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第7.5話 空と雨

 あの日は、雨が降っていた。それなりの大雨で、雫が窓に叩きつけられて滝みたいになっていたのをよく覚えている。黒い雲に覆われた空には雷まで光っていて、オレは少し悩んでいた。双子の弟であるカズトは、恋人同士であるハルキと遊びに行くんだとか言って家にはいなかったのだ。あの雑な性格の弟が、このゲリラ豪雨を予測して傘を持って行ったとは思えなかった。両親も仕事と用事で出かけているが、二人とも車だ。大雨に濡れることを心配する必要はないだろう。つまり、目下の問題は弟だけだ。

 何度かかけている電話に、向こうが出る様子はない。大きな溜め息を吐いた音ですら、ザアアアと五月蠅い雨音にかき消された。苛立ちから舌打ちをして、玄関の傘立てから傘を二本手に取った。カズトは、昔から雷が苦手だ。これだけの雨と雷なら、駅で茫然として動けなくなっているカズトの様子は想像がつく。スマホの天気予報を見ても、今夜いっぱい雨が上がる気配はなかった。

……貸し一つだぞ、カズト。

 傘を持って家のドアを開けたところで、オレは驚いてその足を止めた。迎えに行こうと思っていた本人が、目の前に立っていたからだ。

 元々の予想通り、傘は持って出なかったのだろう。雨にうたれ、全身びしょ濡れになったカズトがその場に立ち尽くしていた。そんなに濡れて何をしているのかと、いつものように軽口を叩こうとして、出来なかった。カズトの様子がおかしいことに、やっと気づいた。

 俯いて、唇を噛んで、何かに耐えているような顔。濡れたこととか、寒いこととか、きっと本人を苛んでいるのはそういうものではない。

——何か、あったのだ。

「……とりあえず、入れよ。風邪ひくぞ」

 びっしょり濡れたカズトの腕を掴んで、玄関に引っ張り込んだ。触れた肌は冷え切っている。どれだけの間、雨に打たれていたのか。自分で鍵を使って入ることすら出来ないほどに、何があったのか。オレにはてんで検討もつかなかった。

 脱衣所から持ってきたバスタオルで、玄関に立ち尽くしたままのカズトを乱暴に拭く。着衣泳でもしたのかと言いたくなるくらい濡れているもんだから、丁寧に拭いている余裕なんてなかった。ガシガシと髪を拭いて、服の水分をとって、ついでに軽く頬をぺしぺしと叩いてやる。おら、しっかりしろ。そうすると、少しだけ視線が動いた。少しでも我に返ったのなら、それでいい。

 水が滴らない程度まで大雑把に拭いた後、冷たくなった腕を引いて着替えと一緒に脱衣所に放り込んだ。

「まずは着替えろ。話はそれからだ」

 本当は冷え切った身体を温めるために風呂に放り込みたかった。しかし今のカズトを風呂に放り込んでも、数時間でもぼうっと入って、いっそのぼせてしまう気がした。意識もうろうとしているヤツに風呂は危ない。

