遊園地近くの駅でハルキと鉢合わせしてから、数日がたつ。買い出しの帰り、スーパーから帰る道のりで、オレは何度もため息を吐いては肩を落としていた。
龍太郎がいたから、というのもあるけれど、ハルキには少し冷たい態度をとってしまった。
申し訳ないという気持ちと、別にいいじゃないかという気持ちが、オレの腹の中で同じだけ居座っている。
オレはハルキの手を振り払った身だ。その上で、龍太郎と一応、一緒にいるわけだし。冷たくしたってなんの問題もない。
婚約がどうなったかなんて、今更知ったって困る。アイツはアイツで、ちゃんと肩を並べて似合う人と一緒になってほしいと思う。まだアイツのことを大事に思うからこその、これがオレの本心だ。
——まあ、うん。それにしても、ちょっと言い過ぎたかなあ……
縁を切った元恋人に何を言うか、なんて、そんな人生経験があるわけがない。何回、何十回考え直したって、分からないものは分からなかった。
両手にレジ袋をぶら下げたまま、歩道の真ん中で思わず頭を抱えてしまう。生活感丸出しの白い袋を持ってウンウン唸る姿は、周囲から見れば不審者待ったなしかもしれない。あんまり人通りがなくてよかった。生活必需品や夕飯の買い出しで会社——という名の双子で借りてる家——を出てきたはいいものの、一人になった瞬間にやっぱり色々と考えてしまうもので。
大きなため息をついて、膝に手をついた。頭上から照らしてくる昼下がりの太陽のせいで、自分の影がほぼ真下に出来ている。ああ、自分ってちっさいなあ、なんてどうでもいいことを考えてしまった。
「……もしもし、そちらの方」
ふと、女の人の声がした。後ろを振り返ると、小柄な女の人がこちらの様子を伺っている。長い黒髪が肩の下まで伸びてて、ふんわりとした白いワンピースを着ている。清楚系、っていうんだろうか、こういうの。すっごい美人。
こんな道で、いきなりこんな美人に声をかけてもらう理由はさっぱり思いつかない。オレ、なんか落とし物したかな。慌てて背後の歩道と、自分の持っているレジ袋を交互に見た。道には何も落ちてないし、レジ袋からは大根とネギと肉と……色んなものが見えているけど、多分落としたものはなさそうな気はする。はっ、財布か?
慌てて自分のカバンにまで手を伸ばしたオレに、女の人はもう一度声をかけてきた。
「月島和兎さん、でいらっしゃいますか?」
「へ? ええ、と……」
まさか突然名前を言われるとは思わなくて、目を丸くしてしまった。どこかで会ったことあるだろうか。こんな美人、会ったら絶対忘れないと思うけど。しかもオレの方は名前を覚えられている。なぜ。
「そう、ですけど……どちらさまでしたっけ?」
苦笑しながら尋ねてみると、目の前の美人さんは小さく会釈をして言った。
「ご挨拶が遅れました。初めまして、私は日乃宮朝日子といいます」
「はあ、どうも」
随分丁寧な人だ。ひのみや、あさひこ。うん、聞いたことない。こんな独特の名前、聞いたら忘れないだろう。
でも、なんだろう、この人の感じ。どこかで見たことある気がする。どこだっただろうか。
うんうん困惑していると、美人さん——朝日子さんは、にこりと笑ってオレに言った。
「少しお付き合いしていただきたいんですが、よろしいですか?」
「……へ?」
押しに弱い、と言われたことはあるだろうか。オレは結構ある。
掃除当番代わってくれとか。ちょっと交通費貸してくれとか。もちろん後でお金とかはちゃんと取り返したとして。ああ、でもそんなのは程度が低かったんだなってやっと分かった。
なぜなら、今。まさにオレは押しに負けて、何故かミリも知らないお嬢さんと、静かなカフェでお茶をしているのだ。
……なんで?
