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第11.5話 海の裏側から君を愛す

 海、と書いて、ワタツミ。他に全く見ないこの苗字は、一度見聞きすればなかなか忘れない。

 そんなワタツミの家といえば、それなりの財閥としても一部で有名らしい。一人息子としては、正直なんとも言えない話だ。近寄ってくる大人は汚いヤツが多く、自分もそうなることを望まれているのがよく分かる。子どもの成長する環境としては、良くはないだろう。

 唯一、海財閥の御曹司だった父に嫁いできた側である母は、完全に一般家庭の庶民だった。どうも父親が一目ぼれして押し切ったらしい。母がプロポーズを受ける時に出した条件は『私のご飯くらい私が作る』だったそうだ。どうも使用人任せの生活に耐えられる気がしなかったとか。

 そういった母親を持つものだから、自分で生きる力を身に着けることが大事だと教わってきた。そして、俺自身もそうだと思っている。家の力に頼らず、一人で生きる力をつけたかった。だから、色んなことに手を出してきた。経験は力なり。まずは何事もやってみる、というスタンスで生きてきた。

 母が味方についてくれていたおかげで、父も家の人も、俺が色んな経験を積むことを止めなかった。その中にはどうしても費用のかかるものもあり、こればかりは家を頼った。留学もその一つだ。バイトを少ししているからといって、大学生のバイト代で高額な留学の費用なんて賄えない。学業を疎かにもしたくなかった。

 学生のうちは家を頼るのも仕方ないと、その点は割り切った。逆に言えば、社会人になってから今までの全てを返すくらいの気概でいる。ひっそりと、今まで自分を一人前にするにあたって必要になった経費を、俺なりに計算していたりするのだ。親のすねをかじったままでいたくなかったから、これは俺なりのけじめに必要なことだった。


 さて、そんな決意を抱きながらやってきた留学先は、なんともやはり規格外だった。

 実家が実家なものだから、規格外のものには慣れていると思っていた。家だったり車だったり、変に大きかったり豪華だったりするものは、見かけないこともなかった。

 しかし、国が違えばやはり規格も違うもので。セントラルパークと呼ばれるこの公園だって、とんでもない広さだ。ここで東京ドーム何個分、という単位を想像してしまうあたり、悲しいかな骨の髄まで日本人だ。

 通学コースの一部になっているセントラルパークを歩いていると、ふと、公園の奥から何かの演奏が聞こえてきた。そういえば、この先にあるステージでは、たまに色んな団体がショーをやっていることがある。今日は音楽会か何かがあるようだった。

講義の開始までは、まだ時間はある。別に立ち寄らなくてもいいのだけれど、今日はなんとなく人の流れにのって、そのままステージの方へと進んでみた。

 演奏をしていたのは、一部で有名らしい楽団だった。日本でも耳馴染みのある曲を弾いている。あまり音楽には明るくないが、この曲が有名なものであることくらいは分かる。しかしやはり演奏の良しあしまでは分からない。少し聞いたし、やはり大学に向かうかと方向を変えた時。一人の少年が、ぼうっとその楽団を見つめているのが目に入った。

 顔立ちからして、日本人だろう。このあたりではあまり見かけないから、最近来た子か、それとも観光客か。どちらにせよ、この多国籍の国で日本人を見つけたのだ、つい嬉しく思ってしまうことは許されるだろう。

 だが、気になるのはその表情だった。ぼうっとして、楽団の方を見つめている。音楽に聞き入っている、というよりは、音楽が彼の何かを思い起こしているようにも見えた。

 幼さの残るその顔立ちは、きっと笑ったら可愛らしいのだと想像がつく。そんな彼が、今にも泣きそうな顔で一点を見つめている姿は、こちらまで辛くなってくる気がした。


「音楽に興味があるのか?」


 無意識に、声をかけていた。英語ではなく日本語で声をかけたのは、彼が日本人だと確信していたからではなく、この言葉がまったく意図せず出てしまったものだからだ。

 突然声をかけられて驚いた彼は、地面から数センチ飛び上がりそうな勢いだった。そのまま視線を揺らしつつ返ってきた言葉は、予想の斜め上だった。

「そ、ソーリー! アイキャント……あれ?」

——なんだって?

