俺の住む家が少し特別なのかもしれない、という自覚は、割と早くからあった。
いつでも誰かに頭を下げられていた、父さんと母さん。特に父さんは、幼い俺の前でも平気で、他の大人を頭ごなしに𠮟りつける人だった。その上で、叱られた側も「すみません」と平謝りするばかりだった。
親だけが特別なのかとも思っていたけれど、まだ子供の俺にも、知らない大人の影は何度も近づいてきた。
会ったこともない、両親くらいの大人が、俺なんかにへこへこと頭を下げてくる。名刺を渡してくる。『お元気ですか』なんて、敬語をつかってくる。意味が分からなくて、怖かった。
更に恐ろしかったのは、父さんと母さんの見ていないところでは、その人たちが嫌な言葉を沢山話していたことだ。
星空家は利益の為なら手段を選ばない。
とても冷酷で恐ろしい。
あの男に睨まれないようにしておかないと。
頭を下げておけば、悪いようにはされない。
敵にならないようにだけしておこう。怖い怖い。
……陰でそんなことを言っておきながら、両親の前ではやっぱり『お世話になっております』と深々と頭を下げて、にこにこと笑ってみせるのだ。
怖くて、気持ち悪くて、醜いと思った。彼らを軽蔑した。あんな風になりたくなかった。俺たち家族に向ける貼り付けた笑顔は、まるで汚い泥を纏っているかのように汚らしくみえた。
だから——というわけでもないけれど。俺は気づいた時から、笑わなくなった。
楽しくも嬉しくもないのに笑うなんて、そいつらと同じような気がして。泥を被っているような気がして、酷く気持ち悪かったのだ。
父さんは、笑わない俺を気にも留めなかった。母さんと妹は、俺がどれだけ仏頂面でも、何を考えているのかわかっていたようだった。ありがたい。
子供の多い環境のほうが、好きだった。汚い泥のような大人の中にいるより、子どもの中にいる方が少しだけマシに思えたからだ。子どもは変に取り繕ったりしない。善意は善意の、悪意は悪意の顔をしている。
それでも、五歳までは殆ど家にいた。執事である折原さんが、保父の代わりのように面倒を見てくれた。初めての集団活動ともいえる小学校は、母さんの意向もあって近所の公立に通うことになった。
見たことのない子がいると、周りは好機の色を隠さなかった。段々とそれは、どこからか漏れ出た情報で『金持ちの子』というレッテルに変わった。そうなった途端、子どもでも悪賢いやつはいるもので。
特に男子はしつこかった。所謂『悪ガキ』と言われるやつらは、俺のことをことあるごとにからかってきた。「うるさいなあ」と思うくらいで一切のダメージはなかったけれども、普通に迷惑ではあった。鬱陶しかったのだ。
更に嫌なことに、二年生になったある日の悪ガキたちは、いつもよりしつこかった。俺の持っているものを見て「高く売れるんじゃないか」なんて言って、べたべた触りはじめたのだ。
何か物を取られたら、流石に両親も煩いかもしれない。しかし珍しく会話をして余計に向こうを興奮させることになっても困る。さあ、どうしたものか。
表情を隠すのが癖になっていたから顔には出なかったけれど、実は少し焦っていた。
そんな瞬間だった。
俺のランドセルを触っていた悪ガキの身体が、目の前でぐりんと一回転して、飛んでった。
あれはいつでも思い出せる。何十年たっても忘れないだろうと思えるほどの、素晴らしい一回転だった。しかも悪ガキは顔面から落ちた。鼻血を出していたような気がするが、今思えば一回転して顔面着地した小学生が鼻血で済んだのだから、あれはあれで奇跡だったんじゃないだろうか。
悪ガキが飛んで行った方と反対側を見ると、ランドセルに着られているのではと思うくらい小さな体が、堂々と仁王立ちしていた。
『言っていいことと、悪いことの区別もつかねーのかよ! ばーか!』
悪ガキを空高く蹴飛ばした張本人は、そう胸を張って高らかに叫んでいた。
小さな体と、月みたいにきらきらした大きな瞳が印象的だった。そういえば、見たことがある。年下の小さな一年生。双子の片割れ。
ああ、綺麗な月の光だと、思った。
瞳が綺麗だった。堂々と仁王立ちする姿が、綺麗だった。自分より二回り以上も大きい男子に立ち向かう、その横顔が、綺麗だった。
呆然として何も言えなくなった俺の目の前で、なんと今度は殴り合いのけんかが始まった。悪ガキたちもタダでやられるわけではない。月の光のような彼が、悪ガキを一人吹っ飛ばしたことを思えば必然だろう。
ことの発端は俺であるのは違いないが、どんどん俺以外の複数人が喧嘩を始め、今では誰も俺を見ていない。どうしたらいいか分からなくておろおろしてたら、電柱の影から折原さんがこっそり手招きしてた。
近づいたら「怪我をするといけませんので今のうちに」と、ほぼ強制的に車に乗せられた。
乗せられた後部座席の窓から、彼らの喧嘩をじっとみることになって。
どんどん遠くなる中、またあの小さな子が悪ガキを吹っ飛ばした姿が見えた。
悪ガキに困ったとか、喧嘩に驚いたとか、そんな感情は全部どっかに行ってしまった。
記憶の中に輝くのは、あの琥珀色の輝きばかりで。
あの月の光みたいな彼に。
また、会いたいと思った。
次の日の朝。折原に無理を言って、少し朝早めに校門まで送ってもらった。ちょっとしつこいと思われるかも、と思ったけど、学校に登校する彼を見つけるためだった。
案の定、少し待つと昨日と同じ光を見かけた。胸が高鳴った。
思わず声をかけて「ありがとう」って。一言だけ伝えた。
小さな声になってしまったけど、聞こえたらしい。
その時に腹を抱えてげらげらと笑われた理由は、今でもちょっとよく分からないし、何度教えてもらってもさっぱりわからないけれど。
あの時の君の輝きを——俺は一度だって、忘れたことはないんだ。