——勝手に婚約者が決められていたと知ったのは、カズトが連絡を絶った後だった。
親が好きにふれまわり、俺の知らないところで周知の事実になっていた。俺が全てを知ったころには、会社関係の人間全員に知れ渡っているような状態だった。むしろ「知らなかったんですか」と何度も驚かれた。両親の、いや、父さんの周到さをここで初めて思い知った。カズトがこれを知らなかったはずはない。それくらい、あまりにタイミングが当てはまりすぎていた。
相手だといわれていたのは、親戚の女の子だった。会ったことは何度もある。だがそれだけだ。俺にも、あいつにも、一切の恋愛感情は無い。婚約者だなんて、とんでもない話だった。
これからの人生。俺が共に過ごしたいと思ったのは、正真正銘カズトだけだった。
他の誰でもない。カズトにだけ、この人生を捧げていいと思えていた。お互いに将来を考えた。手と手を取り合った。きっとお互いの家族にも、と、話をしていた。
——その矢先に、この婚約である。誰が企んで、誰が広めた結果なのか。それは一目瞭然だった。
両親は——特に父さんは、きっとカズトのことをよく思わなかっただろう。よく思えるはずもない。家のことしか考えていないあの人にとって、息子が同性を伴侶に選びたがっているなんて事実は消し飛ばしたかったはずだ。
俺は関係ないのだと。親が勝手に仕組んだことなのだと、後から声高に主張しても遅い。
カズトは、もうこの手を振り払ってしまったのだから。
カズトと一切の連絡をつけられなくなった後。勝手にコトを進めた両親に、人生で初めて反抗した。
『婚約を解消しなければ、今すぐ親子の縁を切ってやる』と、書斎に乗り込んで声を荒げた。
両親に対して大きく反抗したのは、後にも先にもあれだけだ。俺にとって、両親や家の存在は「あって当たり前のもの」だったから。
父親は少し驚いていたものの、それならばと条件を出してきた。
婚約は解消する。代わりに『星空の家業を継ぐことを前提』に、今後両親の意向に従うように、と。
つまり、これからの人生
本当なら、承諾するべきじゃない。けれど、俺にとってカズトがいなくなってしまうきっかけであったこの婚約は、なにがなんでも解消したかった。だからこそ、首を縦に振るしかなかった。
結果、確かに婚約は解消されたようだった。それでも、心に残ったのは虚無感だけ。
このことをカズトに教えることも出来なければ、カズトが戻ってくることもない。ぽっかりと空いた心だけが残って、いっそ苦しくなった。
空っぽの心を抱えたまま、気が付けば四年が経っていた。
何も感じない、何も見えない日々だけが続くと思っていた。
そんな中で、あの琥珀色を——月の光を、また見ることが出来るなんて、思ってもみなかった。
——今度こそ、手放してなるものか。
もう迷いたくない。そのためなら、どんな手段だってとってみせる。
まるで映画にでも出てきそうな大きな洋館を前に、はあ、と小さくため息をついてしまう。目の前にそびえたつのは、俺が生まれ育った家だ。今は別の家で一人暮らしをしているから、この家に帰ってくるのは久々になる。
正直、あまり来たくはない。しかし、あの両親に話をするには、この家に帰ってくるのが一番手っ取り早かった。
くるりとUターンしそうになるほど嫌な気持ちを、どうにか奮い立たせて屋敷の扉を開く。数秒もしないうちに、一人の男が顔を出した。こちらを見て、嬉しそうににこりと笑ってみせる。その人の好さそうな笑顔は、俺にとってこの家で数少ない『好き』なものの一つだ。
「おかえりなさいませ、ハルキ様」
ピシッとキメられたスーツに、一切隙の無い一礼。綺麗に整えられた白髪と白髭は、いつ見ても変わらない。
頭をあげて微笑んだ目の前の男は、この星空家に勤める執事の折原さんだ。本人は「ただの雑用係です」なんて言っているが、その振る舞いはどう見たって執事なので、俺は執事だと思っている。
幼いころの俺の面倒を見てくれた——いわゆる親代わり、ともいえる人。感情の機微に疎い俺に、『感情とは何か』を根気強く、そして優しく教えてくれた。「折原、とお呼びください」とよく言われるが、俺にとっては今でも親代わりのようなもので、呼び捨てになど出来るはずもなく。今でも昔と同じように呼び続けている。
カズトに出会った時の興奮を折原さんに話したとき、「それは、いい友人になれそうですね」と涙ぐみながら微笑んでくれた。俺を信じ、カズトのことも好意的にみてくれる、限られた身内だ。
身内、といっても、どこまでを身内といったものか。
母さんは正直よくわからない。昔から表情が硬い人だった。父さんの後ろに立って、静かにしている印象が強い。世間一般の母親らしいことをされた記憶は、あまりなかった。
父さんは信用ならない。出世と利益のことばかりを考え、息子の俺にさえそれを押し付けている。婚約を勝手に決めたのも父さんだ。
妹はすでに家を出ている。家族の中では一番優しく、感情が豊かな妹は、最愛の人を見つけて結婚した。今は一児の母として、この館の外で暮らしている。連絡はあまりとっていない。元気でいればそれでいい。