 面白いくらいに日本語な英語が飛び出して、まず固まってしまった。というか、そもそも日本語で話しかけたのに、なぜ英語のような言葉が返ってくるのか。そう考えると段々とじわじわきてしまって、その場で噴き出してしまった。

「ふ、ふふ……日本語で、いいんだが……」

「う、うっせー! まだ慣れてねえの!」

 まだ、ということは、やはりここに留学にきたばかりの日本人なのだろう。これが観光だったら「まだ」なんて言葉は出てこないはずだ。まだずっと笑ってしまいそうなのをどうにか抑えているうちに、目の前の彼は困惑した表情のまま首を傾げた。

「あんた、日本人……だよな?」

「勿論。突然話しかけて悪いな。日本人に会えたのが嬉しくて、つい」

 自分も日本人であることを伝えると、ぱあ、と彼の顔が明るくなる。その笑顔は可愛らしく、朗らかなもので。ああ、やっぱり。笑った方が可愛いだろうと思っていたんだ。

「オレ、月島カズトだ。あんたは?」

「リョウタロウだ。ワタツミ、龍太郎」

「わたつみ?」

 きょとんとする彼——和兎に、苦笑してみせる。日本に居た時でさえ、『海』なんて苗字は一発で理解されることは少なかった。外国でたまたま遭遇した苗字がコレじゃあ、初耳で理解するのは難しいだろう。空中に人差し指で字を書くようにして、軽く説明はしてみる。

「『海』って書いて、『ワタツミ』って読むんだ。仰々しい苗字だろう?」

「いいじゃん、なんかカッコイイ。龍太郎って、歳いくつ? オレ、十八!」

 おっと、予想外に年上だった。顔立ちと背格好から見て、十五か六か、そのくらいのようにも見えたので少し驚く。

「一応二十歳だ。つまり君は、俺の後輩になるわけだな?」

 ニヤリと笑ってこちらの歳を告げてみれば、あからさまに「ヤバイ」という顔をする。随分と表情が豊かな子だ。

「げっ、す、すみませ……」

「はは、別にいいさ。こんな人種のるつぼで出会えた、同世代の同郷だ。たった二歳差で先輩ヅラもないだろう」

 これは本音だ。ここで出会えた友人たちはみな良いヤツばかりではあったが、やはり日本人同士の安心感は格別に思える。それに何より、月島和兎という人間は、非常に好感が持てる人物だったのが大きかった。

 それから何度も、公園で話をした。短くない留学生活に慣れてきたとはいえ、やはり日本語で会話できるのは嬉しい。気づけば、公園でよく散歩をするという和兎に合わせて、俺もよく公園に足を運ぶようになっていった。


 和兎に出会ってから、少し月日が経った。気づけば、防寒具が必要な季節になっている。和兎の首に巻かれた赤いマフラーの上に、少し赤くなった鼻先が見えていて、そういえば和兎の名前には『うさぎ』が入っていたなあと思い出した。

「やっぱり兎みたいだな」

「……ケンカ売ってる?」

「売ってない売ってない」

——恨めしそうにこちらを見るその表情が可愛らしいと言ったら、和兎はどんな顔をするだろうか。


 そのうち、和兎の双子の兄であるという少年を見かけることが何度かあった。

 確かにまごうことなき双子だろう。和兎とその少年——朔は全く同じ顔の造りをしていた。

 しかし、二人が内面までそっくりかというと、そういうわけではない。和兎と朔は、纏う雰囲気が全く違っていた。

 まるで野良猫のように警戒心を丸出しにする双子の兄と、人懐っこい犬のように満面の笑みを浮かべる和兎。思わず「君の方が可愛らしいな」と和兎に漏らしてしまったのは許して欲しい。