 少し経つと、ちゃんと新しい服に着替えたカズトがリビングに入ってくる。どうにかそれくらいの気力は取り戻したらしい。

 用意しておいた砂糖入りのホットミルクを、カズトの前のテーブルに置いた。こんな甘いもの、オレは飲めない。カズトの好物なのだ。

 そこ座れ、とカズトに視線で促し、オレもいつもの定位置に座る。カズトがおずおずと対面に座ったのを確認して、ようやく聞きたかった問いを投げかけた。

「何かあったか」

 オレの質問に、カズトは少しだけ身体を強張らせた。黙ったまま手元のホットミルクを口元に運び、小さく息を吐く。自分で、自分の想いや記憶を整理しているように見えた。

「……さっき、ハルキの家の近くで」

 うん。そうだろうな。お前、ハルキに会いにいったんだもんな。そこまではわかる。

 そこで言葉を止めて、カズトは息を吸って、吐いて、整える。そこから、聞き逃してしまうんじゃないかってくらい小さな声で、ぽつりと呟いた。


「ハルキ、女の人といたんだ。……婚約者、なんだって」


「……は?」

——それは流石に予想してなかった。

「……あのハルキが? 見間違いじゃねえのか」

 思わずハルキを擁護するようなセリフまで言ってしまった。しかしカズトはゆるりと首を横に振る。

「ちゃんと折原さんに聞いたんだ。そしたら、婚約者だって」

 そこまで話して、カズトは口を閉ざしてしまった。逆に、オレは口をあんぐりとあけるはめになった。

 だってそうだろう。あまりにも寝耳に水だ。

 ハルキが、婚約? お前が惚れ抜いてるカズトを差し置いて?信じられない話だ。

 誤解があっても困るが、オレは確かにハルキが嫌いだ。理由は色々あるがとにかく嫌いだ。だが、あいつがカズトに惚れ抜いていることはよく知っている。小学校、中学校、そして高校と、ずっと見てきたのだ。この二人を。不本意ではあるが、オレだってこの二人がお互いを想いあっていることは認めている。

 だからこそ、あまりにも予想外で驚いた。

 カズトと付き合うことになって、目に見えて喜んでいたあのハルキだ。女の婚約者など作るだろうか。

 一番あり得そうなのは、カズトの見間違いというオチだろう。あるいは、勘違いか。しかし星空家の執事である折原さんにも確認したというなら、真実なのかもしれない。でも、どこまでがどう真実なのか。色々と可能性はあるが、その場にいなかったオレには判断しようがない。

 混乱から頭を抱えるオレの前で、カズトはマグカップを持ちながら黙ったままだった。そんな様子の弟に、あれこれ詰問するのは気が引けた。静かに手元のマグカップを見つめるカズトの表情を見て、パニックになりかけた頭が、スッと冷えていく気がした。

 この場で一番混乱しているのは、間違いなくカズトだ。それを忘れてはいけない。

——原因、真実、真偽。今はそんなもの、どうでもいいじゃないか。

 今問題なのは、ハルキと婚約者が並んでいるところをカズトが目撃したこと。そして、『こう』なってしまっているということだ。

 ああ、腹が立つ。だからアイツは嫌いなんだ。舌打ちしそうになって、どうにか飲み込んだ。荒っぽくならないよう、できるだけ穏やかにカズトに声をかける。

「なあ、カズト。お前、これからどうしたい」

「どう、って」

「理由も真偽も知らねーけど、ハルキに婚約者がいたとして。お前は、何を思ったんだ。それで、これからどうしたい」

 オレの問いに、カズトは一度視線を伏せた後、またホットミルクの表面に視線を戻した。

「……あいつが、一番幸せになれるように……ううん、違う」

 途中まで言いかけて、カズトは小さく首を振って言葉を切った。一言ひとことを頭の中で整理しているのか、ゆっくりと、言葉を口から零していく。

 外で降り続いている大雨の音が、いやに響く。カズトの表情に、いつもの活力はない。涙こそ流れていないけれど、どうしたって泣いているようにしか見えなかった。


「ハルキの幸せになれないんだったら。

オレが、いなくてもいいんなら。

——もう、会いたくない」


 それは片割れが漏らした、紛れもない本心。普段は他人のことばかり気を遣う弟の『自分のための』言葉。

『よく言った』という気持ちと『そうなったか』という気持ちが、半々に湧いて来る。

 弟はいつも他人のことを気遣ってばかりになることがある。人のことばかり気にして、自分のことは二の次だ。そんな弟が、自分の意思として『会いたくない』と言った。オレにとって嫌いなハルキを切り捨てる選択をしたのだ。望んでいたことのはずなのに、ほんの少しよぎる苛立った感情が鬱陶しかった。