血は確実に繋がっているのに、よくもまあこんなにバラバラになったものだと思う。仲の良いカズトの家とは、雲泥の差だ。
そんな中、執事の折原さんは今の星空家で唯一信用できる存在、と言っても過言ではなかった。久々に顔が見られて、少し嬉しく思う。さっきまでの緊張した体から、ふっと力が抜けていく気がした。
「……折原さん、ただいま」
「こちらの本家にお帰りということは、旦那様と奥様に何かご用事でも?」
「そんなところです。二人は?」
「奥様は自室に。旦那様はもうすぐお勤めからお帰りになられます」
折原さんに上着を預けつつ、もらった情報を頭に入れる。母さんに話をしても、あまり状況は変わる気がしない。とりあえずは父さんだろうと、家長が帰ってくる場である書斎に足を向けた。
「……ハルキ様」
上着を畳みながら、折原さんがじっとこちらを見つめる。何かあったかと怪訝に思っていたら、にっこりと嬉しそうに微笑んだ。
「とても、真っすぐに前を見る目をしておられます。何か、ありましたかな?」
折原さんから言われた言葉に、目を見開いてしまった。特に何も伝えていないのに、折原さんはまるで心を読んだかのように悟ってくることがある。
昔から、この人は感情を察するのがうますぎる。まったく、この執事にはかなわない。
「……カズトに、会ったんです」
「なんと、カズトさんに」
先日のことを言えば、さすがの折原さんも驚いたようで、眼鏡の奥の小さな目をくりくりと丸くしている。俺がカズトを失った際にどれだけ自棄になったか知っている折原さんだからこそ、驚きも大きいのだろう。俺がこの家に帰ってきた時以上に、折原さんは頬を緩めて笑った。自分のことのように喜んでくれるのは、俺も嬉しい。
「お久しぶりになりますね。何年ぶりでしょうか」
「四年になります。だから、今度こそ……手放したくない」
今日この館に来たのは、そのためだ。
以前のようなことを、またさせるつもりはない。念押しのために、わざわざこの館までやってきたのだ。
俺の真意を悟ったのか、折原さんは神妙に小さく頷いた。かと思うと、その場で立ち止まり、小さく呟いた。
「……ハルキ様。少しだけ、昔話をさせてください」
折原さんらしくない言葉だ。いつだってきびきびして、自分の意見も行動も迷わない人だというのに、突然どうしたのか。怪訝に思う俺の前で、折原さんは静かに言葉を続けた。
「私は昔、間違いを犯しました。今までずっと、それを誰にもお伝えできずにおります。ハルキ様、貴方にも」
「……? 一体何のことですか」
首を傾げた俺の質問に、折原さんは静かに答えた。
「……ハルキ様の婚約のことを——カズトさんにお伝えしたのは、私です」
——今、何といった?
予想外の告白に、息が止まるかと思った。
カズトが俺の婚約のことをどこから知ったのか、確かに気にはなっていた。しかし、まさか一番信頼していた場所からその話が出てくるとは思わなかった。
体を震わせそうになる俺の前で、折原さんは続けた。
「四年前、でしょうか。カズトさんに尋ねられたのです。——先日、ハルキ様の隣を歩いていた女性は誰か、と。
私は、あの方はハルキ様の婚約者になられたのだと、旦那様から聞いておりましたので。
……そのままの内容を、カズト様に」
——ああ、そういうことか。
どうしようもできないもどかしさに、思わず唇を噛む。
折原さんは、自分の仕事をしただけだ。親戚の女子を婚約者に迎えると、父さんが折原さんに伝えたのだろう。折原さんに言えば、カズトにだって伝わると見抜いていた。父さんは折原さんがカズトに優しくしていたのも知っていたし、カズトが折原さんに懐いていたのも知っていたはずだ。それをわかっていて、父さんは折原さんに婚約者の件を伝えた。父さんは折原さんの雇い主にあたる。『聞かれたら正直に答えるように』なんて密かに言われていたとしてもおかしくないし、それを折原さんが断れるわけがない。
「長くこの仕事をしているのに、ダメですね。私は。一番大事な時に、こうやってご迷惑をおかけしてしまう」
「折原さんは、悪くない。貴方は父さんの言葉をそのまま伝えた、仕事をしただけです」
「……そうですね。確かに、仕事をしただけです。
そして私は、れっきとした勤め人ですので。自分のとった行動には。きちんと責任を持ちたいのです」
「折原さん……」
こちらを見つめ、折原さんはそう言ってにこりと笑った。
「そろそろ、旦那様がお帰りになられます。
先に書斎にてお待ちください。旦那様には、私からハルキ様のことをお伝えしておきます」
深々と礼をした折原さんの姿は、初めて会った時から変わらず、カッコよかった。
俺の父親である星空幸三は、三男という立場で星空家の家督を継いだ男だと、昔折原さんから聞いた。あまり詳しいことは教えてくれてなかったが、この星空家というものを、とても大切に思っているのだとも言っていた。
——その話を聞いてから、『大切』とはなんだろう、と……俺は父さんを見るたびに思う。