「そんなに緊張しないでください。ただの世間話をしようと思ってきたんですよ」
「なんでそのただの世間話に、オレを……?」
オレは甘いカフェオレを、朝日子さんは冷たいオレンジジュースを頼んだ。正直、目の前で笑う美人の行動が謎すぎて、飲み物なんて喉を通るわけがない。何度か流し込んだけど、カフェオレの味はあまり感じられなかった。緊張しすぎだ。勿体ない。
対して、ジュースを飲んでる朝日子さんは平然とした様子だった。その姿の優雅なことといったら。
ええと、なんでこんなことになってるんだっけ。何で呼び止められて、何でオレの名前を知ってて……というか。
「……そもそも、オレと朝日子さん、会ったことありましたっけ……?」
その言葉に、朝日子さんの動きがほんの少しだけ、止まる。ヤバイこと言っちゃったかなって一瞬焦ったけど、再び穏やかに微笑んだ朝日子さんの様子を見ると、一応大丈夫そうだ。
「あら、覚えておられませんか?」
「や、いやあ、こんな美人さん、一度見たら忘れないとは思うんですけど」
頭を掻きながら笑って言ってみる。まあ事実は事実だ。
「お上手ですね。ふふ、でもそうかもしれません。それは私を正面から見ていたら、の話では?」
……正面?
朝日子さんの言い方がよく理解できなくて、小さく首を傾げた。正面。正面以外にどう見るっていうんだろう。
戸惑うオレに、朝日子さんはジュースを一口飲んで、告げた。
次の朝日子さんの言葉で、オレの意識は完全に四年前の、あの雨の日に飛ばされた。
「カズトさんが見たのは、私の後ろ姿の筈ですから。それに隣に立っていた人は、貴方の良く知る人です。そちらに目が行ってしまったのかもしれませんね」
後ろ姿。そう聞いて、ハッとした。隣にいたのは、よく知る人。そういうことかと、息が止まりそうになる。
——完全に思い出した。
この人は、ハルキの元婚約者だ。
あの日は、二人で出掛ける待ち合わせをしていた。ハルキの家の近くまで迎えにいってやろうとしたのは、完全に気まぐれだった。
驚かしてやろうと勢い勇んで早めに向かい、目当ての恋人の後ろ姿と、見知らぬ女の人の後ろ姿が並んでいて。
あまりに驚きすぎて、声をかけられなかった。星空の家に入っていく二人の後ろ姿を、眺めていることしか出来なくて。その後、正面玄関に見知った人影が見えたから、慌てて駆け寄った。それは何度か話をしたことがある執事の爺ちゃんで、女の人について尋ねてみれば、それはハルキの婚約者かもしれないと言われた。
気づけば待ち合わせ時間も場所も無視して、ふらふらと街を歩いてた。
スマホに表示される恋人の名前も見たくなくて、電源を切った。どうしていいか分からなくなっているうちに、雨まで降ってきて。
濡れるから、傘をささなきゃとか。早く誰かに連絡しなきゃとか。そんな判断も出来なくなって。
気づけば大雨の中、トボトボと歩いて家まで帰っていた。
意識がフラッシュバックする。
硬直したオレを見て、朝日子さんは苦笑した。
「そんな怖い顔しないでください。言ったじゃありませんか。世間話をしにきた、って」
「世間話、って」
そんな困った顔をしないで欲しい。困っているのはこちらである。
混乱から何も話せないでいるうちに、静寂を破るように朝日子さんの方から話しを切り出してきた。
「ええ、そうですね。じゃあ先に私から喋りましょうか。
——私には親戚が一人、いるんですけれどもね。まあそれがクソの役にも立たない男でして」
……待った、この美人が今、クソって言った?
幻聴だろうか。否、確かに聞こえた。混乱に混乱を重ねているオレをよそに、朝日子さんはまだまだ喋る。
「家柄だけはあるようですが、どうも好いた人に対してアプローチしきれてないんですよ。そのせいで一度手の中からすり抜けていってしまったというのに、本当に学習能力がなくて。甲斐性というものをどこかに忘れてきてしまったんでしょうね。全く情けない。あれで血が少しでも繋がっているっていうんですから、恥ずかしいったらありゃしませんよ」
アイドルか、それとも女優かと見間違うほどの美人から飛び出す、まあまあな罵詈雑言に目を瞠る。
この美人、誰のことか知らないが、あまりにあまりな言いぐさである。これ、もし言われているのが自分だったら早々に泣いているかもしれない。
「でね、どうも最近、その想い人に再会できたらしいんですよ。なのに、また逃そうとしているんです。バカみたいでしょう?
——だから、私からちょっと別のベクトルで発破をかけてやろうと思い立ちまして」
そう言って、朝日子さんはにっこりとオレに対して微笑みかけてくる。つまり、今の話のどこかにオレが関係しているというわけで。しかしオレはこの朝日子さんと親戚になった覚えはミリもない。ということはこの話における『想い人』がオレにあたるということで、そして親戚というのは——あれ?
「それ、って、つまり」
バラバラに配置された点が、綺麗に一本の線として繋がるような感覚がした。
「ええ。貴方の元彼氏であり、私の元婚約者である星空陽輝は、私のイトコにあたります」
——聞いてないんですけど?!?!