 偶然のような、日課のような出会いが続いた、ある日のこと。和兎がぽつりと尋ねてきた。

「なあ、聞いたんだけど」

「何を?」

「あんた、割といいとこのお坊ちゃんなんだって?」

「双子のお兄さんが調べてくれたのか?」

 即座に聞き返してしまって、内心少し焦った。家のことを聞かれるとは思っていなくて、どうも口調の強い返しになってしまった。家とは良好な関係ではあるから構わないのだが、あまり家のことを聞かれた上で続く話は、良い話ではないことが多かった。条件反射のようなものだ。

 和兎はずっと『海』の家の名前に「かっこいい」以外の反応をしなかった。ということは、おそらく感づいたのは兄である朔の方だろう。

 さて、ここからどう話が続くのか。無意識に身体を強張らせながら、続く和兎の話を聞いていく。

「いいとこの坊ちゃんが、オレなんかと一緒にいていいのかよ」

「それはどういう意味かな」

「そのまんまの意味だよ」

 俺の方を見ずに、何かを思い出すようにそう話す和兎の様子に、なんとなく察しがつく。

 和兎が留学を決めた——もとい、日本から逃げたのは、もしかするとそれが原因なんじゃないか。

 誰かと、一緒に居たかった。しかし、それが許されなかった。あるいは、許されないと思わされた。だから日本から逃げたし、俺みたいな人間を前にして「オレなんかと一緒にいていいのか」なんて発言が出てくる。

 今の和兎の表情は、ステージ前で出会った時の表情と同じだ。胸を痛めた、辛そうな顔色。

 あんなにも人を惹きつけてやまない笑顔を持つ彼が。

 こんなにも悲痛な面持ちをしてしまうことが、信じられなかった。


 正直、想定外だった。

『海』の実家の話を持ち出したうえで、一緒に居ていいのかと聞かれることも。

 和兎の留学の理由も。

——そして、そんな和兎を支えたいと。一緒に居たいと、俺が心から願ってしまっていることも。


「……まず、君の見解には二つ、誤解がある」

 和兎に伝えるために、そして自分の心を整理するために、ひとつひとつ想いを言葉にしていく。

「ひとつ。ワタツミの家は確かに一部で有名かもしれないが、俺は別に跡継ぎじゃない。家はいくつか会社を持ったりしているが、仕事はあくまで実力者が継ぐ。これがウチのやり方だ。

 ふたつ。俺は、一緒に居る人間は自分で決める。環境も、周りの意見も、知ったことじゃない」

 じっと和兎を見て、そう告げた。

 自覚してしまった想いは、言葉となって声に乗る。無意識の緊張で、思考はあまり回っていない。努めていつもと同じ声色で、和兎に問いかけた。

「——なあ、和兎。日本で何があったのかは、俺はまだ知らないけど。よかったら、教えてくれないか」

「……」

 和兎は黙ったまま、視線を伏せて何も語らない。

 困惑と、悲しさと——色んな想いが入り混じったような瞳を、ゆらゆらとさまよわせている。

 そんな顔をさせるつもりはなかった。申し訳ないという気持ちと、それならば、という想いが脳裏を過った。

「いつか、教えてくれたらで構わない。その上で、提案なんだが」

 息を吸って、吐いて、整えて。気持ちをどうにか落ち着かせて。

 和兎の顔を覗き込むようにして、その想いを口にした。


「俺と付き合ってくれないか、和兎。……どうも俺は、君に惚れてしまったらしい」


 驚いた和兎の瞳が、真っすぐにこちらを見つめる。

 その瞳に映るのは、正真正銘、一人しかいないくて。

 ああ、この顔の方がいいなと、思った。


 彼の胸の奥底から、想いの全てをひっくり返すことは不可能で。

 その心は、きっと最後まで俺のものになることは無いだろう。

 それでもよかった。それは、覚悟の上だ。

 ならば、俺は。

 彼が再び笑えるように。

 彼が再び前に進めるように。

 その隣に居たいと思った。


 君を心から愛している。

 だからどうか、辛い顔をせずに、笑ってほしい。

 優しく笑う君の横に、俺が立っていられるなら。

 それはどんなに、幸せなことだろうか。



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