『お前の親、本当は死んでるってマジ?』
心無い言葉に思わず振り返れば、小さな影が二つ。何かに耐えるように寄り添っていた。
あいつと初めて会った日のことを、よく覚えている。
たった一歳だけ年下のくせに、やけに小さい背丈が二人。よく双子で一緒に居たから、似た顔が二人並んで歩いているのが印象的だった。まだ一年生のくせに、何故かボロボロのランドセルがやけに痛々しかった。
家族がどうとか、意味のわからないことでいじめられていて。双子のうちの片方が、子どもらしい大きくて丸い瞳をよく涙目にしていたのも印象深かった。
でも、あいつは——月島
あいつが伸ばしてくれた手の温かさを、俺は生涯忘れることはないだろう。
だから。
俺は——今でも、あいつを想い続けている。夜空に浮かぶ月灯りのような色の髪を、あの透き通った琥珀色の瞳を、忘れることはない。これから先も、ずっと。
それだけは絶対に、揺らぐことはないんだ。
「かず、と……?」
手の中にあるグラスを落としそうになり、赤いワインの淵が揺れた。
目の前にいる青年の瞳が、大きく見開かれている。琥珀色の大きな瞳は、俺のよく知っているものだ。
月灯りを思わせる薄茶色のふわりとした髪も、大きな琥珀色も、その顔も。見間違えるわけがない。忘れるはずがない。
目の前に立つ彼は、俺がかつて未来を共に誓った——恋人だ。
いや、正確には『だった』なのかもしれない。何しろ、俺の卒業とほぼ同時に、カズトは突然行方をくらませたのだ。電話もメールも全て遮断され、おかしいと思って家を訪ねてみれば、なんと海外留学したと聞いた。帰ってくる日付は教えないでくれと頼まれた、なんて月島の両親に言われてしまえば、ハルキに打つ手はなにもない。むしろここまで徹底的に交流を断ったのであれば、カズトがハルキを《わざと》遠ざけたのは火を見るよりも明らかだ。そんな状態でカズトを追いかけることが正しいのか、ハルキには分からなかった。そんな時でさえ『お前は器用なくせに不器用なんだよな』と、隣で笑ってくれたカズトの顔を思い出してしまった。
見限られたのであれば。カズトの方からの最後通告だったのであれば。それは、ハルキにとって追いかける資格はない。迷惑になるくらいならと、ハルキはカズトを追わなかった。当たり前のように傍に感じていた温もりが消えてしまった喪失感が大きすぎて、何も出来なかったのだ。
しかし、カズトへの想いを忘れることはなかった。忘れられるほど、なかったことにできるほど、最愛の人との思い出は軽くはなかった。
大事に胸に秘めたまま、他の誰とも付き合うことも、結婚することもなく。気づけば、四年の月日がたった。
そして今。
もう二度と会えないかもしれないと思っていた、最愛の人が目の前にいる。動揺するなという方が無理だ。
恐らく、向こうも近い気持ちなのだろう。驚いた顔のまま、完全に動けなくなってしまっている。
思わず固まってしまった俺たちを見て、夜空社長が首を傾げた。
「なんだ、二人とも知り合いかね」
「ええと、はい——少し」
全く声が出ないらしいカズトを見ながら、辛うじてハルキが答えた。恋人、というのも、元恋人、というのも、どちらも正しくないような気がした。どっちにしても、話が出来ていないのだ。この形に、明確な名前なんてつけられるわけがなかった。
「一応紹介しようか。こちら、ワシが今後援しとる企業の若き社長、月島和兎くんだ」
カズトが黙ったまま、少しだけ頭を下げる。ああそうか、と思考のスミで納得する。夜空カンパニーは星空カンパニーと提携関係にあり、星空ホールディングスの一部にあたる。傘下とまでは言い切れずとも、その力関係は星空の方が上だ。そして聞くところによると、どうもカズトは夜空カンパニーの支援を受けている企業に所属しているらしい。それも社長。完全に寝耳に水だ。
星空にしても夜空にしても、企業が企画・提携している業務は果てしなく多い。ひとつひとつを知る由などない。関連企業に名を連ねたとはいえ、新しい会社の社長の名前などハルキも把握していなかった。
まさかそれが今日、こうして、こんなことになるなんて。誰が予想しただろうか。
「で、こちら。ワシの夜空カンパニーの大元である《星空》カンパニーを取り仕切る星空家のご子息で、星空
夜空社長の紹介に合わせるように、小さく会釈だけする。
その紹介文を聞いて、前に立つカズトは更にその目を見開いた。夜空カンパニーと星空カンパニーの繋がりについては、知らなかったのかもしれない。
俺とカズトが困惑する横で、夜空社長は話を進めた。
「陽輝くんは立場だけならワシの上司にあたるんだがな。彼を見るとつい孫を思い出してしまって、気安くなってしまっていかん」
確かに、夜空社長には孫が二人いる。会ったこともある彼らは、ハルキとほぼ同い年だ。よく幼い頃は子ども組として一括りにされていたほどだから、それなりに面識はある。兄の方はなかなかに元気なヤツで、夜空社長はそれを思い出しているんだろう。
「まったく、あのドラ孫は誰に似たんだか。陽輝くんや和兎くんを見習ってほしいもんだ。なあ?」
夜空社長がにこりと人の好い笑みを浮かべてカズトを見るが、カズトは固まったまま返事が出来ない。