「イトコ同士の結婚は、日本の法律では何の問題もないからと、叔父様……陽輝のお父様が決められまして。まあ、私からすれば正直どうでもよかったんですけど。結婚する気なんて毛頭なかったので」
目が点、とはまさにこのことだろう。あまりの衝撃に呆然としてしまって言葉も出てこない。良い家柄の方々にとってイトコ同士の婚約というのは当たり前のことなんだろうか。まあ、それはいい。その上で、元婚約者でありイトコである男をここまでこき下ろす朝日子さんもとんでもないと思う。口ではこうは言っていても、実は好きで……なんてレベルじゃないのはオレでも分かる。これは本気でキレてる。
冷や汗がたらりと垂れたところで、また空気が変わった。
「——カズト!!」
静かなカフェのある通りに、それなりな大声が響く。自分の名前が呼ばれたもんだから、慌てて振り返った。その声で、もう誰が来たのか分かっている。遭遇するの、何度目ですかね。本当に。会いたくないハズなんだけど。
汗をかいて、肩で息をするハルキがそこにいて。オレをちらりとみて、その後に嫌そうに朝日子さんを見やった。
なんでこの場面で、こいつがここに。オレが疑問に思うのと、朝日子さんがネタばらしをしたのは同時だった。
「私が呼びました。言ったじゃないですか。発破をかけてやろうと、って」
「朝日子、お前、何を吹き込んだ」
「はい、陽輝さん。貴方の悪口をたっぷりと」
にこりと笑う朝日子さん、目は笑ってない。ハルキも割と本気で睨みつけてるのが見て分かる。
……元婚約者同士、こんなに険悪なことあるか?? というか、そもそもイトコ同士なはずだ。イトコ同士でこんなに険悪になるもんなのか。
まるで冬のように冷えてきた空気の中、朝日子さんは声色だけ朗らかに言い放った。目は、相変わらず全く笑っていない。
「私はカズトさん、とても気に入りました。いい人ですし。それに恋人に婚約者が出来てしまったと聞いて、全てをかなぐり捨てて渡米するあたりなんて最高じゃないですか。それくらいの気概があってこその男でしょう。ねえ? 最愛の恋人に連絡を断たれたくらいで全部諦めた男はなんとか言ってみたらどうですか?」
とんでもない言葉ばかり聞こえてきて、口をあんぐりと開けてしまう。こんなにハルキに思う存分まくしたてられる女の人なんて、今まで見たことがなかった。
ずっと一緒にいて実感していたけど、ハルキはマジでモテる。女の子からの告白だってひっきりなしだった。だからここまでハルキに言葉のパンチを入れる女の人なんて、十数年一緒に居てみたことない。初めてじゃないかな。
「カズトさん、こんな男やめて私はどうですか?」
「朝日子、冗談はやめろ」
「へえ、冗談に聞こえます? 私、貴方と血が繋がってるから好みは近いはずですけど」
二人の言葉のやり取りが、まるでナイフを突きつけあってるような感じで、聞いてるこっちが震えあがりそうになる。まさに一触即発。
なんでこんな遣り取りの中心に、オレは居させられているのだろうか。何かやったかな。わからん。お地蔵さんのように身体をカチコチにして、にらみ合う二人の真ん中で耐えるしかなかった。数秒がっつり視線を合わせたイトコ二人のうち、先に視線を外したのは朝日子さんの方だった。オレに対して、なんでもないように笑いかけてくる。
「和兎さん、冗談ですよ。気にしないでください」
——どこからどこまでが冗談なんですか!!と叫んでしまいそうになるのを、必死で抑えた。一応ここはオシャレなカフェの一角である。といっても、この冷戦の如き舌戦で、他のお客さんはドン引きしてる。店員さん、ごめん。オレのせいじゃないです。多分。
はあ、と演技がかった溜め息を吐いて、朝日子さんは少しだけ視線を伏せる。
「ほんの少しだけ、小指の先程度の申し訳なさは感じてるんですよ? 私も少しは原因なわけですし」
「それで、罪滅ぼしにこんなことを?」
ハルキにしては珍しく、すっぱりと切り込むようにそう言うと、朝日子さんは満面の笑みで——でも真冬の空気のように冷たく言い放った。
「そんなわけ無いじゃないですか。貴方が嫌いだからですよ、この根性無し」
——頼むからオレの前でそんな喧嘩をしないでくれ!
