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第10.5話 それはいつも、優しい味がした

 幼いころを思い出しても、俺はあまり両親と居た記憶がない。

 いや、両親が全く傍に居なかったわけではない。ただ、一般的な家族の形とはかけ離れていると感じていた。

 父さんは仕事のことしか頭になく、俺は会食に一緒に行く時に隣に座らされただけだった。

 母さんは俺に、生活する上での必要最低限の知識を教えてはくれた。しかし、甘やかされたり、遊んでもらった記憶はほとんどない。今思えば、あの人はあまり子供の相手は得意じゃなさそうだった。

 その分、まるで家族のように一緒に居てくれたのは、執事の折原さんだった。

 家長である父さんの仕事を手伝いながら家事を回し、その上で当時まだ子供だったオレと、妹に構ってくれた。目の回るような忙しさだったに違いない。それでも、記憶の中の折原さんは疲れた顔ひとつ見せず、いつもニコニコと笑っていた。血は繋がっていなくとも家族だと、家族以上に信頼できる人だと、そう思えた。


 あれは、俺が六歳くらいの時だ。まだ俺と雪子は同じ部屋で寝起きしていた。俺は一人でも構わなかったが、二歳下の妹・雪子を一人で寝かせるわけにもいかなかったのだろう。両親はずっと仕事ばかりで、雪子の寝かしつけなんてしていた記憶はなかった。

 俺のものより小さなベッドで雪子が深く眠っているのを見て、子供部屋の扉をそっと開けた。

 パタン、という扉の音で雪子が起きてこないのを確認して、俺はそろりと下の階へと向かう。

 別にやましいことをするわけじゃない。上手く寝付けなくて、せめて水でも飲もうと思ったのだ。

 それでも、自分のわがままで他の人を起こすわけにはいかない。だからこそ子供ながらに慎重に歩いていたのに、なぜか折原さんにはさっさとバレてしまった。

「おや、ハルキさん」

 階段を下りた先で鉢合わせした折原さんは、いつもより少しだけラフな服を着ていた。きっと仕事中というより、プライベートな時間を過ごしていたのだろう。それもそのはずで、もう時計の短針は真上を指そうとしている時間だった。住み込みで働いているとはいえ、仕事をする時間ではない。

 こそこそと階下まで下りてきたうえに、完全に見つかって固まってしまった俺を見て、折原さんは首を傾げた。

「どうかしましたか、ハルキさん。こんな時間に、何か御用ですか?」

「え、っと……」

 どう答えていいか分からず、言い淀んでしまう。寝れなかったことを言うべきか、夜中に部屋を抜け出したことを謝るべきか。六歳には判断できなかった。そんな時だ。

——突如、ぐう、とそこそこ大きな腹の虫が鳴った。

 何よりも雄弁な空腹の主張が飛び出してしまって、あまりの恥ずかしさに俯いて顔を赤くした。それを見た折原さんは「おや」と膝をついて、俺の顔を覗き込んできた。

「どうやら、おなかが減ってしまったようですね。晩御飯は足りませんでしたか?」

「……カボチャのスープ、雪子にあげたから……」

 これは決して、俺がカボチャを嫌いなわけではない。むしろカボチャは好きな方なのだが、それは幼い妹にとっても大好物だった。

 晩御飯に出されたスープをぺろりと食べ切った妹は、隣にある俺の皿をじっと見つめていた。雪子の更に盛られていたスープもそんなに少なくはなかったが、大好物となれば話は別だろう。もっと食べたい、と思う気持ちは理解できた。

 確かに自分もかぼちゃは好きだけれど、妹がそんなに欲しいなら——と。なんとなく、スープの皿を渡してしまったのだ。

 嬉しそうに満面の笑みで二皿目を食べ切った妹を見て、その時は自分も満足だった。たかだかおかず一皿分だ。この程度なら両親に怒られることもない。妹がしっかり好物を食べられたから、それで一件落着——のはずなのだが、残念ながら胃袋はそうもいかない。

 料理を一品あげてしまった分、どうしても空腹感がいつもより早く襲ってきてしまったのだ。空腹感というのは厄介で、一度実感してしまえば眠気など吹っ飛んでいってしまう。

 ひとたび眠ってしまえば、起きた時に朝ごはんが食べられる。……なんて考えていても、眠れないのだから朝はこない。

 だから、水だけでも飲んで凌ごうとした。しかし見事に折原さんに見つかり、果ては盛大に腹の虫まで聞かれてしまった。自業自得で腹を空かせている姿を見せてしまったのが、更に恥ずかしさを増加させた。

 恥ずかしさやらなにやらで顔をあわあわとさせる俺と、短針がそろそろ真上を超えそうな時計を交互に見て。折原さんは、ふむ、と少し考えこんだ。

「……もうすぐ日付が変わりますね。本当なら、この時間はダメなのですが……」

 折原さんはおもむろに立ち上がると、ちょいちょいと俺に向かって手招きをする。まるでアニメに出てくる泥棒のような仕草で、ちょっと面白い。どこに呼ばれているのか分からなかったけど、折原さんが楽しそうに笑って呼ぶものだから、思わずついていってしまった。


 呼ばれた場所は、とうに清掃して戸締りしたキッチンだった。パチンと折原さんが電気をつけると、真っ暗だったキッチンが明るく照らされる。

 折原さんはコップの入った食器棚ではなく、食材の入った棚の方に歩いていった。空腹の俺を見かねて水をくれるのかと思ったら、どうも違うらしい。

「これは隠してあったものなのですが……内緒ですよ」

 そう言いながら手を消毒し、棚の奥から何かの白い生地を取り出した。それはあまりに大きい団子か、饅頭か。あるいは、まだ焼かれていないパンのようにも見える。

 かと思うと、折原さんはそれを薄く伸ばし始めた。高い台で作業している為あまりよくは見えないが、まるでクッキーの生地を伸ばすような動きに似ているように見えた。

 ある程度薄くなった生地を、今度は折原さんは両手を上手く使い、縦に、横に、ぐるぐると回していった。折原さんの手の中で、白い生地はふわりと浮くようにして平たく、薄くなっていく。白い塊がどんどん形を変えていく様子が、まるで魔法のようだった。

