなら。
今まで作り上げていた絵柄は、どうなってしまうのか。
新しいピースが来たら。本来の絵柄がわかってしまったら。
今まで作り上げて、大事にしていた絵柄は。なくなってしまうんじゃないか。
分かっていた。このままではいられないってことくらい。
それでも、考えるのが怖くて。声に出すことが、怖くて。どうしていいか分からなくて。
新しいピースも、それを見つけた自分自身の気持ちも。見て見ぬフリをしていたんだ。
「和兎に惹かれたのは事実だ。その上で、俺は、ただお前に笑っていて欲しいと思ったんだ。
……もう、俺がいなくても大丈夫さ」
「そんなことない、だって」
慌てて龍太郎のシャツを掴んで、どうにか声を絞り出す。
——四年だ。ハルキと別れて。アメリカに留学して。
出会って。手を取り合って。
その四年間は、決して軽くはない。
確かに、オレの中でハルキの存在は大きい。けれど、龍太郎の存在だって大きいんだ。
なんでそれがわからない。なんでそれが伝わらない。
唇を震わせているうちに、龍太郎がシャツを掴むオレの手に触れる。優しく解かれたそれは、つまりは、やんわりとした拒絶だ。
「別に、二度と会わないってわけじゃない。電話もメールも通じるし、連絡があればいつだって駆けつける。友人、というのは、そういうものだろう?」
——友人。
そう言い切られて、胸が苦しくなる。
「……そんな顔、しないでくれ。俺は、和兎に笑っていてほしいんだ」
ハルキを大切に想っている気持ちは、きっと消えないけれど。
龍太郎のことも、大事に想っている。
どうして伝わらないんだろう。……いや、伝わっているのか。だからこそ、龍太郎は離れていくんだろうか。
——こういう気持ちが、失礼なのかもしれない。ふらふらと、どっちつかずの曖昧なことばかり。
そうか、だから龍太郎も、嫌になったのかな。
オレの考えてることなんてお見通しなんだろう。龍太郎は苦笑して言った。
「愛想をつかしたとか、嫌いになったとか、そういうのじゃない。
和兎のことが大事なんだ。
大事だからこそ——お前がお前らしく笑っていられるように、したいんだよ」
龍太郎の言葉が、胸の中に重く積もっていく。頭の中がぐるぐるして。何も考えられなかった。
分からないことは沢山ある。聞きたいことも、沢山ある。でもただ一つだけ。
龍太郎の好意に甘えていたんだってことだけは、再確認できてしまって。胸が、締め付けられるように痛んだ。
苦笑しながら、龍太郎はオレの髪に優しく触れた。
「泣きそうな顔をしないでくれ。……揺らぎそうになる。
俺だって、少しくらい、かっこつけたいんだ」
前髪払うように優しく撫でた龍太郎は、そのままそこに唇で触れた。
やわらかい感覚から、温もりと、優しさが伝わってくる気がして。
泣きそうになった目元を、龍太郎の指が撫でてくれた。
一面の青が、夕焼けの色にかわりつつある空の下で。
龍太郎が立ち去る後ろ姿を、オレは黙って見送るしか出来なかった。
ごめん、と、ありがとうが、口の中で混ざりあって。吐き出せずに消えていく。
好きになってくれてありがとう。
大事に想ってくれてありがとう。
つらい想いをさせてごめん。
一緒に居る道を、諦めさせてごめん。
まだ残っていたはずのカフェオレは、紙パックが倒れて中身が零れだしていた。
重力のまま、茶色い水はゆっくりと地面にしみこんでいく。
コップの中には、残らなかった。