もうどうしようもなくて、カフェのテーブルに突っ伏してしまった。この事態を収拾できる力はオレにはない。朝日子さんはガタリと椅子を引いて立ち上がった。そこには満足そうな笑みを浮かべている。
「それでは、ささやかなちょっかいもかけたことですし、私は退散させていただきますね。ごきげんよう」
始まりも唐突だったけど、終わりも唐突だった。全く持ってささやかではないちょっかいをかけた朝日子さんは、にこりと微笑んで、こちらに一礼をして立ち去っていった。まるで静かな嵐みたいだ。あんなに丁寧で物静かなのに、飛んできた言葉は爆弾しかなかった。
「なんだったんだ……」
カフェのテーブルに思わず突っ伏しながらそう零すと、ハルキが大きなため息を吐いて言った。
「……アイツはああいうやつだ。気にするな」
気にするな、と言われても、気にしないのは無理な話だ。トラウマの原因の一人に突然捕まってお茶に同席させられ、挙句の果てには兄妹……ならぬ、イトコ喧嘩に巻き込まれた。
時間にして一時間程度だったはずだが、体感は丸一日に匹敵しそうなくらい、疲れた。ぐったりとしながら、先ほどまでの会話をじんわりと思い出す。 嵐のような展開だったので、その場では事態を整理できていなかったが。前に言っていたハルキの言葉が正しければ、ハルキはあの朝日子さんとは結婚していないことになる。婚約をして、それを解消したと。そして朝日子さんにも、結婚する気はなかった、と。
「……あれでも、朝日子には好きなやつがいるんだ」
「え?」
またとんでもない言葉が飛び出してきて、驚いて顔を上げた。あの人に、好きな人。ちょっと想像がつかない。
ハルキは、その相手について何か思うところがあるのだろうか。視線を伏せて、なんだか表情が硬い気がした。
「俺は、そいつが誰か知ってる。……それが、色々と上手く行きづらい相手だってことも。
だから、少しだけ手助けをしてた。……それがまさか、父さんに誤解されて婚約者にされるなんて、思ってなかったんだ」
上手くいきづらい、とか、手助け、とか。分からないこともあるけれど。ハルキの言葉から、少しだけ二人の関係性が見えてきた気がする。
「だから、カズトが気にすることは何もない。なかったんだ、何も。今のを聞いて分かるだろう。俺と朝日子には、本当に何もないんだ」
「……そ、っか」
ホッとして、驚いた。安堵してしまった自分自身に、だ。
ブンブンと派手に首を横に振った。事情は分かった。何があったのかも。しかし、手を取れないと、資格がないと、再確認したばかりじゃないか。慌てて席をたつと、椅子がガタンと大きな音をたてた。でも、そんなのに構ってられない。
「オレ、帰る!」
直ぐにその場を離れようとして——強く、身体を引かれた。
抱き寄せられた、と気づいたのは、ハルキの顔がすぐそこに見えたからだ。
こんなに近くにハルキを感じるのは、それこそ四年ぶりだった。ハルキの方が身長が高いから、抱きしめられるとその肩に顔を埋めることになる。あったかくて、ハルキの匂いがする気がして。懐かしさと愛おしさで泣きそうになる。
本当なら、すぐに反抗しなきゃいけなかった。叩いてでも、嫌がらなきゃいけない。でも、そうしようと持ち上げた手で、ハルキのことを叩くことは出来なかった。
振りほどけなかったのは、オレの肩に回されたハルキの腕が、優しくて温かかったからか。
それとも、ハルキの声が必死そうに、少し震えていたからか。きっと、両方だ。
「カズト。きちんと話したい」
——ああ、本当に。お前はまっすぐだよな。
声でわかる。言葉でわかる。ハルキの想いは、真っすぐだ。昔と変わってない。
ありがとう。好きでいてくれて。ごめんな。一緒に居られなくて。
好きだからこそ、受け入れられなくて。
想っているからこそ、繋がれない。
——何が正解なのか。もう、オレにも分からないんだ。
持ち上げた手は、ハルキの背中に伸ばすことだって出来た。
でも、結局そんなことは出来なくて。行き場をなくした両手を、力なくゆっくりと下ろした。
「ごめん、ハルキ。オレは、もう——」
「大事な弟から離れろよ、ハルキ」
聞こえたのは、氷みたいに冷たい声。でも、誰よりも見知った、そしてオレと同じ声。
振り返ったオレの肩を引いたのは、全く同じ顔をした、——でもオレとは全く別の感情をハルキに抱いている、双子の兄だった。