企業の偉い人が集まるパーティで、いわゆる「元カレ」に偶然再会した。
その場からは逃げたけれど、押し付けられた連絡先は捨てられず。
まあでも、こっちは新規企業の端くれで、アイツは日本有数の巨大企業の御曹司。うっすら会社の繋がりはあるけど、あくまで「うっすら」なワケだし。そう簡単に二度も三度も会うわけないだろうって、高を括ってた。
——ここで思い出すべきだったんだ。オレはよく、サクに「もっと考えろ」って言われることを。
数日前に抱いた考えが、いかに甘かったのか。オレは今、現在進行形で思い知っている。
「この度、星空カンパニーの代表として来ていただきました、
——な、なんでいるんだよーーーーーー!!
都内某所、夜空カンパニーの会議室。夜空の企画部の職員と、その企画に参加するオレ。そんなその場に、当たり前のようにハルキが座っていた。
実際に叫びだしてしまいそうなのをぐっとガマンしたオレを誰か褒めてほしいくらいだ。代わりに心の中で大絶叫した。
オレの心の叫びなんて、アイツは聞いちゃいない。知る由もないんだから当たり前だけど、察しろよとは思う。ニブチンか。変わってねえな、こいつ。
平然としたツラで、ハルキは俺の目の前に座っている。先日見たのと全く同じ姿がそこにはあって、まるで時間が巻き戻ってしまったかのようにさえ感じる。おかしいな、あのパーティからはオレ、帰ってきたはずなんだけど。
「この度、わたくしどもの会議にぜひ参加したいと……星空カンパニーの方から、たっての希望でして」
「は、はあ……」
嬉しそうな夜空カンパニーの職員の兄ちゃんとは別に、オレは冷や汗が止まらない。この夜空の職員さんには、今まで何度か会ったことがある。裏表がなく、仕事熱心ないい人だ。この場で大絶叫してソッコーで走って逃げ出してしまいたいけど、この人に迷惑をかけたくはない。
というか、流石に仕事に支障は出したくない。オレにだってそれくらいの分別はある。しかし、この状況だって大問題だ。会社の人がいる仕事の場では、何も言ってこない……と思うけど、どうあがいても居心地は最悪だ。
「月島さん? お具合でも……?」
「あ、いや、なんでも! さ、さあ、会議始めましょうか!」
明らかに不自然な態度をとってしまったオレに首を傾げつつ、夜空カンパニー側も会議を始めてくれた。お兄さん、何も聞かずにいてくれてありがとう、助かる。心の中でオレは盛大に土下座した。
今日の本題である会議、つまり仕事が始まってしまえば、流石に思考もスイッチが入ってくる。あえてハルキを視界から外しつつ、オレは会議の内容に集中した。
わざわざ夜空の本社にまで会議で出張しなきゃいけなかったくらいだ。決めなくちゃいけないことは山ほどある。こちらが夜空側にお願いをすることもあるし、逆に妥協しちゃいけないこともある。匙加減が難しい。色々資料が必要だったり、この場で決めるのが難しい内容については、持ち帰って検討して後日データで送ったりしなきゃいけない。そのための検討事項だって簡潔にまとめなきゃいけないし——なんて、バカなオレなりに精一杯頭をつかっているうちに、気づけば会議は終わりを迎えていた。
夜空のお兄さんがパタンとバインダーを閉じた音で、終わったんだとやっと実感する。思いっきりため息をつきそうになったオレに比べて、目の前のお兄さんも、そしてハルキも疲れた様子がほとんどないみたいだった。嘘だろ。社会人怖い。
「——それでは、月島さん。今後の展開はこのように。また検討内容については、お互いに持ち帰ってまた練り直すということで」