——オレはな。ハルキ。お前たちのことを認めたいとも思ってたんだぞ。

 逆恨みというか、結果論にも近いような感情が脳裏をよぎる。しかし、もう遅い。

 カズトがそう言ったのなら。オレはオレに出来ることをするだけだ。

 何も言わずに席を立ち、自分の部屋にある引き出しの中の紙束をむんずと掴む。中身は、少し気になってため込んでいたとある資料だ。

 ずかずかとリビングに戻ると、持ち出した資料をカズトの前にぶちまけた。分厚いものから薄いものまで、カラフルな紙がバサッと机の上に広がる。

「これ、海外留学の資料な」

「……留学?」

 唖然とするカズトに、オレ自身も苦笑したくなる。資料をひっそり集めていたことは、誰にも教えていなかった。というより、まさか本当に使うことになるとは思わなかったのだ。だから、そんなにちゃんと整理してもいない。

 留学には、オレだけ行くつもりだった。カズトとハルキが共に居ることを望んだなら、オレはそれを間近で見続ける気はなかった。物理的に弟離れをする時だろうかと、気の迷いで集めた留学資料だった。まさかこんな形でカズトに見せることになるなんて。

「つっても、ほとんどは読まなくていい。適当に集めたから、いらないやつも交じってる。場所はこれとか、そうだな……アメリカでいい。あそこ広いから、あいつも追ってこれないだろ」

「なんで」

 その一言には、「なんでこんなものを持っているのか」と「なんでこの資料を勧めるのか」という二つの意味が込められているのだろう。カズトの疑問は尤もだ。ささやかな気まずさから、視線を逸らしつつ答えた。

「ちょっと海外には興味があってな。少し気になって、前から資料は集めてたんだ」

 元々の目的は、別に言う必要はない。適当に誤魔化しながら、広げた資料の中からアメリカ関係のものだけ抜き出し、カズトの前に差し出す。戸惑いながらそれを眺めるカズトに、オレはまっすぐ向き合った。


「オレはな、お前を泣かせる男を認める気はない。まあ、前から認めちゃいなかったけどな。

……オレも一緒に行くから。だから、泣くな」

 そう伝えると、カズトは目を見開いて。そして、困ったように笑った。


——大事な半身に、幸せになってほしい。そう願って、何が悪いのか。

だから、オレは。二度とハルキを許す気は、ない。



 カタカタとパソコンのキーボードを打ちながら、小さくため息を吐く。仕事の書類が山積みだからとか、そういう問題じゃない。確かに仕事は溜まっているけど、それよりも。

 かつての幼馴染であり、弟の元恋人である男を思い出す。留学までして縁を切ったっていうのに、また目の前に現れたという。しかも三度も。本当に腹の立つ男だ。

 婚約者がどうとか、事実がどうなってるのかなんて、オレは知ったこっちゃない。事実というなら、アイツはカズトを泣かせているわけで。

——カズトを泣かせるヤツは許すつもりはないし、大事な弟の未来を任せる気もない。ただそれだけだ。


 嫌なことを思い出しつつ、ちらりとスマホを見る。カズトが帰ってくる予定から、もう随分と過ぎてしまっていた。おかげで任せるはずの仕事がそこに積まれている。ただの買い出しにそんなに時間がかかるとも思えない。

 双子の片割れとはいえ、お互いにもう成人男性だ。門限があるわけでもないし、別にとやかく言うつもりもない——が、なんだか嫌な予感がする。

 こういう予感は、とにかく当たる。幼い時からそうだった。大きくため息を吐いて、手持ちのスマホの位置情報機能をオンにした。あいつはあんまりスマホを見ないし、通知にも気づかない。留学の時にあまりに無防備で何度もキレた結果、カズトのスマホにGPSを設定させた。機能をオンにすれば、オレのスマホから位置がわかるようになっている。滅多に使うものではないが、これ使われるほど連絡をよこさないカズトも悪い。



——過保護上等。これであのクソ男とでも一緒にいてみろ。街中だろうとあのツラをぶん殴ってやる。




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