怪訝に思った夜空社長は、眉を顰めてもう一度尋ねた。
「……カズト君、どうかしたかね」
「あ、いや」
ちらりと、カズトが俺を見て、直ぐに視線を逸らす。揺れる瞳が、カズトの動揺を如実に表していた。
驚いているのは、彼だけではない。俺だって今、平静を保つのに必死だ。
俺は、会えて嬉しかった。もう一度顔を見ることが出来るなんて、思いもしなかった。
本当なら、この場でもっと話かけたい。あの日、あの時。どうして。
口を開いたオレを見て、カズトは突然——その場でくるりと踵を返した。
「……ごめんなさい、オレ、ちょっと失礼します!」
「お、おい! 和兎くん!」
夜空社長の声も聞かず、それこそ脱兎のごとく、カズトは駆けだした。
一瞬だけ迷って、オレも手に持っていたグラスを傍にいたボーイのトレイに投げ捨てるように置いた。
「っ、人に酔ったのかも。少し休憩できる場所を伝えてきます」
走り出しながら夜空社長に向かって言い捨て、カズトを追いかける。遙か後方で社長の「任せたよ」という声が聞こえたから、きっと大丈夫だ。
人の波を掻き分けて、カズトの背中を追う。昔と変わらない、少し小さめの背中。昔はあの背中に触れられる位置に、いつも居た。
いつの間にか、その背中に触れるどころか、見ることすらできなくなった。
人混みを掻き分けながらもなかなかに追いつけない背中が、些かじれったい。昔から、カズトはすばしっこかった。体育のリレーでも、運動会でも、クラスの中で一番だった。俺も運動は苦手ではなかったけど、カズトには正直勝てる気がしなかった。
今目の前を走っている背中も、あの時と同じだ。だが、今は周りに人がる。あの時とは環境が違った。
人混みに躓いたのだろう、目の前で体勢を崩したカズトの腕を、ようやく掴んだ。
「——カズト!」
掴んだ腕は、振りほどかれない。
振り向いたその顔は、なんだか、とても泣きそうなほどに歪んでいた。
他の人から見えない、少し奥まった場所まで引いていく。
大きな抵抗はしないものの、カズトは終始うつむいたままだった。
「……カズト、なんだな」
「……」
俺の質問に、カズトは答えない。俯いたまま、その表情は見えなかった。
「聞きたいこと、いっぱいあるんだ」
「……オレは、ねえよ」
やっと聞けたカズトの声は、俺のことを拒否するものだった。
声が聞けて嬉しくて。
拒絶されたことが、辛かった。
どうしたらいいか分からなくて、思わず掴んでいた腕に力が入る。カズトの顔が顰められた
「手、離せよ」
「……!」
慌てて手を離そうとして、やめた。
今、手を離したらどうなる。それこそ、もう二度と会えないのではないか。
これが最後のチャンスなんじゃないか。
考えろ。考えろ。考えろ。
反対の手で、ジャケットのポケットに手を入れる。さっき別の人に渡そうとして準備した名刺が、そのまま入っていた。本来ならばカバンにある名刺ケースで保管しているそれは、ポケットに入れたせいで少しぐちゃっとしている気がしたが、今はそんなことを気にしている場合ではない。
取り出した長方形の紙には、ハルキの名前と所属、そして個人直通の電話番号がかかれている。
「……これ、俺の名刺。裏に電話番号が」
「いらね」
全てを言い切ることさえ出来ず、すげなく返される。だが引き下がるわけにもいかない。
「いい。何も言わなくていいから。
これだけ、貰ってくれ」
藁にもすがる思いで、名刺をカズトのポケットにねじ込む。カズトの顔が酷く困惑しているのがわかる。それが辛くて、謝りたくて、でも、やっぱり諦められなかった。
「話したいことも、聞きたいことも、俺にはいっぱいあるんだ。
だから、頼む。また、会いたい」
懇願するように、自分より小さな彼の、琥珀色の瞳を覗き込んだ。
大きな瞳が、泣きそうなほど揺れていて。
昔と変わらない綺麗な瞳が、自分のせいで涙を流しそうになっていることが辛くて。
本当なら引き寄せて抱きしめてしまいたかったその手を、思わず放してしまった。
一歩、二歩。俺から離れたカズトは、そのままくるりと向きを変えて、風のようにその場を走り去って行った。
そこからのことは、正直あまり記憶にない。夜空社長には適当に誤魔化し、オレは帰りの車に乗り込んだ。深夜の街を走る車中、運転手にハンドルを任せ、カバンの中からスマートフォンを取り出して電源を入れる。ありふれたロック画面に、入れる数字は六桁。現れた待ち受けは——最愛の人のものだった。
あの日。あれから、四年。カズトへの繋がりが全て断たれた後、暗証番号も待ち受けも、一度も変えたことはない。いつの日か貰ったCDは、今も自室の棚の中に大事に入れてある。
忘れなければいけなかった。
忘れたくないと願ってしまった。
夢にまでみたあの琥珀色が、すぐ手の届く場所にいた。
それが嬉しくて。
その琥珀色が歪められて、この手の中からするりと抜けて行った。
その事実が、あまりにも胸をしめつけた。
どうか、もう一度。
会って話がしたい。
その手にもう一度、触れさせてほしい。
先ほどまでカズトに触れていた右手のひらを、握りしめる。
彼の手に触れていたあの日に戻れたら——と。
どうしようもないことを、考えてしまった。