「はい、よろしくお願いします。これからもお世話になります」
トントン、と書類を纏めながら、夜空のお兄さんがにこりと微笑む。
それにニッコリと笑って返して——全てを思い出したオレは、速攻で席を立った。夜空のお兄さんがギョッとしている。
「月島さん?」
「申し訳ありません、ちょっとこのあと用事があって、お先に失礼します!」
「それでしたら玄関までお見送りを……」
「いえ、だいじょ、結構です! お気遣いありがとうゴザイマス、それではまた!」
社会人としては少々、いやだいぶ失礼なことを承知の上で、一度だけ深々と頭を下げた後に部屋から駆けだした。善は急げというか、逃げるが勝ちというか。兎に角、ここは一刻も早くこの場を去るに越したことはない。
あとであのお兄さんに、詫びの電話をしておかなきゃ。サクにも呆れられるだろうけど、仕方ない。
色んな心配事とかを吹っ切るように、オレは今出せる最大の速さで、夜空の本社を飛び出した。
これだけ駆け足になったのは何年ぶりだろう。中学とか、高校の陸上部の助っ人以来だろうか。
留学先で友達と走ったり、大学の授業に遅刻しそうになって走ったことはあったかもしれない。でもここまで必死じゃなかったのは確実だ。
そういえば、小学校の運動会で、ハルキと並んで走ったこともあったなあ。絶対に負けたくなくて、振り向かずにゴールまで駆け抜けた。あの時はかろうじて勝ったけど、今はどうだろう……なんて、またハルキのことを思い出してしまった。
忘れたいのに、思い出してしまう。イライラして、でも嬉しくて、やっぱり腹が立つ。
また、ちぐはぐ。この間のパーティからそうだ。……いや、もっと前から、そうだったのかもしれない。
夜空の本社からそれなりに遠ざかっただろうか、流石に走り疲れて、適当な公園で立ち止まった。まだ桜の花が残る小さな公園に、息切れした男が一人。似合わないったらない。四月はある程度過ごしやすいとはいえ、走り続けられるわけじゃない。汗だってかく。
というかそもそも、そんな歳でもない。悲しいことに、デスクワーク多めで運動不足気味なのだ。額から汗が滲むのを感じながら、膝に手をついて、肩で息をした。
疲労で真っ白になりつつある思考の中で、たった一人の顔が鮮明に浮かんでくる。カンベンしてくれ。皮肉すぎて笑ってしまう。
その顔に会いたくなくて。忘れたくて。だから、こんなに必死だっていうのに。
ハッ、って、自分で自分を鼻で笑った。その時だった。
「——カズト」
……幻聴かと思った。同時に『やっぱり』とも思った。昔のままのアイツなら。パーティ会場で追いかけてきて、名刺を押し付けるようなアイツなら。逃がしてくれるワケがない。
聞きなれた声。忘れられない声。低く掠れた心地いい声は、昔と変わらない。ほんの少しだけ『懐かしいなあ』なんて思ってしまう自分もいて、呑気かよって自分でつっこんだ。
息を整えながらゆっくり振り返ると、さっきまで同じ会議室に居たハルキがその場にいた。ホント、昔と殆ど変わってない。背が高くて、腹が立つくらい顔がよくて。オレのことをじっと見る目は、相変わらずアメジストみたいにキレイなんだ。
四月。桜の木の下。青い空と、薄紅色。ああ、あったなあ、こんな景色。忘れたかったんだけどなあ。
ていうかハルキのやつ、ほとんど息切れてない。スーツもあんまり乱れてないように見える。嘘だろ。同じ距離走ったはずなんだけど。相変わらずのスーパーマンか?