小学校で、街中で、宝物のようにわが子を抱きしめる親を見ることは少なくない。
けれど、父さんが俺と妹に触れてくれた記憶は、なかった。
家を守る為。企業を儲けさせるため。その為ならなんだってやる父さん。それ以外に、ほとんど見向きもしなかった父さん。
その後ろ姿を見て育ったから——と理由にするつもりはないけれど。
俺は今でも、自分の全てをかけたいと思うほどに、何かを大切に思ったことがない。
——たった一人。月の光を持つ人を、除いては。
父さんの書斎は、古びた洋室だ。昔から一家の長はここを自室としていたとかなんとかで、古めかしい装飾が多くみられる。また、父さんは囲碁と将棋がささやかな趣味だ。部屋の一角には、昔から碁盤と将棋盤が置いてあった。この趣味は今でも変わらないらしい。棋譜でも並べていたのか、それとも詰碁や詰将棋でもしていたのか。盤面には駒と石がそれぞれ、中途半端に置いてあった。
父さんに囲碁も将棋も教わったことはないから、どんな盤面かはさっぱり分からない。まるで散らかっているようにしか見えないそれをじっと見ていると、がちゃりと書斎の扉が開かれた。仕事のカバンを持った父さんが、俺を見て目を丸くした。
「……折原から聞いていたが、本当に帰ってきていたとはな」
どこかの企業と会議でもしてきたのだろう。ご立派なスーツを着て、傷のないカバンを書斎の机の上に置いた。
みっともない恰好をしているとナメられる——とは、何歳の頃にきいた父さんの言葉だっただろうか。今でも父さんのその姿勢は変わらないらしい。
婚約の一件から、俺は父さんとは距離を置いていた。大学在籍時から一人暮らしも始めた。『仕事さえこなしてくれたらそれでいい』というスタンスで、父さんもあっさりと俺の一人暮らしの許可を出した。それ以来、直接聞く必要のある仕事がない限り、俺はこの家には帰ってきていない。
息子が帰ってきて、驚くだけの父親。そんな父親を見て、何も感じない俺。家族として、親子として、何かが終わってしまっているのかもしれない。
「せっかく帰ってきたなら、こっちの仕事を手伝っていけ。お前に引き継がせたい仕事が山のようにある。それから——」
「父さん。話があります」
勝手に話を進めそうな父さんを遮って、声をかける。
父さんは少し顔を顰めて、俺に向き直った。
「改まって、なんだ」
「婚約の、解消についてです」
「なんだなんだ、また婚約してくれる気になったのか」
いい話題だと思ったのか、父さんはほんの少しだけ雰囲気を和らげた。しかし、そんなわけはない。俺がどんな気持ちで、どんな思いで、この数年を過ごしたか。あの勝手な婚約がどれほど影響を与えたか。知らないはずがない。
「会わせたい人がいます。父さんと、母さんに」
そこまで言ってしまえば、それが親戚のあの子ではないことくらい、流石に父さんも察しがついたらしい。顔を顰めて、書斎の椅子に座り込んだ。その耳にきちんと聞こえるよう、しっかりと声を出して告げる。
「だから、その前に再確認を。……彼女との婚約は、本当に解消してくれているんですね」
「ああ。それが約束だからな」
いっそ投げやりともとれる言葉。今でも何か思うところがあるのかもしれない。しかしそれは、こちらでも同じこと。
「それなら、問題ありません。少し、時間はかかるかもしれませんが。
……必ず、会ってもらいます。
四年前、貴方がしたようなことは、もう許しません」
カズトの存在を察した父さんが、強制的な婚約をとりつけたこと。
それを密かにカズトに知られるように手を回したこと。
今でも、許すつもりはない。
そして、同じような手段を許すつもりも、ない。
黙ったまま何も言わない父さんを横目に、俺は書斎のノブに手をかけた。
たったひとつ、大切に思えるようになった人を。
今度こそ、失いたくないと思うから。
息子が出て行った扉を見て、小さく息を吐く。
大事に育てた息子だ。しかし、最近はどうも反抗が目立っていけない。
息子——ハルキだって人間だ。自分の意見を持つこともあるだろう。それは構わない。
しかし、この家の害になることだけは、断じて許すことは出来ない。たとえそれが、血を分けた息子であろうとも、だ。
仕事に行く前、少し触っていた碁盤の前に立つ。プロ棋士の棋譜を並べていたそれは、中途半端なところで手が止まっていた。
囲碁と将棋はいい。相手の手を考え、そこから自分の手を考える。隠された意思を読み取り、効率を考えることができる。思考を集中させたいときに、私はよくこの盤を使うのだ。
息子の——陽輝の思惑は、だいたい察しがつく。だからこそ、私はその反抗を許すわけにはいかない。
「……少し、手を入れなくてはいかんかな」
一子の黒石を手に取ると、パチ、と盤面に打ち込んだ。それは一切の白の反撃を許さない、黒の抑圧の一手。
既に、その中身も考えてある。
この家を、絶対に失う訳にはいかない。
陽輝。たった一人の息子。
お前は『星空家』の大事なピースのひとつだということを、忘れられたら困るのだ。