『カズトを泣かせておいて、今更ノコノコ出てくんな。隣に並ぶ資格なんざ、お前はとうに失ってんだよ』
夕焼け空がいやに眩しかったあの空の下で、朔に言われたことが脳内で繰り返される。
少しだけ、驕りがあったのは事実だ。カズトはまだ俺のことを好いてくれていると。誤解であると、まだ想っているのだとさえきちんと伝えれば、また手を取り合うことが出来るのだと。
心のどこかで、そう思っていたのかもしれない。
「……泣いた、のか」
自室のベッドに腰掛けて、背中を丸める。部屋の電気をつけることもせず、暗い部屋でただ項垂れるしか出来なかった。
朔と、カズトと会った時の言葉。
——カズトを泣かせておいて、今更ノコノコ出てくんな。
あの言葉は、結構効いた。父親にも啖呵を切って、もうカズトを手放さない気でいた。
しかし、カズトが俺のせいで泣いたと聞いて——動けなくなった。
カズトのことをまだ想っているから。
今度こそ、間違えたくないと決めているから。
——だから、どう動いたらいいか分からない。いつも一歩出遅れて、また手の中からすり抜ける。いなくなる。
無理やりあの手を引くことだって、出来なくはない。すり抜けようとするあの手をとって、この腕の中に閉じ込めて。もう二度と逃してなるものかと、物理的に俺のものにしてしまえばいい。
しかしそれが正しいとは、決して思えなかった。
勘違いからカズトが連絡を絶ったのは事実だ。しかし、それから四年も動けなかったのは、俺のせいでしかない。
ここまで大事に思った感情なんて、今までなかったから。
どうしていいか、わからない。
ぐるぐると考え続け、思考も回らなくなってくる。
音にもならないほどの小さなため息は、もう何回目だろうか。
行き詰ってしまった考えは、身体さえもだんだんと固まらせている気がした。
——ピロン ピロン
真っ暗い部屋に突然、軽い電子音とともに白い光が点滅する。スマホへの着信を示すそれは、石のように固まりかけていた身体を僅かに弛緩させてくれた。
とりあえず光るそれを手に取ってみれば、見える名前は非常に珍しいもので。
色々あった都合上、この相手とはお互いに表立って連絡をとらないようにしているというのに、本当に珍しい。
少し悩んで、通話ボタンを押す。聞こえてきた相手の声は、つい数時間前まで舌戦を繰り広げた従妹のものだった。
「……どういうつもりだ、朝日子」
『あら、開口一番ひどい言い草ですね、ハルキさん』
「ひどい言い草はお前だろう。突然呼び出したかと思えば、さっきのあれはなんだ」
親戚とはいえ、そこそこに気心は知れている仲だ。だからこそ強い口調のまま、思ったことを伝えていく。それで問題ないと言えるのは、こんなことでへこたれる相手じゃないのだとよく知っているからだ。
『あれくらい言わないと、私が和兎さんの味方だっていう説得力がないでしょう?』
「味方?」
意図が読めずに疑問符で答えれば『察しが悪いですね』と一言添えられた。湧いて出てくるこの口の悪さはどうにかならないのだろうか。なんで“アイツ”はコレでこいつに惚れたのか理解できない。
『元はと言えば、一時とはいえ私が婚約者だったのがこのすれ違いの原因です。その私が少しでもあなたと仲が良い姿を見せてしまうと、カズトさんも勘違いしたままになってしまうでしょう?』
そこまで言われれば、流石に少しは納得できた。朝日子の言うことは確かに一理ある。しかし、あそこまで不仲を演じる必要はあったのだろうか。
『まあ、あれだけ言った罵詈雑言、あながち嘘でもないですし』
「……」
もう何を言っていいかもわからなくて、思わず黙ってしまった。罵倒の類が嘘ではないというのも、それはそれでどうなんだろうと思う。まあ、仲が良いかと言われると微妙であることは確かだ。一部の秘密を共有しているだけの、ただの親戚。それだけだ。
……しかし、あそこまでボロ雑巾のように蔑まれる必要はあったのだろうか。やはり少し納得がいかない。
『まあ、あれだけ和兎さんの前で罵倒したお詫びに、後でちょっといいものを送らせていただきますので、よろしくお願いしますね』
「なんだそれ、不気味だな」
『いいじゃないですか。貰えるものは貰っておいてくださいな』
従妹の意図が全く読めない。罵倒を繰り返したかと思いきや、今度は何か送るという。誰の味方——というより、どうしたいのかが、分かりづらいと思う。
返す言葉もなく黙ったままでいると、電話の向こうの朝日子の声が、途端にトーンを落とした。
『……ハルキさん』
さっきまでとは、雰囲気が違う。こちらを揶揄うような素振りはなく、ただ静かに心の内を吐露するかのような呟きだった。
『ハルキさんには感謝しています。手紙のことも。その件で、ご迷惑をおかけして……ごめんなさい』