その場にボーッと突っ立って、そんな現実逃避まがいのことを考えていると、目の前に立つハルキにもう一度、名前を呼ばれた。
「カズト」
「……」
返事を求めるような声だったけど……オレは、何も出来なかった。
逃げようにも、身体が動かない。走って疲れているから、だけじゃない。
返事をしようにも、言葉が出ない。何を話していいか分からない。
だって、当たり前じゃないか。逃げたのは、オレなんだ。オレの方から、全部投げ捨てて逃げたんだ。
ハルキの為を想ってのことだとしても、全て切り捨てたのは間違いない。
——そんなオレが、今更、何を言えるっていうんだ。
理由はちゃんとある。言い訳なんていくらでも出来る。でも、したくなかった。そうしたら、自分の弱さをさらけ出してしまう気がしたから。
口を閉じたままのオレに、ハルキは問いかけつづけた。
「連絡がとれなくなって、心配した」
「……」
「あの後、どうしてたんだ。海外留学した、って」
「……んだよ。文句あんのか」
やっとオレからちゃんと出た言葉は、たった一言。雑な悪態だけ。それでも少し、言葉が震えた。
唇まで震わせる俺に、ハルキはゆっくりと告げた。
「……カズトと、ちゃんと話したかった」
——ちゃんと? 何を?
——オレは、全部知ってんのに?
思わず息を飲んで、そして、小さく笑ってしまった。
昔遮断したはずの感情が、溢れてくる。苛立ち。悲しみ。愛おしさ。
腹の底からぐちゃぐちゃと湧いて出て、混ざっていく。
やっと忘れたと思ったのに。やっと、捨てられたと思ったのに。
この男は、嫌なものを引っ張り出してくれるじゃないか。
——今でも忘れない。忘れられない。見間違えたはずがない。
ハルキと、知らない女の人が並んでいた、後ろ姿を。
「……奥さんに悪いだろ。元、カレ? と、ダラダラ連絡とってんの。不倫だ、って言われんぞ」
二人の姿を街で見かけたのは偶然だった。星空の家にずっと務めている執事の人に聞いたら「婚約者、だそうです」って言われた。頭が真っ白になった。執事の人がもっと何か言っていたけど、もうどうでも良かった。
あれがきっかけで、オレはお前との関係を断ったんだ。だって、わかりきってたんだ。コイツは大企業の御曹司で、オレが傍にいちゃいけないんだって。幸せを願うなら、オレは居ちゃいけないんだって。わかってた。わかってて見て見ぬふりをしていたことを、わざわざ再認識させられたら。もう、その場から逃げることしかできなかった。これでいいだろ、って。半分やけくそだった。
なんでもないように、笑って言ってみせる。声を震わせないようにするのが大変だ。
ハルキはオレの言葉に、目を真ん丸にして驚いてた。
婚約者のこと、知らないとでも思ったか。オレだってちゃんと知ってたんだぞ、なんて心の中で悪態をつく。
そうしたらハルキは視線を伏せて、小声で、でもはっきりと言った。
「……結婚なんて、していない。婚約も、もうしてない」
「は?」
今度はオレが目を丸くするはめになった。何を言ってんだ、こいつは。
オレはお前と婚約者が並んでる姿まで見たんだぞ。執事のじいちゃんにまで聞いたんだ。
眉を寄せて怪しむオレに対して、ハルキは少しだけ考えて、自身の左手を持ち上げてみせた。何度も見たことのある、何度も触れたことのある、ハルキの手。
あれから四年だ。ハルキも二十三歳だ。いいとこの坊ちゃんなわけだし、婚約相手ととっくに入籍して当たり前、だと、思った。
——そこの薬指に、指輪は無かった。
まあ、いやいや、このご時世。結婚指輪をしない大人なんて腐るほどいる。現場職とか、相手がいませんをウリにしている人とか、外に関係がバレたくない人とか……なんてところまで考えて、そのどれにもハルキが当てはまらないことに気付いた。
……ん? ええと、てことは、ちょっと待て。だってあれから四年も経ってるんだ。四年。しかもお前、星空家の跡継ぎだろう。結婚してなきゃおかしい。多分、そのはず。なんで。