「ハルキさん、そこの棚からお皿を出せますか? 小さめのお皿を一枚だけで結構ですので」

「は、はい!」

 突然の頼まれごとに、慌ててキッチンの端から足台を引き摺り出す。折原さんの指示通り、棚の段の一つから白い皿を取り出した。たまにこっそり料理を見たり、片付けの手伝いのようなことをさせてもらっているので、足台は常備してある。皿がしまってある位置も、ちゃんと覚えていた。

 皿をキッチンのカウンターに置いたところで、ふんわりとチーズの匂いがした気がした。振り向くと、キッチンの隅にある大きな機械の中に、折原さんが先ほどの白い生地を入れているところだった。見ていないうちに、調理のような工程は完了していたらしい。

 機械の扉を閉め、ピ、ピ、と何かの数字をいじっていく折原さんの動きは、それでさえ無駄がない。じいっと見つめていると、それに気づいた折原さんはニコッと笑った。

「数分だけお待ちください。中から面白いものが出てきますよ」

「おもしろい?」

「ええ。ハルキさん、この機械が何か知っていますか?」

「ううん」

 ぶんぶんと首を振る。さすがにキッチンの機械には詳しくないし、今作っている料理が何かも分かっていない。

 折原さんは鈍い音を立てるその機械の端に軽く触れると、何かを懐かしむように頬を緩めた。

「この機械は、本当はこのキッチンにはなかったものなんです。この機械はなかなか高価ですし、作れる料理の種類は限られていますからね。私は昔からこの料理が大好きでしたが、機械がないなら仕方ないと、諦めていたんです。

 ところが、それを知った旦那様が、此処にこの機械を特注して取り付けてくださったのですよ」

「……父さんが?」

 その話は初めて聞いた。俺にとって、父親とはあくまで『そういう存在』というイメージでしかなかった。頭を撫でられたことも、抱きしめられたこともない。そんな父の昔話は、あまりに衝撃的だった。

「ハルキさん。旦那様のことは、嫌いですか?」

「……わかんない」

 これは正直な感想だ。嫌いになるような嫌なことをされたわけではない。ただ、好きになる要素もない。親であることは分かっても、無条件に好意を向けることは出来なかった。それほどまでに、両親とは距離があいてしまっていたのだ。

 折原さんの望んだ答えではなかったかもしれないと、恐る恐る顔を上げた。折原さんはにっこりと笑って、俺の頭を撫でて言った。

「それなら結構ですよ、ハルキさん。

 旦那様も、奥様も。一人の人間です。何かを想い、何かを考えて、生きています。

 それを、たまに思い出してあげてください。二人は、きちんと貴方を愛していますよ。

——家族、という形の中では、二人とも少し不器用かもしれませんがね。」

 折原さんの言っていることは、正直、難しくてよく分からなかった。

 それでも、折原さんのいうことには、きっと意味があると思うから。

 キッチンの端にある大きな機械を見ながら。珍しく、ほんの少しだけ、父さんと母さんの姿を思い浮かべた。


 ピー、と機械から電子音が鳴る。料理が出来上がったのかもしれない。

 金属のシャモジみたいな道具で機械の奥にあるものを取り出し、俺が先ほど準備した皿に乗せる。うん、と満足そうに頷く折原さんを見るに、どうやら完成したらしい。足台に乗ってそれを見てみようとすると、ふわりとチーズと、そしてトマトの香りを強く感じた。

 目の前で出来上がったのは、俺の両手を合わせたくらいのサイズの、小さなピザだった。

「すごい、ちっちゃいピザ……!」

「これはマルゲリータ、というんですよ。確かハルキさん、チーズはお好きでしたね」

 好みを把握されていて、少し恥ずかしくなり、そして嬉しくもなる。

 小さなピザを、更に食べやすいように切り分けられ、手渡される。焼き立ては熱くて、そして香ばしい匂いがした。残り半分は折原さんが自分の手元に寄せた。

「さあ、どうぞ。ピザは焼き立てがおいしいですからね」

 折原さんの言葉に頷き、一口、ピザを口にする。トマトの味とチーズのとろりとした触感が堪らなかった。

「おいしい…!」

「うん、まあなかなかですね。私の腕もまだ劣っていないようです」

 聞こえてきた言葉にびっくりして折原さんを見ると、残り半分のピザをしっかり口にしていた。テレビCMのように、わざとチーズをみょーんと伸ばして食べる折原さんが面白くて、思わずふふっと笑ってしまう。

「私も半分食べましたので、共犯です。だからハルキさん、これは二人だけの秘密ですよ」

 しーっ、と人差し指をたてて『ナイショ』と笑う折原さんに、俺もピザを頬張りながら何度も頷いた。

 小さな秘密のピザは本当においしくて。食べ切った後、満足していつもよりよく眠れたような気さえした。



 折原さんが元々高級ホテルの料理長をしていて、ものすごく料理が上手かったと聞いたのは、もっと後の話だ。なぜホテルの料理長がウチの執事なんてしているのか、そこまでは知らないし、なんとなく聞けなかった。

 ただ、料理の中でもピザを作るのは好きらしく、その後もこっそりと何度か焼いてくれた。カズトが星空の家に友人として遊びにきた時も、折原さんが用意してくれたのは、やっぱりあの手のひらサイズのピザだった。




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