——手紙。この話を出した時点で、そして朝日子の声で確信した。これが朝日子の本音だ。張り付けた笑顔と毒舌で何層にも隠された、偽らざる本心。
毎日は難しくとも、それなりに早いペースで送られてきていた、朝日子からの手紙。俺の名前でやり取りしていたあの手紙は、もうお互いの手に届くことはない。俺と朝日子は形式上、婚約が破談になったのだ。気軽に会うことも、手紙を送ることも、不自然に見えるだろう。
朝日子の想いを汲み取り、友人の想いを汲み取り、苦肉の策で始まった手紙のやりとり。それが、この一件の発端だったとも言えなくはない。あの手紙さえなければ、俺と朝日子が婚約してしまうこともなかっただろう。
だからこそ、朝日子はこうして何度も頭を下げてくる。朝日子が謝罪の言葉を口にするのは、今日が初めてではなかった。普段は軽口も叩いてくるし、言葉尻だって厭味ったらしい。今日のような罵詈雑言だって飛んでくる。それでも、そんな様子を全て押し込めて、またこうして頭を下げてくる。
自分のせいだと、気にしているのだ。後悔して、辛くて、どうしたらいいか分からなくて、動けない。その気持ちは、俺にも痛いほど理解できた。
「もういい。何度も謝るな。お前の気持ちは、もう分かってるから」
電話の向こうからの、返事はない。
今日の一件で、朝日子も思い出してしまったのかもしれない。この謝罪は、その想いが発端なのだろう。
そういえば、『向こう』は結局どうなったのだろう。最近は忙しく、『向こう』ともあまり私的な連絡はとっていない。元気であることには違いないだろうが、朝日子との一件は聞けていなかった。
きっと朝日子側に情報はないかもしれないと思いつつ、一応尋ねてみる。
「そっちはどうなってる。連絡は、とれていないんだろうが」
『ええ。もう、四年です。……きっと、向こうも忘れています』
朝日子が手紙のやりとりが出来なくなったのは、あの一件の後、俺が婚約を解消してからだ。確かに、同じ四年の歳月が経ったことになる。
俺も、カズトという恋人が、隣からいなくなって。朝日子も、身動きが取れなくなった。
どれもこれも、上手く行かない。パズルのピーズが嚙み合わない、ちぐはぐの違和感。そんな違和感を抱えたまま、その場に立ち尽くして動けない、そういう四年間だった。
『ハルキさん、謝りますね』
「もういいって言っただろう。今度はなんだ」
『根性なし、って言ったこと』
朝日子の言葉に少し目を見開いた。それは今日のカフェで、朝日子が俺に放った言葉だ。
確かに罵倒の言葉ではあるけれど、正直、傷つく権利はないと思っていた。その言葉は否定はできなかったからだ。
声が出ない俺に、朝日子は呟くように言った。
『本当の根性なしは、私なんです。……それじゃあ』
ぷつりと、通話が切れた。
最後の声は、微かに震えていて。
電話越しなのだから、見えていないはずなのに。恐らく泣いているのだろうかと、察しがついた。
通話の切れたスマホを見て、小さく息を吐く。最後の言葉は、まだ耳の中に残っていた。
「根性なし、か」
朝日子が根性なしなら、俺はどうなってしまうのだろう。そう脳裏を掠めた時、ぴろん、とスマホから通知の音が響いた。そういえば、朝日子が何か送ると言っていただろうか。画面には、予想通りに朝日子の名前が表示されていた。
朝日子から届いたメッセージを開くと、そこには十一桁の電話番号がひとつ。続いて送られたメッセージは『せっかく手に入れたんだから、三日以内に電話してくださいね』というもの。そして付け足されたのは、ウサギの絵文字だった。
——これは、もしかするとカズトの番号だろうか。
眉間を抑えて、思わず天井を見た。どうやってこの番号を手に入れたのか、この従妹は。いや、カズトは超がつくほどのお人よしだ。何か番号を教えあうようなことを請われたら、断れないだろう。
カズトの番号は、ありがたい。ありがたいが、少し怖いようにも思う。
また、拒否されたら。連絡を絶たれたら。何か間違えてしまったら。そう思うと足も、手も動かなかった。
——根性なしは、私なんです。
朝日子の言葉が、耳に残って反響する。
ああ、そうだ。ここで立ち止まったら、本当にそれこそ『根性なし』じゃないか。四年前の二の舞でしかない。
どう動くべきなのか、どうしたらいいのか、まだよくわからない。それでも、ここで引くべきではないことは、もう分かる。
朝日子から送られた番号を、スマホの中の電話帳に入力する。登録完了のポップアップが表示されて、身体が緊張するのを感じた。
この繋がりを、今度こそ切らない。切らせない。心の中で朝日子に感謝しつつ、そう意気込んだ。
好きだからこそ、苦しくて。
苦しくても、会いたくて。
ちぐはぐで動けなかった四年間から。
ようやく、少しだけ進むことが出来た気がした。