「だって、ハルキお前、四年だぞ。四年も、なんで」
「——カズトと、一緒にいたかったから」
当たり前だと言わんばかりに、端的に。まるで自分の名前や住所を言うように、ハルキは告げた。真っすぐに俺を見つめる視線は、あの時と変わっていない。同じ高校に通っていた、あの頃。想いを誓い合ったあの日と、同じ顔で、同じ声で。
「婚約は、家の決めたことだった。俺は後から知らされた。あの後、すぐに婚約は解消したんだ。
お前のことだけ、カズトだけが好きだったから」
淡々と、でも縋るように言われて、胸の奥がムズムズしてしまう。
家が決めたことだろう、なんて、知ってるよそんなこと。お前が婚約なんて、あっさり受け入れるわけないって、わかってた。
それでも、オレから離れたんだ。そうするべき、だったから。なのに。
——なあ、やめろよ。期待しちゃうだろ。
腹の中に溜まった感情が、さらにぐちゃぐちゃ、ぐるぐるする。抑えられない。口から吐き出す息に、そんなぐちゃぐちゃしたものが乗ってそうなくらいだ。
ふと、オレの左手を見ながら、ハルキが聞いてきた。
「お前は。 結婚とか、してるのか」
「……して、ないけど」
辛うじて、一言だけ返す。言葉が震えたのには気づかないでいてほしい。
というか、見てわかんねえのかよ。オレは左手に指輪もなんもしてねえだろうが。大体、誰のせいで結婚できてないと思ってんだ、コノヤロウ。腹立つ。
心臓に毛がはえている双子の兄みたく、息をするように悪態がつければどれほど良かっただろうか。今ほど羨ましく思う瞬間はなかった。
身体を強張らせるオレの前に、ハルキは歩みよってくる。その場から逃げたかったけど、足は全然動けなくて。頭はやっぱり真っ白で、腹の中はぐるぐるしてて。
どうしようも出来ないオレの目の前まで来たハルキは——その場で、オレの左手を、手に取った。
まるで結婚式とかで見るような、新郎が指輪をはめる時のような、そんな姿。
背後には桜が散っている青空が見えていて。すらっとした体躯と、かっこいいスーツ姿も相まって、それらはあまりに絵になりすぎていた。ちょっとうっかりときめいたんだけど。どうしてくれる。
パニック極まったオレの左手、薬指の付け根。
未来の約束をする、唯一の場所。
そこに——ハルキはゆっくりと、唇を落とした。
「言葉が、足りなかったかもしれない。
もう一回。約束、させてほしい」
オレを真っすぐに見つめるその瞳の色は、ずっと変わらない。
オレの大好きな深い紫色が、オレだけを映してる。嬉しいと思ってしまう気持ちが隠せなくて、苦しい。
手のひらから伝わる温かさが、嬉しくて、怖かった。
「もう一度。約束させてくれ。これからの人生を、一緒に歩むと。
俺の気持ちは、あの時と少しも変わってない
今度こそ、お前の隣に居たいんだ」
愛した人からの、未来の約束。
待ち望む人は多いだろう。
オレだって、本当なら、どれほど嬉しかっただろうか。嬉しい、という気持ちだけを抱けたなら、どれほど良かっただろうか。
手が震える。唇が震える。どうにか我慢してたぐちゃぐちゃした感情が、ついにあふれ出した。
——何で、そんなこと言っちまうんだよ。受け取れるわけが、ないじゃないか。
「……は、はは」
乾いた笑いが、掠れながらこぼれた。
頬を、何かが伝う感触がする。地面に透明なソレがぽたりと落ちて、ああ、涙か、とぼんやり思った。
「カズト……?」
「……もう、おせえよ、バカハルキ……」
呆然とするハルキの手を振り払う。そのまま、一目散に駆けだした。
「カズト!」
遙か後方で、ハルキの声がする。でも、絶対に止まってなんてやらない。
オレが何を思って。どうして留学までしたのか、知らないくせに。
そうやって、オレの欲しい言葉ばかり押し付けて。
それが、ひどく辛かった。
それに、今更手を伸ばされても、オレにそれをとる資格なんてない。
出来るわけ、ないじゃないか。
——オレは、もう別の手をとった後なんだから。